第18話 海玲の決意

「はぁ……はぁ……っ」


 海玲は、逃げる翔太を追って必死に走り続けた。

 走るのはあまり得意な方ではないけれど、翔太を見失うまいと、必死になって彼の背中を追い続けた。

 ここで彼を見失ったら、もう二度と会えなくなる――そんな確信にも似た予感が、海玲の中にあったから。


 幸いというべきか、翔太もどうやら走るのはあまり得意ではないらしく、どうにか引き離れることなくついて行くことができた。


 やがて、小さな公園にたどり着いたところで翔太が立ち止まる。

 公園に人気がなかったからか、それとも単純に体力の限界を迎えたからか……おそらくは両方だろうと、翔太と同じように両手を膝について荒い呼吸を繰り返していた海玲は思う。


 息苦しい上に脇腹が痛いせいで二人揃ってまともに会話ができる状態ではなく、荒い呼吸だけがただひたすらに繰り返される。


「なん……で……」


 海玲よりも先に息が整い始めた翔太が、背を向けたまま言葉を紡ぐ。


「なんで……追いかけてきたの……?」


 その声が涙に濡れていることに気づいた海玲は、唇を噛み締めた。

 今日は楽しい一日になるはずだったのに、〝彼ら〟のせいで台無しになったことに、〝彼ら〟が翔太をここまで傷つけたことに、かつて経験したことがないほどの怒りを覚える。

 けど、今はその怒りは無用の長物なので。

 海玲はどうにか呼吸と怒りを鎮めてから、翔太に応じた。


「新野くんが、心配だったから……」

「僕の心配なんてしなくていいよ……」

「『なんか』じゃ――」



「『なんか』だよッ!!」



 初めて聞く怒鳴り声に、海玲は思わず言葉を切ってしまう。


「僕は……君が恐い思いをしていることがわかっていたのに、成瀬くんたちが恐くて……君が傷つくまで何も言えなかった! 何も動けなかった! こんな最低な僕が……『なんか』じゃないわけないよ……」


 すすり泣く声が、聞こえてくる。

 決して大きくない背中が、いつも以上に小さく見える。


 成瀬に掴まれ、いまだ痛みを訴えてくる右手の甲を、左手でそっと触れる。


(確かに新野くんは、わたしが痛いって言うまで何も言えず、何も動けなかった)


 でも――


「でも、わたしが手を掴まれた時、新野くんはわたしを助けてくれた。あの時新野くんが助けてくれなかったら、もしかしたらわたし、もっと恐い思いを、もっと痛い思いをしてたかもしれない」


 言いながら翔太に近づき、背中から抱きつく。

 その際翔太はビクリと震えたけど、それだけで、逃げようとも振り払おうともしなかった。


「わたしもね、怒ってるお父さんを前にすると恐くて……すごく恐くて……ごめんなさいしか言えなくなるの……。抵抗なんて絶対できないし、後が恐いから逃げることもできない……。だから、新野くんがあの人たちのことが恐くて動けなかった気持ちも、何も言えなかった気持ちも……よくわかる」

「……ッ」


 すすり泣く声が、一瞬止まる。

 傷の舐め合いなのかもしれないけれど、こういう誰にもわかってもらえないことをわかってもらえるのは、海玲にとって救いだった。

 おそらくは、翔太にとっても。


「それなのに……恐くてたまらないはずなのに、新野くんはわたしを助けてくれた。それって、新野くんが思っているよりも、ずっとず~っと凄いことなんだよ?」

「夏木……さん……」

「だから、何度でも言うね。新野くんは『なんか』じゃない。そんなこと、新野くんには言ってほしくないし、わたしが言わせない。だって新野くんがいなかったら、わたしは絶対生きていなかったから……あのままビルから飛び降りていたから……だから、僕『なんか』なんて、もう言わないで……」


 翔太の涙をもらってしまったのか、言葉を重ねていく内に、海玲の瞳からも涙が零れていく。

 逆に翔太は、少しずつすすり泣く声が消えていく。

 見ちゃいけない気がしたから、泣いている翔太の顔は見ないよう背中から抱きついたため、今彼がどんな顔をしているのかわからないけれど。

 海玲は、確信をもって訊ねた。


「もう、大丈夫だよね?」

「……うん」


 海玲は、ゆっくりと翔太から体を離す。

 翔太もまた、ゆっくりとこちらに振り返ってくる。

 二人揃って目のまわりが真っ赤に泣き腫らしていたせいで、二人揃ってクスリと笑ってしまう。


「もしかしてわたし今、ひどい顔になってる?」

「たぶん、今の僕と同じ感じだと思う」


 クスクスと笑った後、翔太は居住まいを正し、神妙な物言いで訊ねてくる。


「自分で言うのも何だけど、僕は決して強い人間じゃない。それでも……夏木さんの傍にいて……いいですか?」


 海玲は柔らかく笑み、頷き返す。

〝あんな人たち〟のせいで翔太とはこれっきりにならずに済んだことに、心の底から安堵する。

 同時に、〝あんな人たち〟が翔太を苦しめていることが、どうしようもないほどに許せなかった。


 新野くんためなら――そんな想いが、海玲にとんでもない言葉を口走らせる。


「安心して、新野くん。、〝

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