第36話 麻生の災難

刑事部長の部屋を出てドアを閉め振り向いた途端に声を掛けられた。

「麻生警視、おめでとう御座います」

刑事部長秘書の祝いの言葉だった。

「ありがとう」

麻生には珍しく少しほほ笑んで答えた。

自分の部署に戻る間に皆に祝いの言葉を言われた、それも皆は立ち止まり敬礼して祝ってくれた。

部署に戻った彼女を待っていたものは勿論部下からの祝いの言葉だった。

「ありがとう、皆の協力のお陰です、お礼を言います、ありがとう・・・では報告をお願いします」

彼女の言動に慣れた部下たちはその言葉を待っていたかの様に報告を始めた。


「しかし、今更ながら班長はと言うか班長の名前は凄いですなぁ」

「何かありましたか」

「例の組織の幹部に直接に手を出したのは誰だと詰問したのですが当然知らぬ存ぜぬ何の事だです、何度聞いても同じ、じゃ仕方無い、私の上司に代わって貰います、と言いました、するとその幹部はぶるっと震えてまさか女刑事の麻生さんじゃ無いでしょうな、と言いましてね、私の上司は麻生班長に決まっているだろう、と言うと待った、何でも言うからそれだけは勘弁してくれ、と言うのですよ、あんな美人に会えるんだぞ、皆が羨ましいというぞ、と言うと、確かに美人だ、美人だがやくざより怖い、やくざの私が言うのも何だが彼女は怖い、やくざよりも怖い・・・と言うのですよ、それで洗いざらい白状しました」

「失礼な奴ですね、かよわい女の私に対して」

「やくざだけではありませんよ、班長、本庁で貴方を怖く無いと言う者はいないでしょうね、あぁ、貴方自身だけですよ」

「それは不思議です、私は誰に対しても丁寧に接する事、役職、地位に関わらず丁寧に接する事を信条にしているつもりですが残念です」

「その丁寧さが人に寄っては不気味なのでしょうね、ですから、私も含めて貴方の部下は貴方を見習って誰にでも丁寧に接する様になりました、お陰様でこの部署は所内でも、いえ都内でも至極功績は勿論、評判も良いです、他の警察署に出かけると本庁の人間は煙たがられますが、この部署だけは歓迎されます、これも班長のお陰です、ありがとうございます」

これを聞いていた者たちが起立し敬礼で同意を表した。

「私の功績では有りません、皆の献身と努力の賜物です、ありがとう」

「・・・」

「・・・」

皆は暫く敬礼を続けた。

「直れ~、では、班長会議を始めます、集合」


居室の中には彼女一人が残っていた。

今では手取り、つまり給与の多い者程帰宅が遅い事が暗黙の規則の様になり、彼女が登庁初日に決めたこの決まりが庁内の全てで行われる様になっていた。

彼女は今日を振り返り昇進を密かに喜び、会議の内容を思い返していた。

彼女の組織への依頼件数が減っては居た。依頼はされないが彼女は気になる事が幾つか会った。

外国人による犯罪の増加、取り調べで日本名を名乗るが調べると生まれは日本だが本名が日本名では無い二世、三世による犯罪の増加、恨み、金銭、などの動機が無いの増加が気に掛かっていた。

又、彼女の組織が長年追っている数年前に起きた銀座での銃撃戦と新宿での組織構成員殺害事件の進展が見られない事も気になっていた。

彼女は新宿の事件の犯人は当初、滝と考えていたが現在は別人と断定していた。

但し、銀座の銃撃戦には滝が関係していたとの確信があった。

そして、彼女の感は銀座の銃撃戦で亡くなった女性と子供も夫であり父である男のが新宿の事件の犯人であると告げていた。

だが、何も物証も無く、証言も無く、只々彼女が本人に会った瞬間の感だけの事であった。

そんな事を考えながら部屋を見渡し扉を閉めて施錠し廊下を歩き時々会う庁員に挨拶の会釈を返し退庁した、暫く歩いて振り返り庁舎を振り返ると夜勤以外の組織は暗かった。

彼女はふっと思い自宅への帰りを止めて地下鉄への階段を通り過ぎ銀座方面へ歩きだした。

ゆっくりと歩きながらあちらこちらの酔っ払いたちを見詰め、アベックを見詰めながら歩いた。

時計で有名な4丁目の角のビルの前で壁により掛かり周りを眺めた。

眼の前には昔は電機メーカーのネオンが輝きプロレスがテレビで盛んであった頃には番組の最初にそのネオンが映っていたと聞いた事があった、と思い出していた。

現在はその丸いビルを所有する企業の名がネオンで輝いていた。

彼女を立ちんぼとでも思ったのか、時々声を掛けてきそうな男が何人かいたが氷の様な刑事独自の眼つきに驚きと恐怖を感じたように声を掛けられる事は無かった。

信号の変わり目を待って彼女は丸いビルの方へ道を渡り、日本で一番地価の高い歩道の上を歩き一本の脇道を右に曲がって入って行き少し歩くと又右に曲がった。

その道の幾つかのネオンの中にフランスの昔の大泥棒の名前が付いたバーがあった。

彼女は迷わずバーのドアを開けると階段を降り中を見渡した。

初めての彼女は中を見た途端に気に入っている自分に驚いた。

目の前に大きな本物と思われるマホガニーのカウンターがあり、その周りにテーブル席が幾つか見えた。

彼女は店長かオーナーと思われるカウンターの中のバーテンダーを見詰めた。

彼は手でカウンターの空いている席を示した。

彼女は了解とばかりに頷くと階段を降り切り空いたカウンターに座った。

若いバーテンダーが応対しようとするのを年上の男が止めた。

「初めてのお客様ですね、何がお好みと記憶すれば宜しいですか」

「女性らしいかどうかは解らないけど好きな映画で聞くものにしたいわ、007なのですが、わかりますか」

「はい、マティーニと言います、ベースとなるお酒はいろいろな種類がありますが映画ではジンがベースです、映画と同じもので良いでしょうか」

「はい、お願いします」

「もう一つ、確認させて下さい、オリーブを串に差した物を入れるのですが、その数も指定する人が多いのです、一つから多くて五個までが普通です、お好きな数字は御座いますか」

「好きな数字は五ですが、オリーブでは多過ぎですので二個にして下さい」

「畏まりました」

彼はグラスとシェーカーを器用に使い彼女の前にマティーニを出した。

「気に入って頂けると良いのですが」

彼女は少し口に含むと味を確かめて二コリと微笑みを返し気に入った事を表した。

「では、お楽しみ下さい」

ハーテンダーはそう言って他の客との会話をしに彼女の前から離れた。

若いバーテンダーが彼女に近づこうとすると年上の男が腕を掴んで止めた。

彼女は顔を前向き少し下向きしていたが目の隅でこの様子を見ていた。

この若いバーテンダーは長くいないだろうと感じた、多分、客の女性に手を出し問題を起こした事が一件、二件では無いのであろうと彼女は予想した。

また、年上のバーテンダーがオーナーであると予想した、が、彼女が彼を予想した様に彼には彼女の職業が刑事であると知られていると予想では無く確信した。

刑事も周りの出来事、話相手の観察力が磨かれるが、バーテンダーの様な職業の人もその能力に長けている様だと彼女は感じた。

もう一つ、階段で室内を見回した時にカウンターの一番奥にアベックがいる事に気が付いていた。

彼女はその後では一度もそちらを見ない様にしていた。

アベックは彼女が新宿の事件の犯人と感じている男で横に座っている女は彼女が彼の会社を訪問した時にお茶を運んで来た女だったのである。

二杯目を飲んでいる時に彼女は何気ない様子を装って彼の方を見た。

彼はそれを待っていたかの様に彼女と目を会わせると二コリと微笑み小さく会釈をした。

彼女も会釈を返したがほほ笑む事が出来ず目を逸らした。

彼女は大いに動揺していた、外面上は平静を装う様にと懸命に努力していたが、返って緊張が外面に現れていた。

彼女は自分の心の中に浮かんだ考えに動揺していた、何と目が合った瞬間に私はこの人と結ばれる、心にうかんだのである。

彼女は男との経験が無い、そんな女だけに余計に動揺していた、経験の無い事を予想したのだからである。

年上のバテンダーが声を掛けて来た。

「どうかされましたか、誰かがご迷惑をお掛けしましたか、何かが気になりましたか」

「いいえ、大丈夫です、お気遣いありがとう御座います、昔の記憶に少し動揺した様です」

「余計な事かも知れませんが、人生を少し多く経験した者の言葉です、記憶はどんなに怖い事でも只の記憶です、今の貴方に何も出来ません・・・失礼致しました」

彼女の反応で記憶による動揺では無いと理解した様だった。

彼女は二杯目を飲み終わると帰ると合図し立ち上がる会計に向かった。

何時もは応対しないであろう年上のバーテンダーが会計で待っていた。

「またのご来店をお待ちしています、小鉢の料理やカレーもなかなかの好評なのです、是非、次回に試して下さい」

「はい、寄せて頂きます」

会計は一般的で適正なものだった。

彼女がドアを開け歩き出すと暗闇から誰かが彼女を襲った。

だが、次の瞬間には襲った男が上向きで倒れ痛みに呻いていた。

彼女は男をひっくり返し顔を地面に向け変え男の両手を後ろに回すとバックから手錠を出しはめた。

次に携帯電話で警察に電話した。

「私は麻生警視、番号はxxxxxxxxです、銀座のxxxの言うバーにパトカーを無音で回して下さい、暴行の現行犯を逮捕しましたので搬送を願います」

彼女の膝で背中を抑えられた男が呻き声の間から警察か、と漏らした。

三分程でバーの脇道が見える道路にパトカーが止まり二人の警官が降りて走って来て側に来ると最敬礼した。

「私も証言に同行します、連行をお願いします」

「はい」

緊張も最高の様で直ぐに手錠された男を後ろの席に座らせると麻生を丁寧に座る様に導き、反対側に回るとドアを開け容疑者を麻生と挟み、もう一人が運転席に座りサイレンを鳴らさずに発車した。


所轄の警察署で麻生が調書を取られ容疑者の聴取が行われた。

被害者と逮捕者が本庁の警視、それも名高い刑事である。

手続きは迅速に行われ経った一時間半で終了した。

まだ退署して居なかった署長が会いたいとの要請をして来たが飲酒と疲れを理由に断った。

パトカーで自宅へ送ると言う事も断り、タクシーで帰宅した。

所轄署では全員の退署が遅くなった。

勿論、麻生の話が話題で皆の話が長くなったからである。

「噂、通りに凄い美人だったなぁ~、でも怖い感じはしなかったな」

「そう、とても優しい感じがしたな、君たち同性からはどうだった」

「私も優しい綺麗なおねえさん見たいでした」

「しかし、噂通りの凄腕だな、何でも後ろから襲われたらしいが背負い投げで一発だったらしい」

「犯人も不運だな」

「何を言うのですか、犯罪者の味方をするのですか」

「いやいや、申し訳ない、言い間違えた、我々、いや社会にとっての幸運だった」

「そうです・・・私は彼女の部下に成りたい・・・」

「彼女は噂によると司法試験の合格者らしいぞ」

「ええ~、検察官、裁判官、弁護士しか道は無いのでしょう」

「試験的な採用と聞いたがな、これからは警察も法律に詳しい者が必要と言う事を本人が説得したと聞いた」

「凄い人ですね~、そんな女性は結婚は無理でしょうね~」

「だろうな」

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