第23話 オボコ岳に登る
大会までの一週間、ボクは清春のような練習はまったくしなかった。
健蔵さんも何かと忙しそうだったし、練習したところで急に脚が速くなるわけはないし、ジャンケンで決めた代表だからみんなもとくに期待しているわけでもないし。
そうこうしているうちに清春の手術もうまくいき、退院してきた。
大会の前日だというのに、なんの興奮も緊張もないボクは、走ることもなくまったりと歩いて帰宅した。
清春や葉子ちゃんも、健蔵さんはハッピー号を押して、みんなで一緒に歩いた。
葉子ちゃんがポケットから小さな袋を出した。
「お守り。ゼッケンに縫い付けて走って」
「うん。ありがと」
清春も小さな白い破片を差し出す。
「…なにそれ」
「クマの沢で木の幹に食い込んでたんだ。オヤジの爪」
「…ふぅーん」
清春は葉子ちゃんを真似て言った。
「お守り。ゼッケンに縫い付けて走って」
二本柳吊り橋近くに差し掛かり、葉子ちゃんの脚がピタッと止まった。
前方を指差した。
路上に白い蛇がいる。
清春がつぶやいた。
「白蛇だ」
「追っ払って、比呂君」
と葉子ちゃん。
ボクではなく清春が張り切った。
「よぉーし!」
清春、拳より大きな石を拾い上げて、投げた。
「あっち行け!」
すると、
「あっ!」と葉子ちゃん。
「わっ!」とボク。
「命中」と健蔵さん。
白蛇が石の下敷きになってのびてしまった。
清春は呆然と立っている。
健蔵さんは、
「あ~あ、白蛇は神様のお使いなのに」
と、取り返しのつかないことをしてしまったように深刻にささやく。
清春は、「どうしよう」とつぶやく。
ボクと葉子ちゃんは、声を合わせてはやし立てた。
「たたり! たたり!」
清春は泣きそうだ。
その時、ギ~~~イ、ギ~イ……
みんな、風に揺れる吊り橋を見た。
健蔵さんが悲しそうに言った。
「…あの白蛇…ヨメさんの生まれ変わりかもな…」
清春は真っ青だ。
口をポカンと開けたまま脱力放心状態だ。
突然、健蔵さんが叫んだ。
「ヨメがかわいそうだぁっ!!」
三人は飛び上がった。
「もーっ、健蔵さん!」
と葉子ちゃんが健蔵さんの背中を叩く。
健蔵さんは笑う。
清春は涙目でつぶやく。
「チョロっと出た」
「えっ、またダッチョか」とボク。
「ションベン」と清春が蚊のつぶやき。
四人の笑い声が山間にこだました。
健蔵さんはハッピー号を道端に止めて言った。
「みんなでオボコ岳に登るか」
オボコ岳はほぼ垂直に突き立った岩山だ。
ロッククライミングの聖地と言われている難所だ。
そんな山にボクたちは登る。
地元の人だけが知っている秘密のルート、なんてものがあるわけはなくて、ボクたちは熟練者専用の垂直ルートではなく尾根沿いに張られた鎖をたどって登る。
岩を削ってこしらえてある階段のような脚がかりを一段一段伝って中津磐の頂上に登りきった。
健蔵さんと清春とボクと葉子ちゃん。
コヤジは健蔵さんの背中にくくりつけられて。
頂上にはオボコ神社の小さな祠があった。
四人と一匹はその祠の前に座って下界を見下ろした。
吹き上げてくる風が気持ちいい。
見晴らしは抜群だ。
清流と二本柳の吊り橋、クマザサの広大な平原を風が渡って波のように揺らし、雑木林の山々の緑が濃いのから薄いのまで何色もの緑色が重なり広がり、小さくかわいい野の花たちが岩陰に顔を出し、学校とグラウンドがあんなに小さく、遊んでいる子たちもアリのようで、空に浮かぶ雲に手を伸ばせば届くほど近く、小鳥の舞いとさえずりが耳に心地よく、そして真下には杉の大木と西日を受けて黄金色に輝いているたんぽぽ畑。
すべてが完璧に美しい。
ボクたちは言葉を忘れて感動にひたった。
それぞれがそれぞれのおもいで風景を眺めている。
ボクは風を眺めていた。
横沢のじいちゃん、山菜を取りにヤマに入ったまま帰ってこなかった横沢のじいちゃんが風に乗っていた。
たんぽぽ色のマントを肩からなびかせて風に漂っていた。
公平のばあちゃんもいた。
公平のばあちゃんは、ヤマブドウジュース作りの名人だった。
ヤマの奥にジュース小屋と呼ばれる小さな「工場」を建ててジュースや果実酒をせっせと作って貯蔵していた。
戻ってこないので家族が捜しに行ったら、ばあちゃんはその小屋から消えていた。
葉子ちゃんの愛犬コロも風に乗っていた。
イノシシを追いかけてヤマに入ったまま帰らなかった。
あと、思い出せないけどどこかで見たか会ったことのある三人の小学生の男の子たち、彼らも風に乗っていた。
たんぽぽ色のじゅうたんに乗ってニコニコと漂っていた。
そして、ボクの方を見て笑いかけてくる男の人と女の人もいた。
彦作じいちゃんから写真を見せられて知っている。
あのふたりはボクのとうさんとかあさんだ。
写真でしか知らないから、動いているとうさんとかあさんは初めてだ。
とうさんは彦作じいちゃんにそっくりだ。
目が米粒のように小さくて、でもどこかがんこそうだ。
かあさんはぽっちゃりしていて、優しそうで、怒ったことなんか一度もないという風に笑っている。
二人とも嬉しそうにボクを見ている。
ボクも胸が温かくなって、ずっと会いたいと思ってきたので、会えて嬉しく、なんか、のどの奥がジンとしてきて、目も熱くなってきて、手を軽く上げた。
とうさんとかあさんも手を振ってくれた。
みんなたんぽぽ色のマントを身につけていた。
肩からなびかせていたり、両手で持っていたり、空飛ぶじゅうたんのようにその上に座っているのもいた。
みんな満ちたりた表情で、飛ぶというよりも風に乗るという感じで、右から左にこちらからあちらに上から下に、あらゆる方向からあらゆる方向に漂っていた。
この季節のこの風が楽しくて美味しくて気持ちよくてたまらないという表情で。
ボクもこの岩からポンと飛び出せば風に乗れるような気がしたけれど、それはやめといた。
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