第5話 オボコ岳とたんぽぽ畑


どこをどう走ったのかわからない。


気がつくと清春はどこにもいない。

脚の速さが全然違う二人がヤマのなかでやみくもに走ればはぐれてしまうのは当然だ。

でも、ボクも清春もこのヤマで生まれ育ったから迷子になることはありえない。

それぞれがそれぞれのルートで難を逃れるだろう。

清春のことは心配しなかった。


ボクは小さな沢に出た。

ここはいつでもオヤジの強い匂いと気配が漂っている小川だ。

だからクマの沢。


沢の両脇の斜面にはヤマブドウや栗やコクワの木がたくさんあって、秋になると実をたわわにつける。

冬眠前のオヤジや動物たちがここに集まって来ておなかを満たす。

ボクはチロチロ流れる湧き水の冷たい流れに入って、白い花を咲かせている沢ワサビを摘んだ。

今の季節は葉と茎だけを摘む。根は夏から秋にわさびらしい辛味が出てくるまで待つ。


再びけもの道を走った。


のどがかわいたのでスカンポを引き抜いた。

茎の皮をむいてかじりついた。汁が口の中にあふれた。

「すっぺぇ!」キリッとしたすっぱさに身震いしつつも気分が浮き立った。


大きな樹の幹にしがみついてよじ登る。

うろの中にある鳥の巣を覗き込んだ。

ひながピチピチさえずっていた。

ボクを親だと思って口をいっぱいに開いてエサをおねだりしている。


木の高みから空を見た。

けわしい山々に切り取られた小さな空。

風が吹いてほてった身体をさましてくれる。


目の前には、巨大な岩がたてに三本重なるように並んでいる山、オボコ岳がそびえている。

岩が合掌しているようなその姿はいつ見ても奇っ怪で禍々しくて、そしてぞっとする。

この世のものとは思えないほどの厳しさを感じる神々しい山だ。


彦作じいちゃんが「神は怖い」と言うのを子どものボクが理解できるのはこのオボコ岳のせいだ。


その真下に巨大な杉の樹がある。

その杉の樹の下が黄金色に光っていた。


「……へぇ……」


ボクはしがみついていた樹からスルスルと滑り降りた。


斜面を一気に駆け上がり駆け下りた。


オボコ岳へのけもの道を走り、走り、走って、巨大ジジイのような厳しい風格がある杉にたどり着いた。


そのあたり一面が西日を受けて黄金色に輝いていた。


たんぽぽの花畑だった。


ボクはたんぽぽをつぶさないように、花々のすきまに両手を広げて仰向けに寝そべった。


見上げると、天に向かってそびえ立っているオボコ岳の巨大な岩壁がボクにおおいかぶさってきた。

オボコ岳の真下だけ重力が何倍にも増しているようで、押しつぶされそうに感じるこの見たことも聞いたこともない種類の威厳は、神としか思えない。


やっぱり心の底から怖い山だ。


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