第11話 幸せな一日

 電車に揺られる中、スマホにウサもんストラップを装着させた海玲は、その出来映えに頬を緩ませる。

 ほどなくして駅に着いたので、電車を降りながら今日という日を思い返す。


(こんなに楽しかったの、いつぶりくらいかな……)


 学校に友達がいないわけではなく、休日に遊んだりすることもそれなりにはあった。けれど、友達にDVのことを打ち明けるなんてできるわけがないから、どうしても、自分から、微妙な壁をつくってしまう。

〝あの人〟のことが恐くてみんなと同じように遊べない分、余計に。


 だけど、翔太は違う。


 出会いからして全てを打ち明けざるを得なかったという理由もあるが、それ以上に、翔太もまた自分と同種のつらさを抱えているため、壁をつくる必要がないという理由が何よりも大きかった。


(それに……すごく優しくて……意外と頼りになるところもあって……かわいいなって思うところもあって……)


 翔太のことばかりを考えながら改札口を抜け、家を目指して歩いていると、


「!」


 手提げ鞄の中に入れていたスマホが電話の着信を示す音を鳴らし、ビクリと震える。慌ててスマホを取り出すと、予想どおり、画面には「お父さん」の四文字が映っていた。下手に待たせると帰った後に暴力を振るわれる恐れがあるため、すぐさま通話に出る。


「お、お父さん? どうしたの?」


『海玲。今どこで何をしている?』


 硬質の問いかけにまたしてもビクリと震えながらも、あらかじめ用意していた嘘の返事をかえす。


「と、友達と遊んでて……今帰ってくるとこ……」


『そうか。会社の方でちょっとトラブルがあってな。おそらく今日は帰れないから、寝る時はちゃんと戸締まりをしてから寝るように』


 言うだけ言って、通話が切れる。

 あまりにも想定外の事態に、海玲は半ば呆然としながらスマホを鞄に戻した。


「こんなことって……あるんだ」


 こんなにも、幸せな一日があることが信じられなかった。


 海玲は、本当は、家に帰らずにずっと翔太と遊んでいたかった。

 そうすれば、少なくとも、今日という日だけは幸せなままで終わることができるから。帰ってしまったら、DVによって幸せな気持ちを踏みにじられることがわかっていたから。


 けれど。


 それがまさか、こんなことに……少なくとも今日という日は暴力を振るわれずに済むことになるなんて、夢にも思わなかった。


(これも、新野くんのおかげ……かな?)


 あり得ない話だということはわかっている。

 わかっているけど、どうしても、そう思ってしまう。

 だって今日は、彼のおかげで素敵で楽しい時間を過ごせたのだから。


「こんなことになるなら、もっと新野くんと遊んでから帰ればよかった……かな」


 ちょっとだけ未練を口にするも、もし仮に、電車に乗る前に〝あの人〟からの電話がきていたとしても、やっぱり自分はそのまま家に帰っただろうと海玲は思う。

 だって、何かの拍子で、今日は家に帰ってこないはずの〝あの人〟が帰ってきたら恐いから。

 その時に自分が家にいなかったから、後でどんな目に遭わされるかわかったものじゃないから。

 だから海玲は、今この時も真っ直ぐに家を目指して歩いていた。


 やがて、今夜に限ればオアシスと化した自宅に到着する。

 中に入って玄関の鍵を閉め、ひとまず二階にある自分の部屋へ向かう。


 勉強机、ベッド、クローゼットと必要なものは一通り揃っている、一人で使うにはちょっと広い部屋。

 ベッド脇に二三飾ってあるウサもんのぬいぐるみも含めて、この部屋にある物は全て〝あの人〟が買ってくれた物だった。


 お前のためを思って、何でも買い与えている。


 だから俺がお前をどうしようが、俺の勝手だ。


〝あの人〟がわたしに物を買い与えてくれる時は、いつも そんな最低な思惑が透けて見えていた。

 事実、海玲のお気に入りだった巨大ウサもんぬいぐるみは、例によって些細なことで激昂した〝あの人〟の手でボロボロにされ、捨てられた。

 泣くなッ!! 俺が買った物をどうしようが俺の勝手だッ!!――はっきりと、そう言って。

 それならばと、海玲はお小遣いを貯めて、自分で巨大ウサもんのぬいぐるみを買い直したけれど。

 なんだそれはッ!! 俺への当てつけかッ!!――などと怒り狂って、結局ボロボロにされて捨てられてしまった。


 ベッド脇のウサもんを見つめながら思う。

 ウサもんのことは大好きだし、ぬいぐるみに罪はないけれど、それでも〝あの人〟のという醜悪な自己満足が絡んでいるせいで、たまに、少しだけ、嫌いになりそうになる時がある。


 けれど。


「……~~っ」


 鞄から取り出した、スマホに付いたウサもんストラップを見て、幸せそうに頬を緩める。


 大好きなウサもんを、大好きな新野くんからプレゼントしてもらえた。

 それどころか、お揃いにすることができた。

 こんなに嬉しいことはない。

 こんなに幸せなことはない。


 そう思ったところで、海玲は気づく。

 自分が今、物凄く自然に、物凄く当たり前に「大好きな新野くん」と考えていた事実に。


 瞬く間に、頬が火照っていくのを感じ取る。

 耐えられなくなってベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめて「ん~ん~」言いながら、足をパタパタさせる。


 昨日、彼に恋したのかどうかは正直まだ自分でもよくわからないとか、彼とならそうなってもいいかなとか、遠いことのように思っていたのが信じられないくらいに、あっという間に、恋に落ちてしまった事実に身悶える。


「いや、でも、だって、昨日初めて会ったばかりなのに……!」


 そう、昨日初めて会ったばかりなのに、鼻についたソフトクリームを「取って」って言ったり、長時間腕に抱きついたり、スマホのストラップをお揃いにしたいと思ってしまったり、していたのだ。

 これまでの人生で、ここまで大胆に異性と接触したのは初めてだった。

 その時点でもう、どうしようもない程に彼に惹かれているのは明白だった。

 

 嬉しくて、恥ずかしくて、それだけで死んじゃいそうなくらいに胸がドキドキして……。


 今日は〝あの人〟は帰って来ない。

 だから今は、この感情に思いっきり身を委ねようと決めた海玲は、引き続き翔太に思いを馳せながら、枕に顔を埋めて足をパタパタパタパタさせた。

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