第一章 第2話 前世の記憶

 世界は謎の疫病により、破滅の危機に瀕していた。


 最初は誰も皆、ああ、また新しい風邪が流行っているのかと、あっけらかんとしていたのだ。


 世界では毎年のように新しい種類のインフルエンザが流行っていたし、海の向こうでは大勢の人が亡くなっているとテレビのニュースで聞いていても、医療の充実した裕福な社会に暮らしていれば、それも対岸の火事でしかなかった。今度もまた予防注射をしとけば大丈夫だろうと。


 だが今年の流行り風邪は例年とは様子が違った。末法の世のような災厄を運んできたのだった。



 二、三ヶ月もすればワクチンが作られるだろうとの予想に反し、半年経ってもワクチンは作れず特効薬も無く、町にも病院にも感染者が溢れ、死亡者数は右肩上がりで増えていった。


 体力の劣る子供や年寄りはもちろん、働き盛りの者までバタバタと謎の疫病で倒れて行った。

 人も鳥も動物も、生あるものは片端から罹患した。


 社会機構は麻痺し、食料や生活雑貨は不足し、奪い合いで暴動も起こり、群衆に感染者が混じっていれば、そこからまた疫病患者が爆発的に増えていく。病院も葬儀社もパンクした。町の路傍に遺骸が溢れるようになるまですぐだった。




 オレの住んでる海辺の町でも同じだった。家族が倒れ友人が消えていき、間もなく俺も発症した。


 高熱が出て全身が焼けるように苦しく、ゼェゼェと激しい呼吸をするもろくに酸素も取り込めない。まるで生きながら焔に炙られてるかのように、肺が焼け爛れていくのがわかった。


 もう家族も知り合いもいないのだ。終わりにしようか……と高熱に冒された身体で海岸に向かった。


 毎日のように散歩をしていた見慣れた道の所々に、幾人も倒れ伏した人たちが転がっている。そこから漂う腐敗臭から鼻を背けながら、俺は病魔に冒されたボロボロの体に僅かに残された最期の気力を振り搾って、高熱にうかされ疾うに感覚の失せた四肢を動かし続けた。


 喉は酸素を求めてゼェゼェゼェゼェ鳴るが、どんなに激しく呼吸を繰り返しても爛れた肺は酸素をたいして取り込まず、酸欠と高熱がもたらす激しい脳の痛みに顔が歪む。眼球も充血してるのか世界が真っ赤に見えた。


 何度も何度も倒れて転がり、血の滲む体で這うように浜へ降りる道を辿り、ヒリヒリと焼けるように熱く痛む体を波に沈めたところで意識が途切れた。

 オレ、は、……死んだ。




   * * *


 翌朝目が覚めると、熱で怠かった体は嘘のように軽くなっていた。


 快癒に伴って食欲も出て来たので、久しぶりにお肉が食べたいと主張したけど、まだしばらくはドロドロした大麦の粥しか食べさせてもらえそうにない。


「何日も食べずに寝込んでいたんだから、少しずつ柔らかい消化の良いもので、お腹を慣れさせないと駄目よ。お腹がびっくりして痛くなっちゃうわよ」


 と、母さんが明るい茶色の目で微笑みながら粥の皿を並べた。

 オレンジ色の髪を結い上げて飾り紐でまとめている母のマーヤからは、いつもいい匂いがしている。お母さん大好きだ!


「お粥は美味しくないんだもの。せめて卵を入れてほしいなあ」


「ニワトリならお父さんが神殿の御供えに持っていってしまったから、残った若鳥が卵を産むようになるのは三ヶ月は先のことね」


「えぇーっ、どうしてニワトリを神殿に持っていっちゃったの? うちには卵を産む大人の雌は二羽しかいなかったのに、二羽とも?」


 あまり裕福でない我が家ではメンドリ二羽は一財産だ。


「もちろんブッダ様にお礼を申し上げるためよ。我が家の大事な一人息子を病魔から助けていただいたのだもの」


 あー、そうか。それなら仕方ないかぁ。

 別に我が家が変な宗教に嵌まってて貢ぎまくっているわけではない。この国では誰もが良いことがあればブッダ様にお礼を言い、悪いことがあればブッダ様に助けを乞い、願い事があればブッダ様に寄進をし、その願いが叶えばブッダ様を称えて歌い踊るのだ。


 ちなみにオンドリも二羽いたのだが、僕の薬代に当てるために二羽とも絞めて売ってしまったそうだ。しばらくはヒヨコも増えないな。

 それにしても母さんは僕の頭の上の金魚が見えてないみたいで、何も言わないし驚きもしない。なんなのかしらね、この金魚?




「目覚めたかダルタ、もう熱は大丈夫なのか、食欲はあるのか?」


 神殿から戻った父さんが大きな体で抱きついてきた。父さんの服や髪からは神殿のお香の匂いがするよ

鍛冶場で働いている父のゴーハンは黄色い短髪に褐色の目をした大男だ。抱きつく力が強すぎてちょっと苦しい。


「だ、大丈夫だよ、父さん。すっかり元気になったから安心して!」


「良かったなあ、元気になって本当に良かった。すごい熱を出して三日も寝込んで魘されてたんだ。もう本当にどうなるかと心配したぞ!」


 そう言って僕の黒い髪をぐしゃぐしゃにかき回して、より一層きつく抱きしめてきた。


 やっぱり父さんも金魚は見えてないみたいだ。金魚は僕の髪をかき回す父さんの手から逃れるようにスルリと尾をくねらせながら、天井近くまで泳ぐように上っていった。


「おお、ブッダ! 息子を助けてくださって、心より感謝いたします!」

 と、父さん、ちょっとそんなにきつく抱き締めたら苦しいよー!

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