第27話 愛と強さと覚悟

「新野くん……遅いなぁ……」


 ローテーブルの脇でペタンと座りながら、海玲は独りごちる。

 ゲームで遊んでいいとは言われたけれど、なんとなくでしか遊び方がわからない上に、なんとなく気が引けたので、適当にテレビを見ながら翔太の帰りを待っていた。


 特に面白い番組もなかったので、テレビを消して壁掛け時計を見上げる。

 時刻は一九時二〇分。

 翔太が出て行ってから、もうじき一時間が経とうとしていた。


 距離的に、ハイツ百合園から水無月高校まで歩いて一〇分程度。

 そこから、警備員に事情を説明して、忘れ物を取って戻ってくる時間をプラスしても、せいぜい一〇分から一五分程度。

 合計して三〇~四〇分もあれば、帰ってこられる計算になる。


 普通ならば、警備員と話し込んでしまっているとか、コンビニとかに寄り道をしているとか、最悪のパターンを描くにしても、何かしら事件に巻き込まれたとか考えるべきところだが。

 なぜか、こんな考えばかりが思い浮かんでしまうのだ。


 もしかして新野くんは、一人でお父さんのところに行ったんじゃないか――と。


 なぜか、理屈抜きにそう思ってしまう。

 それは、海玲がこの部屋にやって来る前、翔太が海玲に送ったLINEに既読がつかないことに対して抱いた嫌な予感と同種のものだった。


 考えすぎかもしれない。

 いや、むしろ考えすぎである可能性の方が圧倒的に高い。


 でも、


(もし本当に、新野くんがお父さんのところに行ってたら……!)


 自分が受けたDVと同じ――いや、他人である翔太ならば、もっとひどい目に遭わされるかもしれない。

 そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。


 海玲はしっかりと戸締まりをし、翔太から預かった部屋の鍵を掴むと、


「新野くん……借りるね。ごめんなさい!」


 玄関口に置いてあった翔太のつっかけサンダルを履いて、部屋を後にした。



 ◇ ◇ ◇



「お父さん。海玲さんを僕にください」


 この言葉が聞こえた瞬間、うしおの目の前が真っ赤になった。

 気がついた時にはもう、目の前にいる少年を殴り飛ばしていた。

 激昂して家族以外の人間を殴ったのも、ここまで何の躊躇もなく人の顔面を殴ったのも、潮にとっては初めてのことだった。


「新野翔太くん……と言ったな。冗談でも、今のは笑えんぞ……!」


 殴ってから大人じみた言葉を口走る自分のことが、我が事ながら笑えなかった。

 けれど、殴ったことを省みようという気は微塵も起きなかった。

 冗談でも本気でも、今の言葉は許されざるものだったから。


 口の中が切れたのか、少年は唇の端についた血を拭いながら立ち上がり、こちらの目を決然と見つめながら力強く断言する。


「冗談ではありません。本気です」


 その言葉に再び目の前が真っ赤になり、少年を殴り飛ばす。

 けれど少年は、痛がる素振りも怯える素振りも見せることなく、再び立ち上がり、再び潮の前に対峙した。


(何なんだ、この少年は?)


 さしもの潮も困惑する。

 この新野翔太という少年。

 リビングに入ってきた時は、一目見ただけで気弱な少年だと確信した。

 それなのに……顎でこちらに来るよう促した際に何か踏んだのか、一度立ち止まり、再び歩き出した時にはもう別人のような顔つきになっていた。

 確かな覚悟を持って、潮の前に対峙していた。


「今までそうやって、海玲さんにDVを……暴力を振るってきたのですか?」


 真っ直ぐに問われ、真っ直ぐに見つめられ、たじろぎそうになる。


「なぜ、それを知っている?」

「海玲さんから聞きました」

「……っ」


 考えてみれば当然の話だった。

 単身で家にやってきて、海玲をくださいと言ってきた少年が、海玲のDVについて知らないわけがなかった。


「だから、はっきりと言わせてもらいます。あなたのもとにいても、海玲さんが傷つくだけです。海玲さんが不幸になるだけです。だから、海玲さんを僕にください」


 少年の言っていることは正しい。

 海玲を愛しているのに、誰よりも海玲を傷つける自分の傍にいるよりも、少年の傍にいる方が、海玲は傷つかなくて済む――そんなことは、理性ではわかっているけれど。


「知った風な口を聞くなッッ!!!!」


 海玲や妻にそうしていたように、不意に湧き上がった激情がいつの間にか理性を踏みにじっていた。

 いつの間にか、目の前にいる少年を殴り飛ばしていた。

 その際、少年の口から白い欠片が飛んでいったように見えたが、構うものか。


「海玲はッッ!!!!」


 仰臥する少年の上に跨がり、


「俺の大切なッッ!!!!」


 少年の顔面を、


「娘だッッ!!!!」


 殴る!


「貴様なんぞにッッ!!!!」


 殴るッ!


「誰がくれてやるものかッッ!!!!」


 殴るッ!!


 だが、激昂していながらも頭の片隅にいる冷静な自分が、これ以上殴ったら危険だと警鐘を鳴らし、素直にそれに従って殴るのをやめる。

 荒れた息を整えながら立ち上がり、見下ろした少年の顔は、血と青痣で悲惨な有り様になっていた。


「はぁ……はぁ……これに懲りたら、もう二度とあんなふざけたことは言――」


「嫌……です……」


 仰臥したまま、こちらの言葉を遮ってまで、少年は断言する。


「お父さん……僕は……」


 殴られすぎて意識が朦朧としているのか、


を……愛してます……」


 先程までとは違う呼び方で娘を呼びながらも、


「この世界で……誰よりも……」


 訥々しながらも、


「彼女を……愛してます……」


 断言する。

 そして、


「だから……夏木さんを……僕にください……」


 懇願する。

 ここまでくると、最早潮も頭に血が昇ることはなかった。

 むしろ、頭も心もこれ以上ないほどにまで冷え切っていた。


「死にたいのか? 君は」


 こんな言葉が、平然と口から出てくるほどに。

 怒りという感情が行き着くところまで行き着いた一方で、やはりどこか冷静な自分が、いくらなんでもここまで言えば引き下がるだろうと打算する。

 けれど、


「殺したければ……殺せばいい……」


 少年の口から出てきた言葉に、いよいよ潮は絶句する。


「あなたが僕を殺せば……その間あなたは刑務所に入ることになる……。その間は……夏木さんはDVを受けずに済む……」


 少年は、血と痣で無残な有り様になった顔を勝ち誇るように歪める。


「僕を殴った時点で……あなたの負けです……。たとえ僕を殺さなくても……これだけの傷を警察に見せれば……あなたは逮捕されます……。DVについても……露見することになるでしょう……」


 少年の覚悟を前に息を呑みながらも、潮は指摘する。


「だが、そんなことをしてしまったら、君は海玲とは一緒にいられなくなるぞ。海玲が君のことをどの程度慕っているのかは知らないが、さすがに父親を陥れて警察に突き出すような真似をすれば、あのは決して君を許さないだろう」

「夏木さんに嫌われるのは……覚悟の上です……」


 その言葉を聞いた瞬間、潮の内に燃え盛っていた怒りの炎が、自分でも驚くほどあっさりと、それこそしおが引くように消えて失せてしまう。

 怒りの代わりに湧いてきたのは、決定的なまでの敗北感だった。


 海玲への愛。

 どれほど歪んでいても、誰にも負けるつもりがなかったその想いにおいて、潮は、眼下で仰臥している少年に全く勝てる気がしなかった。

 怒りの炎が消えたのは、この少年をいくら怒鳴っても、いくら殴っても、自分が惨めになるだけだということを思い知らされたからだった。

 海玲への愛を謳いながらも海玲を傷つける自分に対し、海玲への愛のために自分が傷つくことも厭わぬ少年に、勝てる道理などない。


 そして〝惨めになるから〟という理由で、今まで散々海玲の前では抑えることができなかった怒りを抑えられた自分に、これ以上ないほどに失望してしまった。

 だからもう、少年に向かって怒りをぶつける気力は微塵も残っていなかった。


 そんな潮を見て、少年は何を思ったのか。


「たぶんですけど……夏木さんは、あなたのことを嫌っているわけでは……ないと思います……」


 思いがけない言葉に、潮は目を見開く。


「なぜ、そう思う?」

「夏木さんは……あなたからどれだけDVを受けても……警察や役所に……相談しなかった……。違いますか……?」


 言われてみればそうだったことに今さらながら気づき、苦い顔をしながらも首肯する。


「それってやっぱり……あなたと親子の縁を切りたくない……気持ちの表れだと……思うんですよ……」


 たしかに、そのとおりかもしれないと思う。

 思ったからこそ、潮は心が抉られる思いだった。

 そんなことにも気づかずに、自分は、海玲を愛してると謳いながら海玲を傷つけ続けた。

 まさか自分が、ここまでどうしようもない人間だとは思わなかった。


「だから……何度でも言います……。夏木さんを……僕にください……。そうすれば……殴られたことは、警察には黙っています……」

「それは脅しか?」

「はい……脅しです……。僕だって……できることなら……夏木さんに嫌われたく……ありませんから……」

「ぬけぬけと」


 吐き捨てるように言うも、自分の頬が笑みの形に変わってることに気づき、気まずそうに少年から顔を背ける。


「何度も海玲をくださいと言っているが、そもそも君はまだ学生だろう? どう海玲をもらうつもりなんだ?」

「それは……」


 ここに来て初めて、少年は口ごもる。


「……何も考えてなかったのか?」

「……はい。……すみません」

「……くくっ」


 思わず、噴き出してしまう。


「はははは……ッ! そうか、何も考えてなかったかッ!」


 そのまま笑ってしまう。

 心底、この少年には敵わないことを痛感する。


 向こう見ずにも程がある。

 いや、海玲のために傷つくことも、殺されることさえも厭わない時点で、向こうを見るという発想すらなかったのだろう。


(それだけ必死だったということか。この俺から、海玲を護るために)


 青い上に頼りない。

 けれど。

 こんな父親の傍にいるよりは、はるかに良い。


「わかった」


 潮は少年の傍で正座すると、


「海玲のこと、どうかよろしく頼む」


 まるで謝罪するように、床に額をつけて、少年に向かって深々と頭を下げた。

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