投げ込んだ小石
四月一日。水曜日。
キプツェルは顔を右から左へ動かした。次に、ゆっくりと振り返り、そのまま元の体勢まで一回転した。反動でイスがかすかに揺れる。
その摩訶不思議な動きを視界の端に捉えていたブレッドが顔を上げる。ブレッドがキプツェルを見ると、彼はまだどこか遠くの方を見ていた。
「どうしたんだよ」
「いや、花木、なんかやけに機嫌いいなと思って」
「そうかあ?」
ブレッドはキプツェルの視線の先に目を向ける。そこにはぴょんぴょんとはしゃぐ冴の姿があった。笑顔である。だがそれだけではない。
「……確かに機嫌いいな」
「でしょ」
「初日の握手は俺の見間違いだったか?」
冴が笑顔を向けている相手は当然北野玲那である……と思ったがそうではない。何と、冴と一緒にいるのはショコラ・パンナコッタなのだ。
冴とショコラは、冴の入所初日にバチバチ火花を散らしていた。正確に言うと、冴の挑発をショコラが受け流した形であったが。
そんな二人が仲良さ気に話している。研究所の雰囲気を重視するショコラは何度か冴に声をかけていたのだが、そのたびに素っ気ない態度を取られていた。しかし今は冴の方が懐いているように見える。
「何があったんだ」
「わかんないですよね、女性って」
豹変した冴の態度に、顔を寄せてぼそぼそと話すキプツェルとブレッド。そんな二人の背後に、ちょうど先程集団研究室に入って来た玲那が立っていた。学校から帰って来たところだ。
「どうなっているのだあれは……」
「うお、びっくりした」
「いるなら言ってくださいよ」
突然降ってきた声に肩を跳ねる二人。見上げた玲那の表情は、先程までの二人と同じものだった。冴を見て呆然としている。
「お前は知らねぇのかよ」
「何故私が」
「仲良いじゃねえか」
玲那は「そんなつもりはない」と返しながらも、戸惑ったように冴を見ていた。昨日までは自分にべったりだったのだ。何があって他の人に心を開き始めたのか。
「お前何寂しがってんだよ」
「は?殺すぞ」
「強がるな強がるな」
「寂しがってると言えば」
キプツェルは冴の方から玲那に視線を移して口を開いた。イスを半回転させる。
「バウムクーヘンが寂しがってましたよ」
その言葉に玲那はしばらく口をもごもごと動かしたが、結局何も言わなかった。
「つーかそのバウムクーヘンは?」
「珍しく仕事で出てる。打ち合わせ」
「運悪ぃなあいつ」
二人が三人になって会話を続けていると、冴の方に変化があった。ムースが彼女らの方に寄って行って声を掛けたのだ。
「お、シャーベットが突撃したぞ」
「ああでも花木のやつ普通ですね」
「普通なのが普通じゃねぇんだけどな」
三人が見守る中、冴は特に嫌な顔せずムースと対応している。つい昨日までは玲那の隣を陣取り、玲那に近づく者全てに唾を吐きかけんばかりの顔をしていたのだが。
おそらくムースは「何を話しているんだい」とでも言って二人に近付いたのだろう。ショコラが「ほら、あのことよ」という顔で一言二言説明し、冴がニコニコしながら何か言っていた。
「まるで別人みたいだ」
「あれって俺達が話しかけてもあの態度でいてくれるんですかね?」
「何だ貴様、あれと仲良くなりたかったのか」
「悪いよりは良い方がいいじゃないですか」
キプツェルの言葉に玲那は口の中で「なるほど」と呟いた。そういえば、キプツェルはこの研究所のほとんど全員とそれなりに仲が良いのであった。それは彼の何事も受け流すふわっとした性格が功を奏しているのかもしれない。
「あ、花木がこっちに気付きましたよ」
三人の方を振り返った冴は、玲那と目が合うと猛ダッシュでやって来た。研究室にいた何人かが彼女を振り返る。
「玲那ちゃん!帰ってきてたなら言ってくれよ!」
「何やら話し込んでいるようだったのでな」
キプツェルとブレッドが残されたショコラを見ると、彼女は二人に肩をすくめてみせた。
「一体何を話していたのだ?ずいぶんと機嫌がいいようだが」
「知りたいかい?」
キプツェルとブレッドは何も言わず冴の次の言葉を待った。すぐそばに二人がいるにも関わらず、冴はまるで玲那しかいないような態度を取っている。二人は無理に会話に入らない方が良いと判断した。
ニコニコと溢れんばかりの笑みを浮かべている冴に、玲那は表情で先を促した。実際玲那も相当気になっている。
しかし冴は、すでに満面の笑みであったのに、更に笑みを色濃くするとこう言った。
「でも秘密~っ」
何か言おうとする玲那を制止して、更にこう続ける。
「だが安心してくれよ!すぐにわかることだから」
冴は至極楽しそうだ。玲那はため息をついただけでそれ以上追求しなかった。どうせショコラに聞けばわかることだとも考える。
「そうだ玲那ちゃん、一緒にDVD見ようぜ!今日蓮太郎君に借りたんだ。参考にするから感想聞かせてくれだって」
「何の参考だ」
「知らない!でも暇潰しになるだろう」
冴は「取ってくるから待ってて!」と言うと小走りで自分のデスクへ向かった。玲那は黙って一部始終を観察していた男二人に目を向ける。
「……何だ」
「いやあ、後でパンナコッタに聞きに行くかなと思って」
「後で結果を教えろ」
玲那は再びため息をつくと、自分のデスクへ歩いて行った。おそらく鞄を置きに行くのだろう。冴に捕まってしまったのなら、冴が寝るまで今日の玲那に自由はない。
DVDを持った冴が、玲那の腕を引っ張って研究室を出て行った。向かう先はプロジェクタールームだろう。あの部屋はただのDVDで映画館の雰囲気を楽しめる優れ物である。
「お、パンナコッタがこっち来るぞ」
「さっそくですね」
ムースを引き連れてやって来たショコラを、二人は快く迎えた。さっそく先程の冴の様子について尋ねる。
「何だっんですかあれは」
「いつの間に手懐けたんだよ」
キプツェルとブレッドの言葉に、ショコラは「ふっ」と小さく息を吐いた。
「ちょっとあの子の為になることを一つしてあげたのよ」
「何したんですか」
「玲那ちゃんには秘密ね。びっくりさせたいみたいだから」
ショコラはそう前置きすると、事の顛末を話しだした。
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