第29話 ああ、おもいだした
ヤマに戻ったボクは、晩ご飯を食べたあとオボコ岳に向かった。
オボコ岳の真上に月があった。
たんぽぽ畑に立った。
たんぽぽはお酒を作るためにほとんどつまれてしまっていたはずなのに、以前のまま満開に咲き広がっていた。
寂しい。
寂しさが限界に達して、ものすごい寂しさの重力に押しつぶされそうになって、ボクは、たまらなくてここへ来た。
細い雲が月の三分の一のあたりを横切る。
中津磐は星月夜の天上に向かってそそり立つ。
夢のような風景だ。
頂上のあたりには銀河がゆるやかに流れていた。
まるでオヤジたちの祈りが結晶化したようだ。
てっぺんの神様が悦びを与えてくれる、それが今だ。
中津磐、たんぽぽ、オヤジの祈り、星月夜、この時間はボクの短い人生の幸福とよんでもいい。
今まで中津磐はただただ怖い存在だとおもいこんできたけれど、実は幸福の象徴だったことに気づいた。
なぜなら、中津磐を見上げるために自然に顔は上を向く。
天に向かって伸びやかにそそり立つ。
ひたすらボクを天上に誘う。
月光に照らされて異様な光を放つ。
この山は天上に広がる無限の宇宙におもいを走らせざるをえないようにできている。
静かだ。
中津磐がキーンと耳鳴りのように鳴っている。
その音は耳には聞こえないけれど、身体の奥深いところには届いている。
届いて、響いて、ボクの心を震わせている。
他には音はない。
何もない。
でも、音が無数にあたり一面から現れ出てくる。
透き通るような静けさなのに、あらゆるものが語っている。
沈黙が夜のオボコ岳に鳴り響いている。
語っているのはたんぽぽで、沈黙しているのもたんぽぽだ。
ああおもい出した。
おもい出した。
たんぽぽの下にはボクたちが埋まっているんだ。
これが、ものすごい寂しさの正体だったんだ。
「じいちゃん」
ボクは声をかけた。
杉の樹の下に彦作じいちゃんがあぐらをかいていた。
ご飯を食べて、部屋で寝転がって天井を見つめていた時、天井よりも中津磐の星や月を見たいな、そう思ってここへやって来た。
ずっと、じいちゃんがあとをついて来ていたのは知っていた。
じいちゃんはボクを見つめていた。
強い目だった。
怒っているように眉間のシワが寄っている。
「比呂、おまえ、約束したのか」
ボクは黙っていた。
「片耳か?」
ボクはまだ黙っていた。
答える必要はないとおもった。
じいちゃんはたぶん気づいてしまったんだろうから。
「約束の日はいつなんだ?」
これはボクにもわからないので、
「わかんない」
と答えた。
「もうすぐなのかも」
なんとなく近い、という感じはある。
マラソン大会でコヤジがボクの中に入った時に、唐突にわかってしまった。
すべてを。
それまではまったく知らなかったんだ。
コヤジのこともたんぽぽのことも。
ボクに起こったすべてのことを、忘れていた。
今まで通りのボクだとおもっていたし、いずれコヤジも山に戻さなくちゃとおもっていた。
でも、あの時、すべてがわかってしまった。
おもい出してしまった。
片耳オヤジとの約束のことを。
「じいちゃんは? なんでわかったの?」
「孫よ、わしを誰だとおもっておる」
ボクは小さな時から弱くて寂しがりやだった。
そんな自分が嫌いだった。
四年生の時、ボクは強く見せようとして荒れた。
空き家の窓ガラスを全部叩き割った。
校長室に呼ばれて三十分も説教された。
じいちゃんが迎えに来てくれた。
家には帰らず、「中津磐に登ろう」というじいちゃんについて、初めてオボコ岳に登った。
頂上で悩みを打ち明けた。
弱くて寂しいというボクの悩みを。
するとじいちゃんはコココと笑った。
「なして、弱っちくてはいけないんだ。なして、寂しくちゃいけない」
そうじいちゃんは問いかけた。
「弱いのは当たり前、寂しいのはもっと当たり前、それでいいべさ。寂しさというのは生きることの根っこなんだ」
じいちゃんは強がりが大嫌いで、威張っている人を見ると、「ほっとけ」と言って無視する人だ。
難しい顔で悩むことも嫌いだ。
そういうときは山に出てナズナを摘んだほうがいいと決めている人だ。
「ヒロ、おまえはせつない子だ」
四年生のボクは黙っていた。
「せつないとはな、古い言葉では、人や物を大切におもうということだ。だから、人や物のことをおもうと悲しくも寂しくも恋しくもなる。そして、やるせなくもなる。でもそれでいいんだ。それが生きるってことなんだ」
そういうなつかしいことの全部をおもい出した。
ボクにとってじいちゃんはとうさんでありかあさんでもあった。
ずっとふたりで生きてきた。
今夜じいちゃんは猟銃を持ってここに来ていた。
それを両手で持つとじっと考えた。
そして構えた。
月に構えて、撃った。
一発。二発。三発。
ボクは胸に何かが迫ってきてしょうがなかった。
「寂しくなるな」
じいちゃんがそうつぶやいたとき、ボクは涙がこらえられなかった。
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