第4話 落ち着かない朝

 次は水泳の授業ということで、更衣室で学校指定の水着に着替えようとした翔太は、持参したナップサックに入っていた〝それ〟を見て、ひどく狼狽えた。

 なぜなら、ナップサックに入っていたのは自分の水着ではなく、だったから。


『な、なんで……!?』


 思わず声を上げた直後、背後から無遠慮に伸びてきた手が、ナップサックから女子用水着を取り出した。

 まさかと思い振り返ると、いつも自分をイジメてくる〝彼〟が女子用水着を高々と掲げ、大声を上げる姿が目に飛び込んでくる。


『おいおい! 新野の奴、女子の水着なんて持ってきてんぞ!』

『ち、違――』

『あぁ?』


 反論しようとするも、〝彼〟に睨まれて口ごもってしまう。

 証拠はないが、この水着が〝彼〟の仕業であることはわかっていた。

 なぜなら〝彼〟は、翔太がナップサックの中身を見て狼狽した瞬間に、待ってましたと言わんばかりに水着を強奪し、皆の前に晒した。

 


 そこまでわかっていてなお口ごもってしまったのは、自分では絶対に〝彼〟に勝てないことを、心身に刻みつけられていたからに他ならなかった。


 サボってばかりで真面目にやっているとは言い難いが、それでも〝彼〟はボクシング部に所属しているだけあって体格に優れている。

 父親が学校に多額の寄付をしているため教師たちもあまり〝彼〟には強く物が言えず、悪い意味でガキ大将気質なせいか、スクールカーストにおいても最上位に位置している。

 これでなぜか勉学においても成績が上位なものだから、詐欺にも程がある。


 学校への寄付云々はともかく、喧嘩が弱く、スクールカーストでも最下位に位置し、勉学においては普通よりも少し良い程度の翔太では、〝彼〟には逆立ちをしたって勝てる要素がなかった。


『ただのヘタレかと思ってたけど、俺が間違ってたわ! まさか水泳の授業に女子の水着で参加する勇者だとはなぁ! ぎゃはははははッ!』


 心底楽しげに〝彼〟が馬鹿笑いをする。

 取り巻きの連中も同調してゲラゲラと笑う。

 この更衣室にいるのは、翔太をイジメる〝彼〟と、その取り巻きの人間と、〝彼〟に便乗して悪ノリする人間と、標的にされることを恐れて見て見ぬフリをする人間がいるだけで、翔太に味方する人間は一人もいなかった。


 おそらくこの水着は、〝彼〟が取り巻きを使って休み時間中にクラスの女子から盗み出し、翔太に気づかれないようナップサックに仕込んだもの。

 翔太の水着が十中八九ゴミ箱に捨てられていることは、今は置いておくとして。

 このまま事態を静観していたら、そのうち水着を盗まれた女子が騒ぎを起こすのは間違いなく、〝彼〟が翔太のことを水着泥棒扱いすることもまた間違いない。

 さすがにそれはまずすぎるので、翔太はなけなしの勇気を振り絞って〝彼〟に反論を試みることを決意する。


『そ、その水着! 君が仕込――ッ!?』


 だが、〝彼〟に口の辺りを鷲掴みにされてしまい、強制的に黙らされてしまう。


『おいおい。まさか、新野の分際で俺に口答えする気か?』


〝彼〟は空いている手を、これ見よがしに握り締める。

 それだけで察した翔太の身が、金縛りにあったように竦んでしまう。


『まぁ、水泳の授業はこれからだからなぁ。痣ができない程度で勘弁してやるよ!』


 心底楽しげな笑みを浮かべながら、〝彼〟は翔太の腹部を殴――



「――……っ!」



 飛び跳ねんばかりの勢いで、翔太は布団から上体を起こした。

 目に映る景色が学校の更衣室ではなく、自身が住むアパートの1DKの部屋であることを確認してから、安堵の吐息をつく。


「今日くらいは空気読んでよ……」


 それは、つい今し方まで見ていた悪夢に向かって言った言葉だった。

 イジメを受けるようになって以来、翔太は時折〝彼〟にイジメられる悪夢を見るようになった。

 悪夢の内容はいつも、過去にあったイジメのリプレイ。

 今回見た悪夢は、一学期の後半にあったイジメの中でも、特に最低最悪のものだった。

 

「あの後、水着を盗まれた女子にひっぱたかれるし、どうにか弁解して僕じゃないってことは先生やクラスの皆に信じてもらえたけど、ただの悪戯で済まされるし……」


 心が、陰鬱になっていく。

 けれど今日という日に限れば、さすがにそれではいけないと思った翔太は、何度もかぶりを振って心に巣くっていた陰鬱を振り払った。


 今日は、人生で初めて、休日に、女の子と二人だけで会う約束をした日。

 そんな素敵な日の始まりを、悪夢を見たぐらいでケチをつけるのは勿体ない。

 そう思いながら、壁掛け時計に視線を向ける。

 時刻はまだ、七時を少し過ぎたところだった。

 寝覚めが悪い上に少々目覚めが早すぎる気もするが、寝坊という失態を演じずには済んだから、むしろ良かったということにしておこうと自分に言い聞かせる。


 気を取り直して、顔を洗ったり、洗濯物をしたり、朝食を食べたりと、朝のルーチンワークをこなしたところで、安物の衣装ケースの中に突っ込んでいた、安物の衣服を全て引っ張り出し、決して広いとはいえない部屋の床に並べた。


「…………」


 オシャレなどという言葉をドブに捨てたようなラインナップに、我が事ながら絶句する。

 決してオシャレとはいえないTシャツに、決してオシャレとはいえないロングTシャツに、決してオシャレとはいえないチェックのシャツに、決してオシャ――……もういい。もうやめてくれ。


 僕なんかオシャレなんてしても仕方ない――という諦めからくる、無味無臭の上着トップスの数々に、翔太は頭を抱えた。

 頭に「ダメージ」が付くやつとかを選ばなければそうそう変なことにはならない、ジーンズという定番アイテムがあるだけマシだと自分に言い聞かせる。


 もっとも、翔太がオシャレに関心のない最大の理由は、下手に目立つ格好をしているところを〝彼〟に見られたら、余計にイジメられる上に、最悪、買った服を剥ぎ取られる可能性があるからという、潜在的な恐怖によるところが大きい。

 もっとも当人は、根っからの陰キャ気質ゆえにオシャレに興味がなかったと無意識の内に思い込むことで、少しでも日常がイジメに侵食されないようにしているようだが。


「ま、まあ……別に今日は、デートとかそういうのじゃないし」


 昨夜、海玲が同じ言い訳を自分に言い聞かせていたとは露ほども知らない翔太は、その言葉一つで、別に今日は無理してオシャレする必要はないと割り切ることにする。実際その通りだと、ちょっとだけ哀しくなりながら。


 かぶりを振って頭を切り替えると、しつこい残暑のせいで半袖の方がいいか長袖の方がいいか悩んだ末に、ロングTシャツとジーンズでいくことに決める。

 どれくらいの時間、海玲とともに過ごすことになるのかは見当もつかないけれど、どうせならロンTで良かったと思えるくらいに外気が冷える時間帯まで一緒にいられたらなぁという、願望があっての選択だった。


 異性に声をかけたりする勇気がないというだけで、翔太自身、異性に興味がないわけではない。

 あわよくば――などと図々しいことを考えられるほど自己評価は高くないが、これを機に海玲と友達くらいにはなれたらいいなとは思っている。


(それに……)


 そうすれば、自殺を考えていない彼女に、も考えさせないようにすることができるかもしれない。

 僕自身、自殺なんて絶対にしないなんて言い切ることは、それこそ絶対にできない。だけど、僕が先に自殺してしまったら、たぶんだけど、彼女もすぐに自殺してしまう……そんな気がしてならなかった。

 僕の自殺を知った彼女に「あぁ、やっぱりそうした方が楽になれるんだ」と思われる気がしてならなかった。


 いずれも僕の妄想にすぎない。

 けれど、も僕が自殺しない理由にはなり得る。

 夏木さんのために死なない――それこそ漫画やアニメの主人公みたいな言葉だけど、だからこそ、絶対に、自殺をしようだなんてもう二度と考えちゃいけないと強く思える。

 

 そんな決意を胸に、翔太は壁掛け時計を見やる。

 時刻は、一〇時を少し過ぎたところ。

 待ち合わせの時間である一二時まで、まだかなりの時間があった。

 なお、そんな時間に待ち合わせをすることにしたのは、LINEの交換のためだけに会うのはどうかと思い、二人で一緒に昼食を食べるという別の理由を付け加えたためだった。


 そんなことを考えていたところで、ふと思う。


「……アレ? でも、やっぱりこれってデートっぽいような…………いやいやいや。だからそういうのじゃないって」


 と、自分に言い聞かせた数秒後に、もう一度「いやいやいや」と否定する。


 オーケイ。落ち着け。新野翔太。

 女子とお昼ごはんを食べることなんてデートでも何でもない。

 学食でたまたま同じテーブルになった女子と一緒にごはんを食べても、それはデートは言わないだろう?

 陽キャなクラスメイトなんか、教室だろうが学食だろうが、女子の集まりにしれっと潜り込んで一緒にごはんを食べているなんてこともやってるだろう?

 それはデートと言えるのか?

 いいや、言えない。

 だからまあ、落ち着け。新野翔太。

 ただ、ちょっとどころか、えらい可愛い女の子と二人きりでお昼ごはんを食べるだけだ。

 決してそれはデートじゃない。


「いやいやいや! たとえデートじゃなくても落ち着いていられる状況じゃないよ、これッ!?」


 昨夜以上の興奮と緊張が、翔太の心臓に早鐘を打たせる。

 ロンTとジーンズという、コーディネートと呼ぶのも烏滸がましい平凡な組み合わせで本当に大丈夫なのかと思えてくる。


(いや、待てよ……)


 幸いというべきかはわからないが、今月は〝彼〟からのイジメが金をせびることよりも暴力に偏っていたおかげで、懐にはまだ余裕がある。

 そのお金を使って、今すぐオシャレな服屋さんで服を買えば――と思ったところで、翔太は我に返った。


 気づいてしまったのだ。

 ユニクロですらもハードルを感じる自分では、オシャレな服屋さんで服を買うどころか、店に入ることすらできないことを。


 自分がどこまでいっても陰キャだという事実を思い知らされた翔太は、両手に床をついて項垂れた。

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