初めてのペット2
今日はパンの耳にしよう。
そう思い立って、仕事帰りに近所のパン屋さんに寄った。目的のパン耳の他にも、良い匂いにつられてついついメロンパンとあんぱんへ手を伸ばし、すっかり顔なじみになってしまった店主のおばさんと少しだけお喋りをしてからパン屋をあとにする。
モモを飼い始めてもう三ヶ月。短いといえばそうだけど、その間でわたしの生活は随分と変わったように思う。
例えばさっきみたいに、お話しする人が増えた。特に八百屋のおじさん。今まで恥ずかしながら自炊の経験などほとんどなかったわたしが、今では毎日のように料理をしている。スーパーと八百屋であんなに値段が違うなんて思いもしなかった。ちょっと媚びるとおまけもしてくれるし。
職場の友人には「穏やかになった」と言われる。お弁当を作り始めたこともあって恋人ができたのかと疑われたりもしたが、残念ながらそんな前向きな理由ではなく、必要に迫られてのことだ。
なにせモモはちょっと珍しいペットだから、それ専用のペットフードがどこにも売っていない。まさかイヌネコの餌をあげるわけにもいかないし、かといってコンビニ弁当をあげるわけにもいかないから、自分で作ってみようと思っただけ。
笑われるといやだから、そんな事情を友人には話していないけど。
モモの分はすごく薄味に、わたしのはそれをさらに味付けして食べる。そんな生活を続けるうち、今まではすごくしょっぱいものを食べていたのかという気付きもあった。最近ではお肌の調子も良くて、家の鏡に向かって一人で笑っていることもある。時々モモに見つかって、首を傾げられあるけれど気にしない。
モモがうちに来てくれてよかった。犬みたいに吠えないし、猫みたいに爪とぎしないし、しつけもしやすいし。時々大変だなって思うときもあるけど、かわいいから許せちゃう。
「ただいまー」
一人暮らしになってからつい三ヶ月前まで口にすることを忘れていた言葉と共に、わたしはアパートの扉を開ける。
真っ暗の廊下を渡ってリビングの電灯をパチッと点ければ、少し離れたところに座ってモモがわたしを見上げていた。
「ただいま」
笑顔でもう一度言うと、モモは返事をするみたいに口をパクパク動かした。声はほとんど出ない。飼い始めたときは不慣れな環境のせいなのかなって思っていたけど、今は喉にある傷のせいな気がしている。本当のところは知らないけれど、ご飯はたくさん食べてくれるし、元気ならまあいいかって気にしないことにしていた。
でもちょっと困ったことがあって、犬みたいに尻尾が生えているわけでもなければ表情の変化も乏しいから、どんなことを思っているのかほとんど分からない。何が楽しくて、何が好きで。そういうのもっと知りたい。試しにゴムボールを買い与えてみはしたけれど、遊んでくれる様子もないしどうしたらいいのだろうって、それが最近の悩み。
そんな中でも小さな発見はあって、
「今日はパンの耳買ってきたよ」
モモはパンの耳が好き、なのだと思う。
言って、わたしが鞄からそれを取りだすと、ゆっくりとだけれどこちらに寄ってきた。足元にまで来たモモの頭に、こちらもおどかさないようにそっと手を置けば、無抵抗に撫でさせてくれる。これも三ヶ月前とは大違いなところだ。
そのあまりのかわいらしいさに、甘やかしてこのままパン耳をあげようかと心が揺らぐけれど、そこはぐっとこらえる。市販の餌が使えない以上、わたしが栄養バランスに気を付けなければいけないのだ。
「ふふっ、ちょっと待っていてね」
かわいそうなことをしている罪悪感をちょっぴり覚えつつ、おあずけにしてパン耳をちゃぶ台の上に置く。これが猫だったりしたら手を伸ばして食べ始めそうなものだけど、モモはちゃんとそこで待っていた。ほんの少しの、ものほしそうな視線をちゃぶ台に向けながらも。
それを横目に見ながら、わたしは急いで夕食の用意をした。と言っても今日はパンを買ってきちゃったから、レタスとパプリカとチーズで簡単な生野菜のサラダを作っただけだけど。たまにはこういう日があってもいいよね?
わたしの分にだけ玉ねぎドレッシングをかけて、同じものがのったお皿を一つは床に、一つはちゃぶ台の上に置いて、準備完了。
それではいただきます、……と言いたいところだけれど今日はちょっと違う。一つ、挑戦してみたいことがあるのだ。
前々から一度やってみたかった、でも懐かれていないと認めるのはいやで勇気が出なかった、キャットフードのCMのあれ。今日こそはやってみよう。
いつもであればここでパン耳をモモのお皿に載せてしまうところを、わたしはそれを一つ手にのせモモの前に差し出した。
食べてくれるかなって、思ったけど。
「はい、どうぞ!」
……ちょっと勢い込みすぎたみたい。
前みたいに部屋の角まで逃げることはないにしても、モモはビクッと震えて身を縮こませてしまった。
他の感情は出にくいのに、怖がっているのだけがよく分かるのは、わたしとしても辛かった。また怖がらせてしまった、と後悔がつのる。
「ごめんごめん、モモ、ごめんね? なにもしないよ」
慌てて手を引っ込めて目線の高さを合わせると、モモはぎゅっと目を閉じて震えていた。今にも涙がこぼれそう。
今日はもうダメかな。そう諦めてパン耳の袋をモモの皿の上でひっくり返そうとしたとき、モモがかふっ、と掠れて声にならない声を出した。
声が出ないのはいつものことだけど、自分からそんなことをするなんて珍しい。驚いて目を向ければ、モモは必死な様子で何かを訴えていた。顔がわたしの手とパンの耳とを行ったり来たりしている。
あ、もしかして。
ほんのり淡い期待のもと、もう一度だけと、パンの耳を手にのせ直してモモの前へ出してみた。
はむっ。
その瞬間、手のひらをくすぐるほのかな感触。気づいたときには、そこにあったパン耳はモモの口にくわえられていた。
むぐむぐと食べてこくりと飲み込むまでを、奇跡の瞬間でも前にしたみたいに目を離さずに見つめてしまった。いや、実際に奇跡みたいなものでしょ、これ。か、感動……!
衝撃から抜け出せないわたしを、食べ終わったモモが不安そうに見上げてくる。その健気な瞳に、ついに我慢出来なくなってわたしはモモに飛びついた。抵抗されるのも構わず、ひたすらに頭を撫で回す。
「よかった、よかったよっ」
大袈裟にすぎるのかもしれないけれど、ここにいるのはわたしとモモだけだ、この感動を表現しないではいられなかった。モモにも伝わればいいと、言葉と一緒に、さらにぎゅって抱きしめた。
「せっかく飼ったペットに、いつまでも嫌われたままじゃいやだもん。これからもっと大切にするからね!」
そう口にすれば、まるで本当に伝わったみたいに、ピタリとモモの抵抗がやんだ。これは、さらにわたしに懐いてくれたりしたのだろうか。
モモの心の内を頑張って考えながら、ふふっ、とわたしは笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます