投げ込んだ小石3
トイレから出たシフォンは、ハンカチをポケットに入れながら顔を上げた。すると、廊下の少し先に屈み込んでいるトルテ・パートシュクレの背中を見つけた。
トルテは抱えていた資料をばら撒いてしまったらしい。彼女の傍らにほとんど空のダンボール箱と大量の紙が落ちていた。
「手伝おう」
シフォンが近付いて声をかけると、トルテは振り返って微笑んだ。
「すみません、助かります」
シフォンも屈み込んでい資料に手を延ばす。なるべく順序が前後しないように気を付けて拾い集めた。
「かなり量が多いな」
「ええ……。今仕事が入っていなくて暇なので、少し知識を増やしておこうと思いまして」
「勉学に励むのはいいことだ」
トルテはシフォンに目を向けると、こう尋ねた。
「そういえば、マフィンさんは学校の先生をしてらしたんですってね」
シフォンが顔を上げると、トルテと目が合った。その瞳には興味津々という色が浮かんでいる。
「ああ、まぁな」
「どんな感じでした?」
「どんな感じと言うと?」
「実は私、小学校の先生になりたいなと思っているんです。だから学校の先生ってどんな感じなのかお聞きしたくて」
「ああ、そうだったのか」
シフォンは納得しひとつ頷いたが、すぐに言葉に詰まった。
「……と言われても、俺は高校の教師だったからなぁ」
「高校と小学校は全然違いますか?」
「そりゃあそうだろう。生徒もそれなりに知恵があるし、可愛げが全然違うからな」
「高校生は可愛くないんですか?」
「いや、そりゃあ自分の生徒ならだいたい可愛いものだが……そうではなく、純粋さに欠けるというか。特に俺のいた高校は素行の悪い者が多かったし」
シフォンは手が止まっていることに気付き、慌てて資料の回収を再開した。しかしトルテがぐいっと近付いてそれを阻止する。
「生徒とはどれくらい仲良くしても大丈夫なのでしょうか?連絡先を交換するくらいは許されるのでしょうか?」
「ど、どうだろうか。俺はそういうタイプの教師ではなかったから……。しかし、生徒と連絡先を交換している教師は何人かいたようだが」
「家に遊びに行くのはどうでしょう?」
「それはさすがに考えた方がいいんじゃないか……。公私混同は教務に支障が出る」
「そうなんですか……」
明らかに沈んだ顔をするトルテ。シフォンは何とか言葉を捻り出す。
「ほら、自分の学生時代を思い出してみろ。そこまでする教師はいなかっただろう?」
「そう……ですね」
トルテは傍らに落ちていた資料を無意識のうちに拾った。シフォンが納得してくれたかとトルテの顔を覗き込むと、彼女は勢い良く顔を上げた。シフォンは驚きで声が出そうになるのを何とか堪える。
「すみません、実は私学校に通ったことがないんです……」
「だが小中は通っていただろう」
「いえ、幼稚園も行っていなかったので……」
その言葉に、シフォンは何て返してよいかわからなくなった。彼は何となく感じていた。この先は彼女の過去に触れる話題だ。自分のような者が容易に聞いてもよいものではない。
何とか上手く話題を変えようと、シフォンは頭を絞る。しかしそうしている間に会話に妙な間ができてしまった。シフォンは更に焦りを感じる。
「……親の教育方針のせいだったのです。私は子供時代、おそらくあまり楽しくない日々を過ごしました。私が教師を夢見るのは、私のような子供を増やしたくないからなんです」
「そうなのか……」
シフォンは「もっと気の利いたことが言えないのか」と自分を責めた。昔のことを思い出しているのだろうか、トルテの瞳は少し潤んでいる。
トルテは微笑むと、「単に子供が好きというのもあるんですが」と言った。それから視線を床に落とし、残りの資料を手早く拾い始める。
ものの数分で全ての資料をダンボール箱に収めると、トルテはシフォンに礼を言った。彼女はダンボール箱を持ち上げようと手をかける。
「いや、俺が持とう。研究室だろう」
「でも、悪いです」
「また落とされる方が困る。それにどうせ俺も研究室へ戻るところだ」
「そういうことなら……すみませんがお願いします」
シフォンはダンボール箱の底に手をかけると持ち上げた。二人は並んで集団研究室へ向かう。
廊下を歩く間、大した会話はなかった。もともと普段から接点の無い二人だ。無難で無難な天気の話をしながら研究室に到着した。
トルテのデスクにダンボール箱を置く。
「ありがとうございましたマフィンさん。本当に助かりました」
「気にするな。何てことない」
トルテがもう一度口にしたお礼を聞いて、シフォンも自分のデスクへ戻った。イスに座った瞬間、近くに寄ってきたフロマージュに声をかけられる。
「マフィンさん」
「ブラウニーか。どうした」
「いえ、トルテさんといるなんて珍しいなと思って」
フロマージュはそう言って微笑んだ。シフォンには何てことない世間話のように見えた。
「たまたまそこで会ったんだ」
「そうだったんですか。荷物を持つのを手伝ってあげてたんですね」
「一度落として廊下にばら撒いていたようだからな」
その時、フロマージュを呼ぶ声がかかった。
「フロマージュさーん」
フロマージュとシフォンがそちらを向くと、ビスケットが片手を上げてこちらに近づいて来るところだった。
フロマージュが小さくため息をつく。それを聞きつけたシフォンは、「ブラウニーも大変だな」と思った。
「どうしたのビスケット君」
「俺今日食事当番なんすけど買い出し行くの忘れてて……。材料全然ないし、どうしたらいいっすか?」
ビスケットは不安げな顔でフロマージュを見ている。シフォンは、そういえば普段ならそろそろ夕飯が出来る時間だなと考えた。そう気付いた途端に空腹を感じる。
「しょうがないわね……。冷蔵庫に何が残っているか見に行きましょう」
「うう……すみません……」
低いヒールをカツカツと鳴らし、台所へ向かうフロマージュ。ビスケットは申し訳無さそうに小さくなりながらその後について行った。
そんな二人の後ろ姿を眺めていたシフォンだが、背後からポンと肩を叩かれる。振り返るとショコラが立っていた。どうやらフロマージュが立ち去るのを待っていたらしい。
「シフォン君、冴ちゃんのこと聞いた?」
「ええ、まあ。ティラミスさんから」
「そう、よかった。あなたの判断を信頼してのことだからね」
シフォンはその言葉に微妙な表情を返した。自分だって適当な報告をしたつもりはないが、自分一人の意見で物事を決められると、本当にベストな報告だったのかと今更考えてしまう。
ショコラはそんなシフォンに笑顔を返して、その肩を再度ポンポンと叩いた。
「玲那ちゃん独り占めにされてるからって僻んじゃダメよ。あと少しの辛抱よ!」
それだけ言うと、ショコラは台所の方へ歩いて行った。フロマージュとビスケットの様子を見に行くのだろう。
シフォンは研究室を見回した。玲那の姿はない。同様に冴もいないが、どうせ玲那と一緒にいるのだろう。
シフォンはため息をついた。生涯玲那の側にいると誓った自分だが、このままではその立場は冴に乗っ取られてしまう。何とかしたいが、ショコラやキプツェルやブレッドなどが「冴が落ち着くまで待て」と諭すのだ。彼らは冴が玲那以外に懐き、玲那から巣立つ日が来ると本気で思っているのだろうか。シフォンにはどうしてもその可能性を信じきれなかった。
問題はそれだけではない。冴が玲那に付きっきりのせいで、打倒ロール・モンブランの計画がまるっきり進んでいないのだ。チームの中心でありリーダーであるブレッドと玲那の間に、最近会話がほとんど無い。冴がいる前でロールの話をできないからだ。基本的にブレッドと玲那の支持に従っているだけだったその他のメンバーは、どうしたら良いかわからず困窮している。
シフォンは思わずもう一度ため息をついた。彼にとっては玲那と過ごす時間を奪われるのが何よりの苦痛であった。自分の平穏は返ってくるのだろうか……などと毎夜考える始末だ。
シフォンが三つめのため息を何とか飲み込んだ時、左隣りのデスクにブレッドが戻って来た。隣と言っても通路を挟んでの隣だ。その間は七、八十センチはある。
「どうしたマフィン。湿気た面してんな」
「俺はもう限界です。北野様成分が不足しています」
「バウムクーヘンみたいなこと言うなよ。お前もマカロンで充電してくるか?」
「あれで充電できたら苦労はしない」
シフォンはすっと視線を走らせてスフレを見た。玲那でもキプツェルでも構ってもらえば元気が出るなんてずるいとシフォンは思った。自分は玲那に放っておかれたら衰弱していく一方だ。
「ま、そんなに気に病むなよ。花木だって外の世界を知ったら視野も広くなるさ」
「そうですかね……」
「案外早く親離れできるかもしれねぇぞ」
「親は北野様でなくあの相楽とかいう男でしょう。北野様が親など断じて認めませんよ」
何故北野様があんな手のかかる子供を育てなければならないんだ。シフォンは内心で愚痴った。
隣のブレッドはシフォンの心配をよそに「大丈夫大丈夫」と気楽そうだ。シフォンは思わず三度目のため息を発射した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます