お赤飯を炊かないで
不璽王
第1話
ver.α(-hell-)
2007年。私が夏野杏奈と名付けられる前。産声を上げる直前の、息を吸った瞬間。その瞬間から私の記憶は始まっている。
産声は「おぎゃあ」ではない。正確には「ぷぇっ」「すぅ」「おぎゃあ」だ。口から羊水を吐き出し、空気を取り入れてからでなければ、産声を上げることなど出来はしない。
生まれ落ちた直後の私にとって、その空気が問題だった。その問題が私の意識を強制的に目覚めさせ、そして地獄に突き落とした。
くさい。
死ぬほどくさい。
血の臭い。
汗の臭い。
脂の臭い。
羊水の臭い。
小水の臭い。
病人の臭い。
水道水の臭い。
消毒薬の臭い。
ラテックスの手袋の、リノリウムの床の、医師の口の、老人の、嬰児の、手術室の、表の廊下の、ゴミ箱の、トイレの、食堂の、病院の、街の、都市の臭い。
ありとあらゆる種類の臭い、その全てが際立つ悪臭となって、私を絶望の底へ突き落とす。
産声なんてあげたくなかった。産まれたことを後悔していた。だから私は「おぎゃあ」と泣くかわりに、息を止めた。自分の鼻孔の臭い、吐き損ねた少しの羊水の臭い。でもそれだけ。息を吸わない限り、新たな悪臭には襲われない。そんな私の足を掴んで逆さに持ち上げた医師は、事もあろうに背中をバンバンと叩いて私に無理やり息をさせようとした。やめて。マジやめて。この悪党。私はこんな悪臭を吸い続ける人生に耐えられそうにない。息をしないで生きていく。それで死ぬなら、死なせてくれ。
「おぎゃあ!」痛い!
「おぎゃあ!」臭い!
「……おぎゃあ!」痛い! 息を止めた途端に叩くな!
「おぎゃあ!」臭いんだよ!!
どっこい生きてる。この世はクソ。
わかりますか? 私以外の一体誰がわかるんです? 何でもかんでも臭い。乳首も臭いし母乳も臭い。口に含まされては吐いて、無理やり飲み込まされては吐いて、吐瀉物の臭いを嗅いでは吐いた。
点滴がなければ死んでいた。
点滴なんてなければ死ねてたじゃん。
誰なの? 点滴なんて考えたのは。本当に頼むから、私がいるのと同じ地獄に落ちてくれ。
新生児集中治療室に放り込まれ、そこから追い出された後も状況は一緒。
口を開ければよだれ臭い。母が米を食べれば糠臭い。パンを食べれば酵母臭い。牛乳を飲めば乳臭い。水を飲めば水臭い。何もシャレを言ったわけじゃない。水は臭い。本当に。カルキとかミネラルとかの臭いもあるし、水がただ水というだけで臭ってくるにおいもある。わかってくれる? ただ生きるというだけで私がどれだけ苦しい思いをしているか。ただ生きて存在してるだけで、その場にある全ての穢れが鼻孔に飛び込んでくるこの気持ちを。
私の苦しさは、他の誰も理解出来ない。そのことに気付いたのは、生後十時間くらいの時だ。
ver.β(-buddha in hell-)
私が地獄に生み落とされてから、一ヶ月と少し。救いが訪れたのはそんな時だ。
いつものように「臭い」「死ぬ」と泣きながら息をしていた私の鼻孔に、とんでもない香りが飛び込んできた。
寝ているベッドの臭いに混ざった、入院している病室の臭いに混ざった、人の行き交う廊下の臭いに混ざった、慌ただしい処置室の臭いに混ざった、乾く前の血と羊水の臭いに混ざった、産まれたての新生児の香り。その体臭。他に類を見ない、極上の芳香。
「この世界って、ひょっとして苦痛以外のものもあるの?」
生まれて初めてそう思った私は、生まれて初めて涙を止めた。
その香りは、小野更紗と名付けられる女の子の匂いだった。
私はこの時生まれ変わった。いや、世界が再び創世されたと言うのが相応しい。決して過言じゃない。私にとって、それだけ大きな存在がこの世に生まれてきてくれた。
察してくれたろうか。いま語られているのは、二人の間の不可分な絆の物語。奇跡が起こした運命的な一目惚れ。つまりは私と小野更紗の、百合の話だ。
ver1.0(-honey moon-)
やわぴに🔒 @_ywpn
JE SUIS YWPN
12:26 2020/08/05
Twitter for iPhone
0リプライ 0リツイート 13いいね
スマホから顔を上げて、小野更紗が問いかける。
「杏奈、またアカウントロックされてたの?」
問われた私は、思考を日本語に切り替える。話しかけられるまで頭を満たしていたのは、詳細なのに曖昧な、においという苦痛の幻像で象られた思考。一度も洗われたことのない犬みたいだった頭の中は、文字と音声という、硬質で神秘の欠けたものに置き換わった。
「……Twitter? うん、されてた。今日の昼に解除された」
言いながら、深々と呼吸をして更紗の髪の匂いを内臓に送り込む。私はいま更紗にぴったりと張り付いて、ぐりぐりと顔を押し付けている状態だ。
「今回はなんて呟いて通報されたの?」
ガタタンゴットンとリズムを刻む電車の揺れに同調しながら、更紗は窮屈そうに私のツイートを遡る。ロック解除の条件が不適切なツイートの削除だったから、そこを探しても見つかるはずがない。
「七月の連休明けに、北口日和の臭いで驚くことがあって。それで、えーと……『中一女子から三種類のゴムの臭いするのヤバい。私たちの年齢で一度に二箱も空けることある???』って呟いたの」
「ゴム? 北口さんって髪結んでたっけ」
頭に疑問符を浮かべている更紗がかわいくて、少し笑う。より強くくっついて、膨らんでいない胸と少年のようなお尻を撫でさすった。
「更紗はまだ分かんなくていいけど、エッチな意味なの。だから北口さん恥ずかしかったんだろうね、友達動員してみんなで通報したんだと思う」
周りの乗客から戸惑いの臭いが漂ってきたので、更紗をしつこく撫でるのはやめなければいけない。でも名残惜しくて、最後に中指でシャツとシミーズ越しに乳輪の輪郭をなぞった。少し、泣きそうになる。
「杏奈さ、くっつくのはいいけどさ」と言う更紗の寛容さに私は助けられている。その寛容さがなければ、私は今ここに生きていないだろう。「あまり変なところ触るのはやめてよね」
「うん。ごめんね」
私はちょっと反省するみたいに顔を下げた。そのまま更紗の首に頭を預ける。膨らんだボブカットの下の、鎖骨の窪みに鼻を擦り付けて、溜まっていた匂いを回収していく。
「ところで」と更紗が言う。「前から聞きたかったんだけど、杏奈がTwitterで使ってるやわぴにって名前、これ何?」
「それはね、柔らかなピンクの乳輪」
「は?」
「やわぴには、柔らかな、ピンクの、乳輪のこと」
「なに? 好きなの? ていうか好きだからってそれ名前にするの、変態すぎない?」
更紗の体臭に、少し軽蔑の感情が混じる。
「今更それ言わなくても。私が変態なのは、とっくに自明のことじゃない?」
「……それもそうか」
軽蔑のにおいが、納得のにおいに変わる。四六時中私と一緒にいることで更紗の感覚はとっくに麻痺しきっていて、かなりチョロくなっている。
「……ね、そろそろ降りる駅だよ」
「うん」
二人ひっつきながら、ドアの前まで移動する。そこで私は、一つお願いをする。
「更紗さ、電車降りたらさ」
「なに?」
「つけてるマスク、交換してくれない?」
「は?」
マスク越しでもはっきり伝わるくらい、更紗が歪んだ声を出す。
「いいじゃん。だめ?」
「キモいんだけど……別にだめじゃないけど。ていうか交換じゃなくて、私のあげるから未使用のやつちょうだいよ。杏奈の使用済みなんて要らないし。それならいいよ」
「ありがと。更紗好き。更紗がいないと私死んじゃう」
「はは、知ってる」
マスクの内側に、更紗の乾いた笑いがこもった。
電車を降りてしばらく炎天下を歩き、人混みから充分に離れたところで更紗はマスクを外した。マスクと顔の間にこもっていた体臭と、少しの火傷の跡のにおいが大気に放出される。
更紗のマスクを受け取り、つける。そして深く吸い込む。
「……ッ! 濃っ厚……ですわね」
思わずお嬢様言葉になってしまった。
「そういうのいいから。早く新しいマスク頂戴」
更紗は周囲の目を気にしながら手を出して催促してくる。マスクをつけていない姿を恥ずかしがっているような態度だ。何も更紗に限ったことじゃない。最近では、学校でマスクを外した姿をクラスメイトに見られるだけで「うわ、裸顔じゃん」と引かれるようになってしまった。そんな新しい言葉が、誰の注釈もなしに通じるようになっている。
カバンから出したマスクを手渡すと、更紗は素早く装着し、私の手を引いてまた歩き出すよう催促する。
「ほら、早く行こう。デパートでファンデ? コンシーラー? なんか知んないけど、買ってくれるんでしょ」
「待って更紗、急がないで。このままもうちょっと、余韻に浸ってたい」
悪臭と熱気に満ちた街で、マスクの匂いがまたたびのように私を陶酔させる。
「あー、それか手を引いて誘導してもらっていい?」
「もう、しょうがないな」
手を繋いで、引っ張ってもらいながら歩く。更紗は私のお願いをほとんど断らない。それは多分、負い目を感じているからだろう。金銭的な面とかで。それとも、目を離すと死ぬかもしれない私がかわいそうで?
更紗がそうなったのは、私たちが小学三年生の時、更紗の母親である小野真希に聞いてからだったように思う。
その日、更紗は初めて疑問に思った。
「なんで杏奈ちゃんは、家族じゃないのに一緒に暮らしてるの?」
答えはこうだったそうだ。
「杏奈ちゃんのご両親から、お金を貰っているからよ」
そういうわけだ。
更紗の父、小野栄太郎は別に死んだわけでも働いていないわけでもないから、小野家が特別貧乏というわけではない。医療機器メーカーの開発兼営業をしてると聞いている。稼ぎはそこそこあると聞いているから、私の両親からの援助におんぶに抱っこというわけではないだろう。今年できたばかりの新型医療機器は、刺激に過敏になり過ぎて日常生活を送るのが困難な人に対し、皮膚や粘膜等をレーザーで処置して治療するものだとか。お正月には「感度を三千倍にされてしまったとある専門職の人を完治させた」と誇っていた。笑っていいところだろうか。
「ね、右側を歩こう」
誘導してくれる更紗に声をかける。理由を聞き返すこともなく、更紗は歩道の右端を歩いてくれる。タンクトップにサンダル履きの中年女性とすれ違う。
「今の人、なんかあったの?」
「うん、多分感染してる。違うかも。念のため」
「あの人そうなんだ。え、でもウィルスのにおいってわかるもんなの?」
私は首を振る。
「ウィルスの臭いは流石にもっとよく嗅がないとわかんないな。体調を崩してる人の臭いとか、病み上がりの人の臭いはわかるから、あの人からは距離を取った方がいいなって。それだけ」
「乳酸菌の有無はすぐわかんなくても、牛乳とヨーグルトの違いは一目でわかるようなもん?」
「あー、うん。そんな感じ」
「ふーん、なるほど」
そんな話をしているうち、デパートの気配をすぐそばに感じるようになってきた。自動ドアが人を感知して開くたび、冷気と共に一階化粧品売り場の臭いが外まで漏れ出してくる。自己主張が激しく、質量さえ感じさせる、むせ返るような臭い。襲ってくるその臭いに耐えきれず、更紗の背中に顔を埋めた。
「臭いが苦手でも今日は付き合って貰うからね」
そう言って更紗は引っ張る手の力を強める。入り口でアルコール消毒液をワンプッシュし、私の手にももうワンプッシュ。ああ、アルコール臭い。血の臭いに次いで嫌な臭い。
更紗は手を揉み合わせながら「中は涼しーねー!」と一息ついてるが、マスクを嗅いでなんとか持ち堪えている私には笑って返事をする余裕はなかった。
「あの! 中学生なんですけど! やけどが隠したくて……ファンデーション? が欲しいんですけど!」
よくCMを流しているブランドの売り場で、更紗がお姉さんに話しかけ、マスクを外す。アクリル板越しに火傷の跡を見せたのだろう。
「うっわ! わっか! こんな可愛いお客さんひさしぶりじゃん? え? てかおじょーちゃん肌綺麗だから化粧なんてしないほうが良くない? ってプロのあたしが素人のお客さんに疑問系で言ったらダメか。いらないいらない。いるとしたら日焼け止めと化粧水かな。あーけど確かに火傷の痕は痛々しいから、治るまでは隠したい気持ちもわかるなー。けどそれくらいの弱みなら見せといた方が男にモテたりもするんだよ。かわいい女の子の肘が汚いのを見つけてドキッとする男がいたりね。そんでなんで顔なんて火傷したの?」
「ち、調理実習でコロッケ揚げてたら油が跳ねて……。で、今みたいにこう、後ろから羽交い締め……みたいな感じにされてたので、避けることもできず、顔で受けちゃって」
更紗に背後からしがみついている私に対し、お姉さんは不思議そうな臭いを出して一秒ほど意識を向けた。
「ふーん。まぁそれくらいの大きさならすぐ治るっしょ。それまで隠すならファンデーションよりコンシーラーがいいかも。ちょっと基本的なところから見繕ってみよっか。あ、買ってく前に診断とかもしてみる? イエベとかブルベとか。わりかしすぐわかるよ。みるべ? みようみよう。後ろの子もどう?」
お姉さんは、口を開いた時に出てくる言葉の数がものすごく多い人だ。圧倒された更紗は喋りたくても隙を見つけることができず、ただ口をパクパクさせている。話しかけられたついでに、私がこちらのペースに戻すべきかもしれない。相手より多く喋ればいいだろうか。
「あの、私は化粧品とか興味がないというか臭くて憎んでいるので客じゃないので、だから客じゃないです。私に物売りつけるつもりならこれから無視してくれて結構です。でもこの更紗ちゃんに売ることになる化粧品については要望があって、できるだけ臭いがきつくないのをお願いしたいんです。体臭を覆い隠さないような。邪魔しないような、なんかそんなのをというかあの、お姉さんがいいなっていう候補の商品を並べてくれたら私が嗅いでチェックするので、それでアウトじゃなかったのから選んでくれたら……」
とかなんとかまくしたててしまったから、更紗用の化粧品なのに私審査の品評会を始めてしまった。嗅いでコメントするたびにいちいち「辛辣だねー!」とか「的射てるー!」だのと売り場のお姉さんはバカウケしてる。なんか変だ。私の買い物じゃないのに、主役を奪ってしまった。機嫌を損ねてるかと心配になったが、更紗の体臭には納得の匂いが混じっている。「お金を出して貰うし仕方ないか」とでも思っているのかもしれない。謙虚な子だ。
「最近気付いたんだけど、なんか、みんなさ」無事にお姉さんおすすめのあまり臭くない化粧品を買えた、その帰りの電車で、思いついたように更紗が呟く。「阪急電車に憧れてるところない? 阪急沿線に住みたいとか阪急使って通学したいとか。私はその理由としてさ、小豆みたいな色の電車が落ち着き感出してるのかなーとか、この座席の苔みたいな色、あ、これゴールデンオリーブって言うらしいよ。私これ好き。なんかそういう色合いで憧れを誘ってるのかなーとか考えたんだけど、いま違う可能性思いついてさ」
私は特に相槌も思いつかなかったので、ただ黙ることで続きを催促する。
「阪急って宝塚あるじゃん。あ、劇場もだけど、私が言いたいのは音楽学校の方。で、彼女ら電車通学もしてるよね。あ、それ? って今思って。だって一緒の車両にいたらもうなんかオーラとか匂いとか言葉遣いとかで、気品がすごいよね。圧倒されちゃう」
「まぁ……確かに、マシな匂いかもね」
正直なところ、タカラジェンヌの卵も他の乗客も、臭いという点では大差がない。が、私の感覚器がおかしいだけだと分かっているので適当に肯定しておく。更紗は不満顔だ。
「私の主語が大きかったのかもしれないけど、思ってた反応と違うなー。基本杏奈は匂いで褒めないよね。タカラジェンヌの卵がいい匂いじゃなくてマシな匂いなら、いったい何がいい匂いなの?」
何を今更聞いてくるんだ、と思う。十三年付き合ってきて、とっくの昔にわかっていることだろうに。
「私にとってのいい匂いは、更紗の匂いだけだよ」
「……ふーん」更紗は小さな顎に人差し指を当て、考え込む。「この世の全部を臭がる杏奈がさ、その中で唯一いい匂いって思う私がさ、もし杏奈から逃げてどっか行っちゃったら、由々しき事態だよね。でも、それってどれくらいの由々しさなの?」更紗は冗談めかして笑う。「『由々しさ』なんて尺度があるか知らないけど」
「……私にとっての由々しき事態っていうのはね」出そうと思ってた声より深刻な響きが出てしまった。更紗が唾を飲む音が聞こえる。「更紗がどっか行っちゃって二度と会えないとか、自分の腕がもげたとか、目が見えなくなったとか、そんなことじゃなくて。だってそれならいい匂いの更紗はどこかにいるし、その匂いも漂ってくるし、感じることができるから」
そう、そんなことはこの地獄に生まれたことに比べたら、どうということはない。本当に、本当の本当に深刻なのはもっと別のこと。
「そうじゃなくて、更紗の脇やパンツの中から発毛の匂いがしてきた時とか、乳輪が膨らんでおっぱいが大きくなる前兆が起きてるとか、骨盤が育ってお尻が丸くなったとか、そういうことなの」
そう、私は更紗に成長して欲しくない。
「だってそれは全部、更紗の初潮が止められないということの証拠だもん」
自分で言って笑ってしまった。だもん、だって。子供がわがままを言ってる時と、何も変わらない。更紗は黙って聞いているが、重苦しさを感じているにおいがした。
「鼻が効きすぎて、においの好みが激しすぎる私にとっての最悪の人種は、ワキガとか汗っかきの人じゃなくて、生理中の人たち。ホルモンバランスとか経血とか痛みを我慢してる時の冷や汗とか、とにかく女の人が月経になったことで生じる全部の臭いがダメなの。この世のありとあらゆる我慢できない臭いの中でも、最悪に我慢できない。更紗がその最悪の人種の仲間入りをしてしまうと、私はもう」ここまで話して。そのことを想像して。そして、行きの電車でなぞった乳輪の感触を思い出して。私は絶望の先取りをしてしまった。意思に反して溢れる涙を、止めることができない。
「生きて、いけない」
ver2.0 (-blood & moon -)
次の週、いつもより遅くていつもより短い夏休みに入ってすぐの日の朝。目を開ける前からもう、更紗がいなくなったことが分かっていた。
家出、誘拐、神隠し。そのどれだろうと悩むこともなく、私には分かる。家出だと分かってしまう。他の誰かと一緒ではない、更紗の臭いが単独で動いているのが明確だから。
机の上に、書き置きが残してある。
「杏奈ちゃんの顔を見たくありません。死にたくなります」
娘の初めての家出を受けて、更紗の両親は心当たりに片っ端から電話を掛けている。娘一人に私を押し付けて、負担をかけすぎたと後悔している。自殺の恐れがあるとして、警察にも連絡が行く。
私は独自に、二足歩行の警察犬として捜索にあたる。
更紗の臭いを追い、駅まで続く道を歩く。これくらいのこと、私には朝飯前に出来る。そう言えば朝食をとっていなかった。コンビニに寄って臭い食べ物を何か買おうかと考えたが、お腹が空いてないことに気付いてやめた。
デパートに出かけたときにも利用した駅に着く。更紗の臭いの減衰具合から推測すると、駅についた時間は始発かその次の電車が出る頃。上りのホームで臭いは途切れている。私は各駅電車に乗り込み、ドアが開くたびに鼻を効かせ、駅のホームに更紗の臭いが残っていないか確認する。
悪臭。
悪臭。
悪臭。
更紗の臭いが混じった悪臭。この駅だ。
県境を越える二つ前の駅だった。家出でも県外に出ないのは、中学生にそんな遠出は早いという思い込みがあるからだろうか。駅からも徒歩での移動のようだ。追いかけるたび、空間に残る更紗の汗の臭いが濃くなっていく。ちゃんと水分補給はしているだろうか。水を飲んでリラックスした時の臭いが途中になかったので心配になる。
ミイラ取りがミイラになってはいけない。日陰に入り、タオルで汗を拭うと、水筒に入れてきた水を一口飲んだ。この水は更紗の風呂の残り湯だ。沸かし、濾したものを冷やしている。これ以外の飲み物は、吐き気を催してとても飲むことができない。
「更紗……」
口の中の残り香に意識を集中する。もう、この匂いを嗅げないことを考えながら。
小休止を終えて、再度痕跡を辿る。駅から国道に出て、ドラッグストアに入ったようだ。出口付近にデカビタの臭いが少し残っている。水分補給はちゃんとしてくれたようだ。飲み終わってからまた移動して、分岐があるたびに少し立ち止まっている。目的地があるわけではなく、ただ彷徨っているのだろう。臭いに導かれて迷わず歩く私なら、じき追い付くことが出来るはずだ。間に合わないことはわかっている。それでも私は、更紗の元に行かなければならない。
太陽が真上にある。殴るように、地面を焦がしている。
工業地帯に場違いに紛れ込んだファミレスに入った。こんなところにファミリーが来るのかと思うが、昼食にも遅い時間になっているのにわりと混雑している。案内の店員に待ち合わせだと告げて、食べかけの皿が残る席に腰掛けた。ドリンクバーだけ頼む。飲み物はどれも臭くて飲めたものじゃないが、コップに氷をたくさん入れて握ると、熱を持った手のひらに気持ちが良い。そのまま目をつぶって待つ。汗が、だんだんと引いて行く。
暫くすると、更紗がトイレから戻ってきて空席を埋めた。私の姿を見つけても、動揺を見せることはない。元気いっぱいではないが、健康に問題はない臭い。ドラッグストアの有料ビニール袋をガサガサと鳴らし、トイレに持ち込んでいた茶色い紙袋をその中に突っ込む。少しの間ハンカチで額の汗を拭いたり、ランチセットのサラダを突いたりしていたが、観念したように口を開いた。
「やっぱり、杏奈からは逃げられないね」
更紗は、ビニール袋の隙間から覗く紙袋に手をやる。
「生理、始まっちゃった」
「……うん。知ってる」
「杏奈のそういう顔、見たくなかったな」
自分がどういう顔をしているのか分からない。いつもの、更紗の匂いを嗅ぐことで安心していた緩い顔ではないのだろうということしか。でも、今の私の表情を見ることで更紗が死にたいくらい悲しんでいることは分かる。
「見たくないから出て行ったんだよね。ごめんね、この顔で追いかけて」
「いいよ。あんなこと書いたけど、私も杏奈にしか見付かるつもりなかったし」
「うん」
「死ぬんだよね。いつ死ぬの?」
「さぁ」と言ってから、はぐらかす必要はないなと思い直した。「多分、すぐ。いつまで我慢できるか分からないし。もう限界かも」
「私……私のわがまま、言っていい?」
何を言われるのかは、もう分かっている。
「死なないで。私のために生きて」
私は横を向いて、曖昧に頷いた。私の命を十三年間繋いでくれた人の願いだ。断れるはずがない。だけど、声に出して返事は出来なかった。だって今も、臭いの地獄に苦しめられている。これでも約束をしたことになるのだろうか。
「約束だよ。守ってね」
なるようだ。
ver3.0 (-open eyes-)
結局、その後三度自殺未遂することになった。更紗との約束を破ったとも言えるし、結果的に死んでないのだから守ったとも言える。
二度目の自殺に失敗した後、更紗の父から嗅覚を弱くする処置を提案された。自殺を試みた身で拒否する理由もない。医者の手で鼻粘膜をレーザー処理されると、確かに鼻がほとんど効かなくなった。そうしたら連鎖的に、私の視覚も聴覚も普通の人よりすごく弱いことが判明した。そんなことある?
嗅覚に頼り切りだったから発達しなかったんでしょう、と医者は言う。私は鼻で見て、鼻で聞いていたのだそうだ。そんな馬鹿なと思ったが、生活がえらく不便なのは間違いがない。目隠しと耳栓をしたまま日常生活を送っているようなもので、そのことが三度目の自殺未遂に至るきっかけとなった。
また縊死に失敗した私は、病院で目覚める。自殺の原因を聞いた医者は、におい以外の感覚に頼るようになれば、その内常人程度には発達して見えたり聞こえたりするようになるでしょうから、そんなに悲観しないで、なんて、そんな甘い見通しを告げた。人間の体って、そんなにいい加減なんだっけ。以前は鼻を通して人体の仕組みを全部理解したつもりでいた。今はもう、生き物のことがそんなにわからない。
世界はもう、そんなに臭くない。他の全部を失った気分だけど、それだけは良かったと、心の底から言える。
更紗は、生活に支障が出ている私のサポートをしてくれるようになった。老老介護じゃなくて若若介護だね、と笑いかけてくる。ぼんやりとした顔しか見えないし、ぼんやりとした声しか聞こえないが、楽しんでいるのが伝わってくる。嗅覚を失う前と、二人の距離感はほとんど変わらない。私が更紗にくっついて行くか、更紗が私を導いてくれるかの違い。ただそれだけ。
"更紗"のことを考える。嗅覚を失ってもすぐにはなくならなかった、嗅覚ベースの思考方で。言葉ではない、濡れた犬の考え方で。
その思考の中で、"更紗"は名前や人間のことではなく、様々な匂いの絡まり合った複雑な構築物だ。それは私にとって、この世にただ一つ存在した幸福の形。他の人なら、ひょっとしてそれを神と呼ぶのかもしれない。血の穢れによって現世から消失し、嗅覚を失って感知する術をなくした、唯一無二の私の幸せ。
今現実に、更紗はここにいる。私の腕の中に。毎晩同じ布団で一緒に寝ている。私は現実にいる更紗を抱きしめながら、濡れた犬の思考で"更紗"を再現する。
言語ベースで考えることが多くなって、夜毎に頭の中の"更紗"が曖昧になっていくのを感じる。それを完全に失った時、ようやく私は自分を凡人だと受け入れることができる。そんな気がしてならない。
やがて凡人になる私は、悪臭からは解放されている。でも、そこが地獄であることには変わりがないと思う。だって聞いたことがある。地獄とは神の不在のことだって。
「ねえ杏奈」
急に声がして驚いた。いつの間にか、腕の中の更紗が目覚めている。もう嗅覚で人に意識があるのかを察知することもできない。そのことに改めて気付く。
「ごめんね。びっくりした? へへ、驚いた杏奈珍しい。かわいいね、なんか」
「うん、びっくりした。びっくりする自分にもびっくりした」
耳元でゆっくり話してくれるなら、会話にそこまで支障はない。更紗は身をよじって、私の体の隙間に入り込んでくる。いつも私がしていたことをされるのは、まだ新鮮で、なんだか恥ずかしい。
「杏奈さ、もう死のうとしちゃだめだよ」
「……うん。ごめん」
更紗の声は、少し幸せそうに聞こえた。嗅覚で判断できなくなって自信がないから、多分だけど。
「こうなる前はさ、私がいなくなったら杏奈が困っちゃってたでしょ? すごく、すごーく困ってたでしょ?」
「うん。更紗のいない生活なんて考えられなかった」
「今はさ、逆になってんの」
「え?」
「だから、杏奈がいなくなったら、私が困るの。死ぬほど困るの。いないなんて考えられないの。私がいなくなった杏奈より、私の方がもっともっと困るの」
首を捻った。そうだろうか。更紗にそんな、私ほどの切羽詰まった事情はありそうにないけど。
「信じてないでしょ? そして、意味わかってないでしょ?」
隠せないな、と思う。私は正直に白状する。
「ごめん。更紗の言ってること、わかんない。どういうこと?」
「あのね、世間一般では、こういうのは愛の告白っていうんだよ」
「……は?」
更紗の顔が、正面に寄ってくる。
「そして、私に負い目のある杏奈への脅迫でもあるの。まさか、まさか、まさか。産まれてからずっと杏奈に貸しを作ってきた私の頼みを、断れるはずないもんね?」
更紗の唇が、近付いて、私の唇に。
「……生まれてから、今までの分。一生かけて返してもらうから」
唇が離れる。
目の前に、更紗の目が見えた。覆いが外されたように、はっきりと見える。甘えん坊な黒目が丸く潤んでいて、それが行儀のいい睫毛に縁取られている。
そう、目の前に更紗の顔が見えている。寂しがりで控えめな鼻が、わがままだけど影の薄い唇が、八方美人で果実のような頬が。さっきまでぼんやりとしていた視界が今はとてもクリアで、そのクリアな視界いっぱいに更紗の顔が見えている。
かわいい。
「……更紗の顔、初めてちゃんと見た気がする」
まじまじと見つめる私を、更紗の甘えん坊な目が見つめ返す。
「えー、そうなの? 本当に? ふふふ、かわいいでしょ。火傷も治ったし」
「うん。かわいい」
本当にかわいい。
「私さ、今、更紗に一目惚れしちゃったかも」
「わ、すごい。じゃあ両思いだね」
お赤飯を炊かないで 不璽王 @kurapond
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます