腐食
少年は、自分よりも一回りも大きな男を、ずるずると引きずって歩いていた。何しろ立派な体躯の男だったから、少年は両手で男の手首を持って、目一杯体を反らせながら懸命に引きずっている。男の顔がアスファルトに削れようが、思い切り瓦礫にぶつかろうがお構いなしだ。それに男にとっても、丁寧に運ぼうなど無用の気遣いだった。
男は既に死んでいた。それどころかもう変色し腐敗が始まっているような有様だった。
少年が男の手首を握り締めると、腐って溶けた肉へ僅かに指が沈む。指先が手首の腱の間に食い込んでえぐれる。指先にまとわりつく泥のような感触には少年も辟易して唇を歪めるが、吐き気を堪えるのは慣れたものだった。しかしいくら慣れようとも臭気は目に染みて、こぼれる涙を手で拭うことも出来ず、少年は溜息を吐く。
「まったく、あいつは・・・・・・」
憎まれ口も口を突こうというものだ。
そんな折り、また男のでかい図体が倒壊したビルのコンクリート片に引っかかった。鬱憤のたまった少年は死体を睨みつけると、力任せに斜め上へ男の腕を引っ張りあげた。
その瞬間、ぼこっ、といっそ滑稽な音と共に男の手首から先が前腕から外れてしまった。それどころか少年が勢い余って外れた手首を真上まで掲げてしまうものだから、男の手先と一緒になって前腕背側の軟部組織が肘の辺りまでずるりとめくれ上がった。まるでバナナの皮でも剥くように、男の前腕は内側から骨が露出した。住居兼食料を壊された幾つもの蛆虫が断面から頭を覗かせて、抗議するみたいにのたくっている。これにはさすがの少年も顔を背けた。うげ、と表情を歪める。男の手首を振り上げた拍子に、少年の頬へ腐肉のひとかけらがついた。ひどい臭いのするそれを少年は肩のあたりで拭った。
多少形は崩れてしまったが、力任せの甲斐あってこのまま運んでいけそうだ。少年は逡巡ののち、外れてしまった手首とそれに付随した前腕の肉を肘のところで引きちぎると、道端に放り捨て先を目指すことにした。蛆虫たちは既に肉の内側へ潜って見えなくなっていた。まだ手先の残っている方の腕を持ち直した少年は、また手首のくびれを手掛かりに、男を引きずっていく。
やがて少年は目的の場所へと辿り着いた。周囲に背の高い建物のない、住宅街の一軒家だ。その頃には随分と時間も経っていて、この死体を見つけたのは昼過ぎだったというのに、今や日も暮れんとするような頃合いだ。あちこちにぶつけた男の頭はすっかり頭皮が剥げ落ちて頭蓋がきれいに露出していたし、片頬の肉も削げて無くなっていた。あれから丁寧に運んだから、最後まで片腕は形を損なわずにすんだものの、いつの間にか反対の前腕は骨すらどこかに消えていた。何かの拍子に落ちてしまったらしい。
まあいいか、と少年は首を振る。片腕くらいあいつは気にすまい。
「ただいまー」
少年は開きっぱなしになっていたドアをくぐりしな、奥へ向かって声を掛ける。返答がないのはいつものことだ。上がり框の僅かな段差に苦慮しながらも男を引き上げ、土足のまま屋内へと入っていく。アスファルトに削られながらも男の服は布を失っておらず、床では滑って幾らか運びやすかった。多少床にも腐肉がこびりついたが、それは今回に限った話ではない。少年が行く廊下の床には、まるで道案内のように黒々とすじが残っていた。酸化した血液と、乾いてこびりついた肉片と、そういったものが幾重にも塗り込められ、脂肪で上塗りされて容易には落ちなくなっているのだ。
その道標を辿った廊下の先には扉があった。その扉は手前に開くものだったから、男の死体は扉からやや離れたところに置いておく。少年は疲労感でいっぱいになりながらも、声を張って扉を叩いた。
「ねえ、ただいま。入るよ」
「おー」
間の抜けた少女の声が返ってくる。こちらを労う気持ちが微塵にも感じられぬそれに怒る気持ちにもなれず、少年は扉を開ける。
毎度ここまで死体を運び入れていて、その多くは向こうの要望で腐敗し始めたものだというのに、扉の向こう、八畳程度の洋室はいつ来ても嫌な臭いがしなかった。それどころか仄かに甘いような香りまで漂っていて、少年はその香りにいつもどぎまぎした。
先の声の主であり、この部屋の主であり、何より少年が運ぶ死体を心待ちにしていたはずの少女は、奥に置かれたベッドの上で扉へ向いて胡座をかいていた。少年の顔を見るとぱたぱたと片手を振る。
「いつもありがとー」
「はいはい。・・・・・・もう、またそんなものかじって」
「口寂しいの。いいじゃんかよー」
少女が片手にしていたものを見咎めて、少年が眉根を寄せる。少女は歯を立てていたそれから口を離して軽く振った。
「たーくんもどう?」
「いりません」
「ちぇー」
少女が差し出したそれは、軟部組織がきれいに剥がされて白く残った人骨だった。一端が球状で、その根元が大きく隆起しているのを見るに、どうやら大腿骨だと思われる。長さも重みもなんかちょうどいいんだよね、と少女はよく同じ骨を振り回したり、骨端にかじりついたりしていた。放っておけば黴びて黒ずんでしまうようなものだから、いつも新品同様のそれは、形は同じでも出所は定期的に変っているのだろうが。
まったく、と少年は肩をすくめて、廊下に置きっぱなしにしていた死体を部屋まで運び入れた。
「今日はこれ」
すると少女は目をぱっと輝かせる。手にしていた骨など放り投げてぱたぱたと走り寄ってきた。
「わぁ、おっきい。一週間は保つよ。ありがとね」
「この、現金なやつめ」
そうは言いつつも、少年の口元には笑みがある。少年はこうしてこの少女の笑顔を見られるのが何よりも嬉しかった。
少年の笑みをみとめた少女が、突然少年の頬をぺろりと舐めた。
驚いて、顔を真っ赤にした少年が後ずさる。
「な、なにするのさ!」
「ふふ、んや。ほっぺにこれの肉がついていたからとってあげたの」
死体を指で差し、したり顔を少年に向けた少女だったが、彼女もまた頬を僅かに赤らめていた。
ああ、さっきのか・・・・・・。少年は手首を引っこ抜いてしまったときを思い出して独り言ちる。それは納得したが、恥ずかしいものはやはり恥ずかしかった。
「僕は自分の部屋に戻るよ。今日は疲れた。ちょっと寝る」
「そう? わかった、おやすみ」
両手を振る少女に見送られて、少年は少女の部屋を辞した。
扉を閉めて、はふう、と息を吐く。まだ熱い頬を冷ましたくて、少年は頭を振った。そのまま自室へ向かおうとして。
「・・・・・・とりあえず、手、洗うか」
少年は腐肉まみれの両手を見ながら言うのだった。
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