第3話 DV

 翔太と別れた海玲は、急いで自宅を目指して走り出した。

 時刻はもう一九時を過ぎている。

 残業がなければ、もう〝あの人〟が帰宅している時間帯だ。


「はぁ……はぁ……っ」


 心臓の鼓動が、やけにうるさかった。

 走っているから当たり前だと言われればそれまでだけど、海玲はどうしても、そんな当たり前で済ませようという気持ちになれなかった。


(わたし……休みの日に、男の子と会う約束……しちゃった)


 トクントクンと胸が高鳴る。

 ほんの数十分前は〝あの人〟がいる家に帰るのが嫌で死のうとしていたのに、今は明日が楽しみで仕方なくなっている自分がおかしくて仕方なかった。


(デートというわけじゃないけど……)


 どこか言い訳がましい言葉を付け足してから、彼の名前を呟く。


(新野翔太くん、か)


 こう言っては失礼だけど、決してかっこいいタイプの男の子ではないと思う。

 身長が低めなせいか、どちらかと言えばかわいいタイプの男の子だった。

 けれど、


(すごく、優しい、男の子だった……)


 学校の友達は、男の子を褒める時に困った時は「優しい」って言っとけばいいって言っていたけれど。

 そんなんじゃなくて、本当に、ちゃんとした褒め言葉として、翔太は「優しい」と海玲は思う。


 自分も自殺しようとビルの屋上まで来たはずなのに、他の人間が自殺しようとしているところを見た瞬間、一も二もなく止めにいったことは勿論。

 言動の一つ一つが、こちらを気遣う優しさに充ち満ちていた。


 LINEを交換したいと思ったのも、また会う約束をしたのも、そのことに胸が高鳴っているのも、新野くんだから――と、海玲は思う。


 明日が待ち遠しいと思ったのは、本当に……本当に久しぶりだ。

 彼に恋をしたのかどうかは、正直自分でもまだよくわからないけれど。

 彼とならそうなってもいいかなという想いは、自分の中にあった。

 あったから、どうしても、顔が赤くなるのが抑えられなかった。


 どうしよう。

 キャーキャー叫びたい。

 ベッドに寝転がって足をパタパタさせたい。

 この楽しい気持ちを目いっぱい噛み締めたい。


 けど、


 けど……、


 家に近づくにつれて、胃の辺りがキュッとした痛みを訴えてくる。

 その際、少しだけ胃液が逆流したらしく、口の中に酸っぱさが拡がっていった。

 心臓の鼓動がやけにうるさいのは、走り続けたせいもあるけれど、もうすぐ家にという緊張によるところが大きい。

 胸の高鳴りなどという幸せな鼓動は、最早完全に鳴りをひそめてしまっていた。


 やがて、家の前にたどり着く。

〝あの人〟のDVに耐えられなくなって蒸発した、母がいた時でさえも少し大きすぎると思っていた、ちょっとした邸宅ほどもある一軒家。それが、海玲と〝あの人〟の家だった。


 家の明かりが一つもついていないことにホッとしながらも、鍵を開けて中に入り、玄関の明かりをつける。

 続けてリビングに移動し、入口脇にあるスイッチで明かりをつけた瞬間、


「――っ!」


 海玲は、漏れかけた悲鳴をかろうじてこらえた。

 リビングの中央に、彫りの深い顔立ちをした、まだ四〇手前だというのにやけに白髪が目立つ、スーツ姿の男が立っていたから。

 この男こそが、〝あの人〟――海玲の父親、夏木うしおだった、


 対外的には良い意味で、海玲にとっては悪い意味で硬い表情をそのままに、こちらを見つめてくる。

〝この人〟について何も知らない他人から見たら、この硬さが清廉潔白な印象を与えるそうだが、海玲にとっては、ただただ不気味で、ただただ恐ろしい印象しかない。


「今日は随分、帰りが遅いな」


 表情に負けず劣らず硬い声で、潮は言う。


「と、友達が自転車の鍵をなくして……一緒に探していたら、こんな時間になってしまったの……」


 あらかじめ用意していた言い訳を、震えた声音で紡ぐ。

 たとえその言い訳に正当性があったとしても、〝この人〟には通じないとわかっていた。

 わかっていたけど、紡がずにはいられなかった。

 なぜならそれが、海玲にできる唯一の抵抗だから。


「それなら、俺に連絡の一つくらい送ることもできたはずだが?」


 潮に睨まれ、海玲の小さな体がビクリと震える。


「で、でも……こないだは仕事中に連絡するなって――」

「言い訳するなッッ!!!!」


 潮の怒号を直に浴び、再び海玲の小さな体が震え上がる。

 今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られるも、そんなことをしたら後でもっとひどい目に遭わされることがわかっていたので、動くことすらできなかった。


「どうしてお前はいつもいつもッッ!!!!」


 いったい何が「いつもいつも」なのかは、それこそ「いつもいつも」〝この人〟は言わない。

 全てのうろこが逆鱗と化した龍の如く、ただただ怒り狂うだけ。

 そこに理由なんてものは存在せず、


「ご……ごめんな――うぐっ!?」


 慈悲なんてものも存在しない。

 背丈が一八〇センチを優に超える潮が、頭一つ以上小さい海玲の腹を殴る。


「や、やめ――えぶっ!?」


 殴る。


「――ぇぅっ!?」


 殴る。


 そのあまりの痛みに、海玲はうずくまる。

 胃の奥から込み上げてくるものがあったけれど、ここで吐いてしまったらさらなる暴力を振るう口実を〝この人〟に与えてしまうため、なんとかこらえた。

 けれど、痛みのあまりに流れた涙は堪えきれず。


「その程度で泣くんじゃないッッ!!!!」


 潮の右脚が後ろに下がった瞬間、海玲は慌てて亀のように縮こまる。

 直後、激烈な衝撃が海玲を襲った。

 サッカーボールのように蹴られた海玲は、亀の姿勢が崩れ、フローリングの床に仰臥する。

 やっぱり、あの時ビルから飛び降りておけばよかったという後悔が、少しずつ少しずつ海玲の心を蝕んでいく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 リビングの天井を見上げながら、壊れたラジオのように繰り返す。

 目から涙を、口の端から胃液混じりのよだれを垂らしながら、ひたすら繰り返す。


 そんな娘の姿を見たからか。

 潮は我に返ったように、慌てて海玲を抱き起こした。


「あ……あぁ……まただ……また俺はなんてことを……」


 続けて、目尻に涙を浮かべ、海玲を抱き締める。

 大事な娘に俺はなんてことを――と、悲劇の主人公ぶった心の声が聞こえてきそうな調子で。


「すまないッ!! 海玲……すまないッ!!」


 何百何千という暴力の後にいつもいつも聞かされる、何百何千という謝罪。

 そんなものが、海玲の心に響くわけがなかった。

 海玲の心の内にあるのは、「今日はいつもより早く終わってくれてよかった」という安堵だけだった。


 自分の父親でありながら――いや、自分の父親だからこそ、海玲には〝この人〟のことが全く理解できなかった。


〝この人〟がいつも何に怒っているのかが。

 何でわたしに暴力を振るうのかが。

 その後に何で謝っているのかが。

 これっぽっちも理解できなかった。


 窓の近くや玄関先といった、外に声が通りやすい場所で激昂することがないことも。激昂している割には顔をたない冷静さも。

 本当に、これっぽっちも理解できなかった。


 どこまで計算してやっているのかも。

 それとも、本当に全く何も計算せずにやっているのかも。

 それこそまるで、人の皮をかぶった別の生き物を相手にしているかのように、これっぽっちも理解できなかった。


 そして一番理解できないのは、ここまでされてなお、〝この人〟を嫌うことができない自分だった。

 他人だと思うようにすれば嫌えると思ったのに、〝この人〟とか〝あの人〟とか思っていれば、その内他人に思えるようになると思っていたのに……無理だった。嫌えなかった。軽蔑することさえできなかった。

 そんな自分のことが、本当に、全く、これっぽっちも理解できなかった。


(明日……早く来ないかな……)


 父に抱き締められながら、父の涙ながら謝罪を聞き流しながら、現実から逃げるように、そのことだけを考える。


 明日という希望がある。

 昨日までとは違うその一点だけが、海玲にとっては唯一の救いだった。

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