第21話 マリオネットの娘③
雨風の激しい音にフェンリルは目を開く。しかし微動だにしない。そのまま、まるで死体のように力なくベッドに横たわる。
暗い部屋のひんやりとした空気。降り止まない雨の音だけが無遠慮に耳に飛び込んでくる。一体この雨は降り始めて何日目になるだろうか。ひょっとしてこの雨もこの一連の現象に関連している?
フェンリルはまだ回り切らない思考を回転させながら、重い体を引きずってベッドから起き上がる。昨夜、あの赤い目の少女を見たのは夢かそれとも現実か。記憶が曖昧になっている。
いや、そもそもあれは何日前の出来事だったか。
フェンリルはなるべく落ち着こうと深呼吸すると、廊下へと出る。ここはロズウェル氏の屋敷。廊下を左手に進むと赤い目の少女を見たあたりだ。
「亡霊、か。」
フェンリルは無意識に呟く。そんなもの存在するはずがない。自分の中でそれを否定しつつ階段の下を見るとロズウェル氏が食堂のドアに手をかけるところだった。
「ロズウェルさん!」
思わず声を出して駆け寄る。ロズウェルは無表情のままこちらに反応してしばしフェンリルを待ったあと、ゆっくりと口を開く。
「昨日は夜遅くにお疲れ様。」
「いいえ・・・すみません真夜中にお騒がせしてしまって。」
反射的に口が開いて内心苦い顔をする。しかし絞り出すように戸惑いながら言葉を続けた。
「ルナは・・・どうしてます?」
ロズウェル氏は無表情な顔のまま答える。
「まだ食堂にいらっしゃっていませんね。それよりその顔。あなたの方は大丈夫なのですか。朝食はとれますかな?」
ロズウェルの提案に、フェンリルはそれはそうだと、真実を急ぎすぎている自分に呆れる。
食堂の大きな窓からは、相変わらず雄大な山々の景色が雨に濡れているのが見えた。フェンリルはお決まりの席に座ると深呼吸する。
焦りすぎだ。落ち着けば何か見えてくるかもしれない。まずは一呼吸置いて食卓を眺める。
朝食は既に準備されていた。質素なサラダと卵料理。そして炙ったパンとスープ。フェンリルは朝起きてから始めて思考を横に退けて、ゆっくりとサラダに口をつける。
シャキリという歯応えを期待したが、ふにゃふにゃしたキュウリの食感はお世辞にも良いとは言えない。
咀嚼しながらいつの間にかまた考える。そうだ、このサラダは美味しくない。フェンリルは思い出す。昨日はどうだったか。野菜の質がわずかだが昨日より劣化しているように思われた。
「この1日はループではない、という事か?」
思わず口に出してしまう。フェンリルは慌てて手で口を覆ったがもう遅い。ロズウェルは無表情な瞳をこちらに向けていた。
「妙なことをおっしゃる。」
そして手を動かしながら続ける。長い机の端と端。手元の動作は見る事ができない。
「しかしもし例え、1日がループしているとしても。人間の営みは毎日似たようなものの繰り返し。大して違いが無いのではないかね?」
そう言うと傍に立つローザを見る。フェンリルもローザを見る。そこにあるのは普遍性。永遠に続く繰り返しと言うことか。
フェンリルは手早く食事を済ませると、紅茶が運ばれてくる前に席を立つ。そしてドアに手をかけて、振り向かずに問いかける。
「ロズウェルさん。昨日の夜、僕がなぜ悲鳴を上げたか聞かないのですか?」
カチャリという茶器の音。カップをソーサーに置いたのであろう。
「そうですな。まぁ、おおよそ"ローザでも見た"のでありましょう。」
その答えにフェンリルはしばし硬直したのちにドアを閉めて部屋を出る。ロズウェルは静かにドアを一瞥した。
夕食が済んでから、フェンリルはルナと合流する。
「本当にやったのかい。」
フェンリルは目の前の光景を見て恐れながら、半分は呆れながらルナに聞く。対するルナは自信満々に胸を張っていた。
「ええそうよ。一階の左側の廊下は全て掃除したわ!目立たないようにね。」
あまりの大胆さにフェンリルは汗をかく。
「ロズウェルさんは気がつかなかったの?」
「平気よ。あなた気がつかないの?ロズウェルさんは何故か二階の自室と食堂と、その隣の書斎を行き来するだけよ。」
意外にも冷静に観察しているルナにフェンリルは感心する。
「ローザは?」
これにもルナは自信満々に答えた。
「あの子はほとんど食堂か厨房にいるわ。あと庭に出て外の様子を見る時もあるけど、この雨だからいろいろ仕事が捗らないみたいね。」
よく見ている。フェンリルは優秀な助手に勇気をもらったようにランプに火をつける。僕もそろそろ動き出さなきゃな。と、自分を叱咤する。
「そこまでわかれば十分だ。さぁ、行こうか。」
二人は暗闇を切り裂いて廊下を進む。
初めて足を踏み入れるその長い廊下には、中央に扉が一つあるのみだった。よほど大きな一つの部屋が隣接してあるという事か。
扉に近づくとフェンリルは床に跪き、ドアの下から中の様子を伺う。
微かに唸るような甲高い音がする。それと同時にうっすらとした青い光が漏れている。
「何かがこの中にある。」
口の中で小さく呟くと匂いを嗅ぐ。カビの匂い。そしてこれは、錆びた鉄の匂い。いや、乾いた血の匂いだろうか。
フェンリルはランプの火を消すと、背筋に走る悪寒を抑えながら音がしないようにゆっくりとドアのノブを回す。
鍵が掛かっていればこの探索はこれで終わりだ。ルナは"回らなければいいのに"と内心祈ったが、無情にもゆっくりとフェンリルの手は右に回り扉を開いていく。
中は暗さと広さのせいか部屋の全容が掴めない。開いただけでドアの隙間から冷たく重い空気が流れ出してきた。
この暗さでは何も見えない。と、ばかりにフェンリルは意を決して中に踏み込む。ルナもそれに続いていく。その暗い部屋の中に入ると、目の前に広がる光景にフェンリルは言葉を失った。
人間の高さほどの黒い箱が大量に並んでいる。部屋いっぱいを覆い尽くすほどの量だ。ほのかに青い光があちこちから漏れてうっすらとそれらが暗闇に浮かび上がる。
これは。これはなんだ?フェンリルはルナが中に入ったことを確認すると、誰もいないことを確認しつつゆっくりと大きな部屋の中ほどまで入る。
「これは……」
フェンリルが何かを言おうとしたその時だった。突然部屋の扉が音を立てて閉まる。
「な?!」
フェンリルとルナは咄嗟に手近な箱にその身を隠した。息を殺すようにひんやりとした箱に顔をつけると、むせ返るような血の匂い。思わず咳き込みそうになる。この匂いの原因はこの箱か。
フェンリルは吐き気を催しそうになるが、ルナにほっぺを軽く叩かれる。見るとルナは真剣な目。"今はそれどころじゃないでしょう?"と、そう目で訴える。
耳を覚ますと足音が聞こえる。何者かがこの部屋の中に入っている。そして少しずつ、少しずつフェンリル達との距離を狭めているのは明白だった。ひたひたとした足音は軽い。あの長身のロズウェルさんではないかも。とルナは感じた。
フェンリルもゴクリと唾を飲む。逆回りで箱の裏に回り込もうとしたその時だった。
視界に一瞬映ったのは赤い目の少女。さらりと白いワンピースを翻して消えていく。
「あっ!」とフェンリルが声を出す暇もなく、背後から黒い影が伸びる。ランプの火。明かりに照らされて振り向くと無表情なロズウェルの顔だった。
フェンリルは悲鳴を上げるのを必死で堪える。
「迷子になられたのですかな?」
意外にもロズウェルは落ち着いた様子で2人を部屋から連れだす。
「"図書室"は長いこと手入れされていませんから、客人をお通しするにはいささか向きません。とは言っても招かれる側にも礼儀はあるのでは?」
口調は崩さないままだが明らかな怒りが見える。「すみません、ロズウェルさん。どうしても気になってしまいまして。ローザさんの"秘密"が。」
フェンリルは相手に敬意を払い率直に答える。
「でも、わかった気がしますよ。あなた達の秘密がね。」
ロズウェルは表情を変えない。
その図書室に眠る箱達だけが奇妙な唸りを上げていた。
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