龍
森の奥深く。
小さな泉にさらさらと水が流れ込んでいる。
揺れる水面は陽光を受けて輝き、吹く風は青い木の葉をさらって穏やかな音を立てる。
そのうちに、がさりと調和を乱す音が鳴った。10代の半ばと思われる、体の発達に対してやや幼い面立ちをした少年が、茂みをかき分け泉に辿り着いたところだった。
髪や服についた葉を払いつつ、少年は水辺まで寄る。縁に沿ってぐるり巡りながら、彼は魚の影でも探すように泉を覗き込んでいた。
小さな泉だ、大した時間を掛けずに一周をしてしまう。森を抜けてきたところまで戻ってきてもまだ目的のものは見つからないようで、少年は立ち止まり、向こうの縁まで視線を投げ、首を傾げた。
「あれー?」
変声期に入り始めの、出しづらそうにかすれた声。自分自身でもまだ慣れないのか、少年は顔を顰め、何度か喉を鳴らした。あーあー、と調子を調えて、彼はひとつの名を呼びかける。
澄んだ水底に沈めた玉石のように、静かな輝きを秘めた、透明な響きをもつ名だった。
あるいは森の中にいるのだろうかと振り返った少年の、その背後。泉の中心にひとつ、こぽりと小さな泡が浮いた。少年の気付かぬうちに、次第にそれは数を増し大きさを増し、ついには水面を割って何かが姿を現した。
丈は少年を二人縦に積んでも足りぬほど大きい。泉の底へ沈んでいるであろう体を考えればさらに一回りを数えなければなるまい。山が如く持ち上がった水がざぷりと音をたてて泉の中へ収まったとき、そこにあったのは一体の龍だった。
燃ゆる炎の奥を覗き込んだかのように緋い鱗をもつそれが、握りこぶしほどもある目玉をぎょろりと動かして、少年を認める。僅かに目を細め、まるで喰らいつかんとするように彼へ向けて首をもたげるではないか。
水しぶきを浴び、すっかり濡れ鼠の少年は、やっと泉を振り向いた。既に眼前には龍の顔が迫っている。彼はそれを見上げ、
「やっと見つけた!」
嬉しそうに屈託なく笑ったのだった。それどころか両腕を大きく広げ、龍の顔を包み込むようにそっと抱く。恐ろしい牙や爪を持つはずの龍も、それへ抗うことなく、目を閉じて受け容れていた。
挨拶を済ませた少年は身を離し、あちらこちらと龍の体へ目をやりながら問う。
「もう傷は治ったみたいだね?」
龍は答えない。頭を泉の縁へ降ろすと、そのままうつ伏せに身を横たえてしまった。
しかし、じっと少年を見つめる視線は言葉よりもよほど雄弁にものを語る。少年は龍の頭頂へ片手をつき、硬い鱗に覆われた首の裏へ身を乗り出した。
「あぁ、ここは……。一番、酷かったからね」
彼は残った片手で視線の先、龍の首を撫ぜる。淀みなく流れる川のように並んだ鱗のうち、その一箇所だけが欠落ち、皮膚が露出していた。傷は治っている。跡だけが残ってしまったのだ。
痛ましいと表情を歪め、幾度も手をやる少年に、龍の目にふと柔らかな色が差した。
「お前が悪いわけではあるまい」
簡単にそれだけを言う。
その途端、少年が小鳥のように後ろへ飛びずさった。目を丸くして、開いた口は塞がらず、ただ龍の顔を見つめる。
少年を慮るような言に驚いたわけではない。それ以前、龍が話したことに驚いたのだ。
既にいくらかの時を共に重ねている彼らだが、龍が少年へ口を利いたのはこれが初めてのことだった。少年は、龍が人の言葉を解することすら知らなかった。
口を裂き、鋭い牙をのぞかせながら龍は笑う。その人間くさい表情に少年の驚きは増すばかりだが、それだけには留まらなかった。
体表をほぼ隙間なく覆っていた鱗がばらばらと崩れる。その内にあったはずの肉体までもが空気に溶ける。微かの風に鱗が渦を巻き、少年の手がほんの瞬きのあいだだけその視界を覆ったすぐあと、彼の前から龍は消え、代わりに人が立っていた。
少年と、年の頃は同じと見える少女だ。赤を基調とした簡素な衣服を纏う少女は、小首を傾げ、意地の悪い笑みを少年へ向ける。
少年も馬鹿ではない。ぽつりと、呟くような声で言ったのだった。
「女の子、だったの?」
「さて、それはどうかな」
その声は少年と似た、掠れたものだったが、歳を経たものの渋みを含んでいる。おおよそ、見た目通りの少女が出せるものではあるまい。
「えっと、どうして、いきなり?」
少年は、一度だって龍と話したことはなかったし、人の姿をとれることも知らなかった。害があったわけでもなく、悪意があったわけでもなさそうだが、彼は眉を寄せる。騙されたような気分になったのだ。
対して、少女はあっけらかんと言った。
「なに。お礼だよ、お礼」
自分の姿を、見下ろしたり水面に映したりして確認する彼女は、やがて少年へ自信ありげに胸を反らす。
「かわいいだろう」
「それは、そうだけど」
少年は否定の言葉を持たない。
とはいえ頷きつつも煮え切らない彼に、少女は唇を尖らせた。
「どうした、気に入らないか? それなりだと思うのだが」
「いや、そうじゃなくて。お礼って、どういうこと?」
「ん、そんなの決まっているだろう?」
何を当然のことを、と言いたげに、少女は片眉を上げた。そうして口にするのは、彼らの物語を始めるに相応しい、けれどなんてことのない素直な一言だった。
「お前の隣に、あるためだ」
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