まだ、きまらないの?
只野乙名
第1話 まだ、きめてない
まだ、30代。
そう思ってから、もう幾年も経ってしまった。
小さいころは、大人になればみんな当たり前に、なりたいものになれると思っていた。
小学校も高学年頃になると、現実を目の当たりにし、
思春期ならではの、妄想とも言うべき万能感を経験して、20代には落ち着いて自分の限界と向き合えるようになる。
多分、ほとんどの一般人が同じ思いをしたことがあるはずだ。
または、その途中かも。
そんなことを、ぼんやり考えながら会社までの道のりを歩いていたら、
ふと、同僚から声をかけられて、息をのんだ。
『我ながらクっサイ人生論。』
頭のなかでそんなことを思いながら、通勤する私は今年35歳になる、ただの会社員だ。
「昨日の会議、あれはいい流れだったな。今日は部長の機嫌も良いんじゃないか。」
「ああ、そうだね。営業が頑張ってくれたおかげで良い数字を見せられて良かったよ。」
朝の何気ない会話も、謙虚で丁寧な姿勢も、
会社員として残りの人生を過ごしていくには、一生の付き物だろう。
いつもなら、笑って受け答えるだけの会話なのに、そんなことを頭に過った途端、
急に疲労感が沸いた。
「ごめん、朝イチで打ち合わせがあるの忘れてた。先に行くよ。」
少し不思議そうにしている同僚を後にして、小走りで立ち去った。
切れた息を整えてから、背筋をすこし伸ばして部署のドアをあける。
何てことはないが、背筋を伸ばして入ると、気持ちがしゃんとして、一日が気持ちよく始められる気がする。
先月から「ハタラキカタ改革」のひとつとして、フリーアドレスが取り入れられ愛着もなにもない、殺風景なデスクのひとつに、腰を掛けた。
「おはようございます。昨日もその位置じゃありませんでした?」
余計なお世話だ、と思いながらも、ハハと笑って共有のロッカーに自分のパソコンを取りに席を再び立った。
最初のころは見慣れなかったロッカーも、いまとなっては会社のもので愛着をもつのはこれだけになってしまった。
そうしてロッカーを開けようと差し込んだカギを回そうとすると、硬くて動かない。
昨夜は確かに回った鍵が、なぜかピクリともしない。
鍵を間違えたかと思い、
無機質でセンスの欠片もないカギについたプラスチックの番号札を見るが
確かに自分の番号だ。「110」。何度見ても、同じ。
仕方がないので総務部にスペアキーを借りに行くことにした。
出鼻を挫かれたようで、さっき伸ばした背筋はすっかり猫背にもどっている。
総務部はひとつ下のフロアだ。いまはそのほんの少しの労力をかけることですら、悔しく思う。そう、小さい男なのだ。わかっている。
勤めるスポーツ用品を扱う会社は、この新しくもないけれど、古くもないビルに入ってもうすぐ10年になる。
入社3年目になる頃に、このビルに移転したが、我々営業部がこのビルの5階に集約され、総務や人事、企画といった内勤メンバーは3階にいる。
なぜか4階には「社員がコミュニケーションをとれるように」と社長の鶴の一声で、簡単な軽食を食べることができるスペースが広がっている。日中のフロアの稼働率を見て、早々にフロア改装してほしいと願う社員は多いはずだが、10年このままならば、この先10年も同じだろう。
他に3,4社が入るこのビルのエレベータは朝と夕方だけが異様に混んでいる。
2階分ならば階段で移動した方がずっと速い。
そうして何年振りか、階段をタタン、タタンと降りて行く。
そのうちなぜか軽快なステップをしてしまうのは、理解できる人も多いはずだ。
少し、背筋も伸びてきた。
そして、ふと踊り場にある姿見をみて、ぎょっとした。
久しく自分の顔をまじまじ見ることがなかったのは事実だが
そこには、見るに耐えがたい、中年オジサンが立っていたのである。
「まだ、35だぞ?」
誰に言うわけでもなく、思わず声が漏れた。
しかし鏡のなかの自分は寸分の狂いもなく自分自身だ。
『オマエは立派な35のオジサンだよ』と悪意のある誰かが
厳しい現実を突きつけられたように感じた。
そして金縛りにあったように、その場から動けなくなってしまった。
「こんなふうになりたかったわけじゃないんだ」
ふと声に出てしまったが、
誰に向けての言い訳なのかも、まだわからなかった。
まだ、きまらないの? 只野乙名 @tadanotaro
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