第12話 〝彼〟

 翔太にとって夢のような土曜日が終わり、アルバイトでほとんど一日潰れた日曜日が終わり、できれば来てほしくなかった月曜日が訪れる。


 朝食を食べ終え、制服に袖を通した後、昨夜の内に学校の準備を済ませておいたバックパックを背負う。

 置き勉なんてしようものなら翌日にはもうなくなっていること請け合いなので、勉強道具は常に持ち帰る必要があり、必然的にバックパックの重量がひどいことになる。物理的にも心理的にも肩が重くなる。


 重々しいため息をつき、登校する覚悟を固めてから部屋を出ると、


「あら? 翔太くん、おはよう」


 耳朶じだに触れるだけで心安らぐ柔らかな声音とともに、一人の綺麗な女性が翔太を出迎えた。

 ゆったりとした服に身を包んだ、背中に届くほどに長い栗毛色の髪と笑顔がよく似合うこの女性は、百合里ゆりさと志保里しおり

 翔太がお世話になっている二階建てのアパート――ハイツ百合園ゆりえんの管理人で、今は敷地内の掃除をしているのか、結婚指輪マリッジリングが嵌められた繊手せんしゅには箒が握られていた。

 補足するまでもない話だが、翔太が借りている部屋は一階だった。


「お、おはようございますっ」

「今日も朝から早いわね~」

「は、ははは……」


 誤魔化ごまかすような愛想笑いで応じる。

 朝が早いのは、自分をイジメる〝彼〟やその取り巻きに、このハイツ百合園の場所を知られたくないため遠回りして登校するという理由があってのことだった。

 ハイツで最年少の店子たなこだからか、何かと自分に良くしてくれる志保里に心配をかけさせたくなかったので、彼女には学校でイジメられていることは黙っていた。

 

 けれど、完全に心配をかけずに済ませるのは難しくて。

 どこに住んでるのか教えろ――と〝彼〟に問い詰められた際は、イジメがエスカレートしても黙り続けて耐え忍べば、かろうじて乗り切ることができるが、翔太の住まいを知るために〝彼〟と取り巻きに付きまとわれた時は、もうどうしようもなかった。


 ハイツ百合園とは全然関係ない方向をひたすら歩き回り、そのことに苛立った〝彼〟たちに腹を殴られ蹴られ……帰ったのが夜の一〇時過ぎ。

 その時は、急にアルバイトに入るよう言われたからと言い訳したが、高校生をこんな時間まで働かせるところなどそうはないので、信じてもらうのに相当以上の苦労を要したのは今でも覚えている。


 聞いた話によると、志保里は一年半ほど前に夫が交通事故に遭い、いまだ意識不明のままになっているらしい。

 そんな何かとお金が入り用な状況なのに、現在ハイツ百合園の二階には一室空きがあり、時期のせいか、なかなか入居者が現れないことに頭を悩ませているという話も聞いたことがある。

 まだ三〇には少し届かない、管理人と呼ぶには少々年若い彼女に、他人の心配なんかしている余裕などないはずだ。


 だから翔太は志保里に余計な心配をかけさせまいと、自分がイジメられていることをひた隠す。

 今も愛想笑いで誤魔化しながら、何事もなかったように「いってきます」と言って、逃げるようにハイツ百合園を後にした。


 ハイツ百合園が見えなくなったところで、登下校に使う六つあるルートの内の一つを使って、たっぷりと遠回りしながら水無月高校を目指す。

 下手に早い時間に登校してしまうと、〝彼〟が登校するタイミング次第によって、朝のホームルーム開始まで地獄を見ることになる恐れがある。

 だから翔太は、〝彼〟にハイツ百合園の場所がバレないようたっぷりと時間を使って遠回りをし、遅刻ギリギリに登校することで、〝彼〟という脅威から自分の身を守っていた。

 それが、焼け石に水だとわかっていても。


 想定どおり、予鈴がなったところで学校に到着し、下足場へ向かい、バックパックの中に入れていた上履きを取り出す。

 下足箱に上履きを入れていても、なくなるか、泥塗れにされるか、切り刻まれるかといった具合に〝彼〟の玩具にされるだけなので、勉強道具と同様、常に持ち帰るようにしていた。

 上履きに履き替え、外靴を靴袋に入れてバックパックに仕舞ってから教室を目指して歩き出す。

 直後、


「ッ!?」


 バックパック越しから背中に強烈な衝撃を受け、翔太は床に倒れ伏してしまう。

 下足場には他にも大勢の生徒がいたが、すでに予鈴は鳴っているため一瞥以上の関心を示す余裕はなかった。


 翔太は、ぶつかるようにして床に倒れた痛みに顔を歪めながら、立ち上がる。

 背中に受けた感触からして、〝誰か〟に蹴り飛ばされたのは明白だった。そして、下足場で堂々とそんなことをする人間は、翔太の知る限り一人しかいない。


「おいおい、新野。いきなりすっ転ぶんじゃねぇよ。危ねぇだろうが」


 翔太をイジメる〝彼〟――成瀬なるせ陸斗りくと以外には。


「それとも何か? 床を舐める趣味でもあんのか?」


 成瀬は、それなりに整った面立ちを醜悪に歪めながらゲラゲラ笑う。

 身長は一七〇後半と、翔太よりも一五センチ近く高いせいか、精神的にも物理的にも露骨にこちらのことを見下していた。


 下足場で成瀬と出くわす可能性があることは、翔太も想定していた。

 けど、それでも、寿命が縮むような思いだった。


「な、成瀬くん……」


 半顔だけを振り返らせ、〝彼〟を見やる。


「なんだぁ? 何か文句でもあんのかよ?」

「成瀬くん……今、僕のことを蹴――」

「あぁ? なんだって? 全然聞こえねぇよ。つうか邪魔なんだよ。どけ」


 手で突き飛ばされ、今度は尻餅をついてしまう。

 続けて、


「い……ッ!?」


 行きかけの駄賃とばかりに、尻餅と同時に床についていた翔太の右手を踏みにじってから、成瀬は教室の方角に歩き去っていった。


 もうすぐ本鈴が鳴る。

 だから〝彼〟はのイジメしかできない。

 だから、やはり、遅刻ギリギリの時間に登校することは間違っていない。

 そう自分に言い聞かせながら、翔太は立ち上がり、前を行く成瀬に近づきすぎないよう気をつけながら教室を目指して歩き出す。


 今日はまだ始まったばかり――その事実が、蹴られた背中よりも、踏みにじられた右手よりも、翔太に最も大きくダメージを与えていた。

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