第26話 対峙

 海玲が泣き止むのを待った後、今この時だけはDVのことを忘れさせてあげたいと思った翔太は、いつか海玲との会話の肥やしにしようと思ってスマホに保存していた、可愛い動物の動画集を彼女に見せることにした。

 それが功を奏し、少しずつ海玲はいつもの明るさを取り戻していった。


 ――そう確信した翔太は、わざとらしくならないよう細心の注意を払いながら、「やってしまった」と言わんばかりに声を上げる。


「あッ! あ~……」


 軽く頭を抱える翔太に、海玲が「どうしたの?」と訊ねてきたので、これから海玲の父親に会いに行くことを悟られないよう、流暢に嘘の返事をかえす。


「学校に忘れ物したのを思い出して。悪いけど夏木さん、ちょっと留守番お願いしていいかな?」

「……わたしも一緒に行くのはダメ、かな?」


 上目遣いで訊ねられ、「いいよ」と答えたがる心をねじ伏せてから、やんわりと断る。


「ごめん。さすがに他の学校の制服を着た子と一緒に行ったら、警備員さんに何て言われるかわからないから。それに、そんなことをしたら夏木さんが例の動画を撮影してた子だって、学校にバレてしまうかもしれないし」


 イジメの動画を撮影するために海玲が協力していたことを、翔太が学校に黙っていたことは、彼女も知っている。

 そしてそれが、翔太が彼女のことを思っての行動であることも。


「……わかった。お留守番しとく」


 だから海玲は、少しションボリとしながらも、留守番を頼まれてくれた。

 そんな彼女を見て湧いた、彼女に嘘をつくことに対する罪悪感を、翔太は顔に出すことなく噛み殺す。ここでそんな顔をしてしまったら、彼女に怪しまれるぞ――そう自分に言い聞かせて。


 翔太は壁掛け時計を見やる。

 時刻はもう、一八時三〇分に差し掛かろうとしていた。


「あんまり遅くなりすぎるといけないから、もう行くね。暇だったら適当にゲームとかで遊んでていいから」


 言いながら、テレビ台に収納しているゲーム機とゲームソフトを指で差す。


「それじゃあ夏木さん。いってくるね」

「うん。いってらっしゃい」


 というやり取りをした直後、翔太と海玲の頬に朱が差し込む。

 二人して同じことを考えてしまったのだ。

 今のやり取り、ちょっと夫婦っぽいかも――と。


「か、鍵は置いていくから、僕が行った後に閉めておいてね!」

「う、うん! 閉めとく!」


 裏返った声を交わした後、翔太は部屋の鍵をローテーブルに置いて、無駄に慌てふためきながら外に出て行った。


 小走りでハイツ百合園の敷地外に出たところで、スマホに入れていた地図アプリを起動。

 今までのLINEのやり取りで、海玲が翔太の家を知っていたように、翔太もまた海玲の家がどのあたりにあるのかを知っている。

 位置を確認すると、海玲の家を目指してすぐさま移動を開始した。


 それから――


 暗いせいもあって、微妙に迷いながらも歩き続けること四〇分。

 海玲の家の近辺まで来たところで、今一度地図アプリを確認しながら彼女の家を探し……見つける。


「ここ……だよね」


 表札に書かれた「夏木」の文字を確認しながら、呆然と呟く。

 海玲の家は、ともすれば邸宅と呼べるほどに大きかった。

 まさかここまで大きいとは思っていなかった翔太は気後れしそうになるも、海玲の父――うしおと会う前からそんなザマでは話にならないと己を叱咤し、意を決してインターホンを鳴らす。

 しかし、


「……アレ?」


 全く反応がなかったので、もう一度鳴らしてみる。

 しかし、インターホンのスピーカーから声が聞こえてくることも、玄関の扉が開くこともなかった。


(ここまで来て留守!?)


 心の中で悲鳴じみた声を上げるも、よくよく考えてみればあり得ない話ではなかった。いや、むしろ当然の話だった。

 娘が家を飛び出していったのだ。

 父親ならば、捜しに出かけているのが普通だ。


 覚悟を固めに固めた手前ということもあるが、一刻も早く海玲をDVから解放してあげたいと思っていた翔太は、縋るような思いで、もう一度インターホンを鳴らす。

 すると、


『子供がこんな時間に何の用だ?』


 スピーカーから、やけに威圧的な男の人の声が聞こえてくる。

 向こうが翔太のことを子供だと断定できたのは、インターホンにカメラが取りつけられているからという至って単純な理由によるものだった。

 緊張で手汗が滲み、心臓が早鐘を打つ中、翔太は決然と答える。


「新野翔太といいます。夏木海玲さんのことで、お話しがあって来ました」


 数瞬の沈黙。


『……玄関の鍵は開いている。入りなさい』


 その言葉を最後に、スピーカーは沈黙する。


「……ふぅ」


 家に入れてもらうという第一関門を突破できたことに安堵の吐息をついた後、もう何度目になるかもわからない意を決して、門扉を、玄関扉をくぐる。

 家の中に入ると、居場所を報せるように奥の方で灯りがついた。


(灯りもつけずに、ずっと家にいた?)


 そんな疑問を、かぶりを振って振り払う。

 今は、余計なことを考えている余裕はない。

 なぜなら、今から、海玲の父親であり、彼女を自殺未遂に追い込んだ張本人――夏木潮と対峙しなければならないのだから。


「お邪魔します」


 毅然と言いながら、靴を脱ぎ、家に上がって、先程灯りがつけられた部屋に足を踏み入れる。

 その部屋はどうやらリビングのようで、その中央に、彫りの深い顔立ちと、白髪混じりの髪、一八〇センチは超えるであろう高身長が特徴的な、三〇代後半くらいの男が佇んでいた。

 翔太をイジメていた成瀬よりも上背の男に、今度こそ気後れしながらも訊ねる。


「あ、あなたが、夏木さんのお父さんですか?」

「そうだ」


 認めながら、潮は顎でこちらに来るよう促してくる。


(僕は、この人から夏木さんを……)


 威圧的な潮を前に、折角固めた覚悟がふやけ始める。このままじゃ駄目だと思いつつも、顎で使われたとおりに潮の方へ歩き出したその時。


「……っ」


 何かを踏みつけてしまい、思わず立ち止まってしまう。

 足を上げてみると、踏みつけた床には小さなウサギの耳のような物が落ちていた。


(これは……)


 間違いない。

 ウサもんストラップの破片だ。

 おそらく、潮に潰された際にそこだけ飛んでいったおかげで、ある程度ながらも原型を留めているのだろうと翔太は推測する。


(……そうだ。僕は夏木さんを救うって決めた。事ここに及んでヘタレてどうする!)


 そうだ。


 僕は弱い。


 ここまで覚悟を固めておきながら、夏木さんのお父さんを目の前にした途端にヘタレるくらいに。


 成瀬くんたちにイジメられるくらいに。


(弱いのなら、今ここで強くなれ!)


 自分のためじゃない……夏木さんのために強くなれ!


 ひるむな。


 おびえるな。


 ヘタレるな。


 腕力とは違って、心は気持ち一つでいくらでも強くなれるはず!


 だから!


(強くなって夏木さんを救え! 新野翔太!)


 決然と、潮に向かって歩き出す。

 手を伸ばせば届く距離で立ち止まり、潮と対峙する。


「それで、海玲のことで話とは何だ?」


 返答如何によってはただでは済まさない――はっきりとそう書かれた目で、こちらを見下ろしてくる。

 翔太は怯むことなく見返し、微塵も声音を震えさせることなく、潮を瞠目せしめる言葉を紡いだ。


「夏木さん――いえ、海玲さんは今、僕の家にいます」

「……それは、どういう意味だ?」


 目に、声に、体中に怒気を滲ませながら、潮は問う。

 そんな彼を前に翔太が抱いたのは、やはり恐れではなかった。

 抱いたのは、こうやって海玲を威圧し、暴力を、DVを振るっていたのだろうという確信。

 そして、海玲を追い込み傷つけた潮に対する怒りだった。


 しかし、今はその怒りを鎮め、あくまでも静かに、されど語気を強くして、海玲を救うための言葉を、


「お父さん。海玲さんを僕にください」

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