第3話 久しぶりだね、こんにちは
やって来る人、去って行く人が交わっては別れていく場所の一つ、草原のタウシャン村。その村で穏やかな日々を過ごしているスーリヤ一家の人数が三人から四人に増えて、半月程が経過した。
或る日の澄み切った青空の下、仄かに冬の冷たさを残した風が吹き渡る緑の丘でスーリヤはカルナの子守りをしながら、草を食んでいる羊の群れを見守っていた。因みにその羊たちは、寧々子がこつこつと貯めていたお金で市場で買ってきた羊たちだ。
『将来のことを考えて、羊を買ってきました!順調にいけば毛は取れるし、乳も取れるし、いざという時に売れば纏まったお金にもなるしね~』
『それは別に良いんだが……我が家には羊小屋はねえし、羊を家の中に買う余裕もねえぞ』
『ふっふっふ~、考え無しに行動したと思ってるでしょ、スー?ちゃんとムスタファーおじいちゃんに相談して、村にある空地を羊小屋に使わせて貰えるように口利きをして貰ったし、羊の放牧に必要な土地の使用権も地主さんに話をつけて貰ったから問題無し!』
『……ふうん』
いつものように唐突に思いつきで行動を起こしたのだろうと想像したが、意外なことに寧々子はムスタファー村長に相談をしてから行動を起こしていたのだと知り、スーリヤは特に表情を変えることもなかったが安堵したものだ。ムスタファーに交渉事の仲介をして貰ったのであれば、この先も余程のことがない限りは安心出来る。寧々子は寧々子でちゃんと自分の手が行き届く範囲で仕事を増やしたので、スーリヤが慌てることもない。若しも手が足りなくなって寧々子が青くなっていたら、スーリヤが手を貸せば良いだけのことだ。
(さて、寧々子の奴は家で大人しくしているのやら?)
暫くの間は商品の仕入れなどがあるので隊商の護衛として出かけることななく、相棒の
第二子のナナを生んだばかりの寧々子の産後の肥立ちは頗る良好ではあるものの、それに油断して無茶をしかねない。寧々子の性分を知っている周りの人々が憂慮して「せめて一月くらいは日頃の三分の二程度の労働で我慢して欲しい」と言ったので彼女は今頃、隣家のギュル夫人やバイェーズィートの細君デニズに両脇を固められて、家で大人しく内職に励んでいる予定だ。スーリヤが目を離した隙に寧々子が無茶をしないように見張りをしていて欲しいと、予めスーリヤが彼女たちに頼んでおいたので。
「“とと”、だっこ!」
「ん~」
草の上に腰を下ろしていたスーリヤの近くではしゃいでいたカルナが不意に彼の前で立ち止まり、幼い子供らしい丸みを帯びた両腕を伸ばしてくる。スーリヤが太く逞しい腕を伸ばして抱き寄せて、我が子の小さな体を膝の上に載せると、カルナはぐりんと体を捩じって「ちやう~!」と訴えてきた。何が違うのだろうと暫し黙考して、スーリヤは察した。
「だっこってのはだっこじゃなくて、若しかして肩車か?」
「だっこ!」
ぶんぶんと勢い良く尻尾を振っているカルナを肩に載せて、スーリヤはゆっくりと立ち上がってみる。カルナが落ちてしまわないようにスーリヤが確りとカルナの体を支え、またカルナ自身も父親の頭に確りと抱きついて、普段とは違う視線の高さからからの景色に目を瞠った。
「きゃあ~っ!」
いつもは近い地面が遠く、いつもは遠い空が近い。その感覚が不思議で楽しいのだろう。カルナは目を輝かせ、興奮気味に体を小刻みに揺らす。カルナ曰くの「だっこ」には文字通りの「だっこ」と「肩車」の二種類の意味があるらしいと知り、スーリヤは「判別が難しいな」と小さく漏らして、苦笑した。
「“とと”、ひといっぱい!」
「そうだな」
亜人、人間問わず沢山の人々が行き交うタウシャン村の方へと体を向けると、街道では人々や荷を運ぶ様々な動物たちが長い列を成して進んで行っているのが見えた。その様子がまるで、にょろにょろと動いている蛇のようにも見えたらしくカルナが「にょろ~」と声を出し、スーリヤが「ごほん」と軽く咳き込んだ。カルナの何気ない呟きに、スーリヤは思わず笑いのツボを刺激されたらしい。
「あっち、“とと”!」
「……飽きるの早いな、お前」
尻尾を元気に動かして父親の背中に打ちつけてせがんでくるカルナに苦笑いをしながらも、スーリヤは体の向きを適当な方角に変えてやった。すると遠くの方で、村へと続く街道から外れた草地を歩いている二人連れを見つけた。
何となく目を凝らして見てみると、ラクダと馬とロバを引いて歩いているのが
(この辺りで俺とカルナ以外の虎の亜人を見るのは珍しいな……それも白い奴)
少しずつ、確実にタウシャン村へと近づいていっている二人連れを観察していると、それにつれて姿形がよく見えるようになってくる。人間の目では分からない距離でも、虎の亜人の目には物の判別がつく。ある程度の距離までやって来たところで、二人連れの白い毛並みの虎の亜人の正体に気が付いたスーリヤが声を上げた。
「チャンドラ!」
「ぴゃっ!?」
障害となるような物が殆どない草原では、大声はよく響く。滅多に大声を出さない父親の突然のそれに驚いたカルナが体を浮かせた弾みで落っこちてしまいそうになるが、カルナは身の危険を感じると本能で父親の頭――正確には頭に巻いている布――に爪を食い込ませ、力を入れた足を太い首に巻きつけて、難を逃れた。
(あの声は……スーリヤ?)
蒸し暑い港町を出て、広大な砂漠を渡り、草原へとやって来た白い毛並みの虎の亜人チャンドラと人間の女性のフェレシュテフ。目的としているタウシャン村が遠くに見えるようになって来た、あと少しで長い長い旅路を終えるのだと感慨に浸ってきたところで、聞き覚えのある大きな声がチャンドラの耳に届いた。
タウシャン村には未だ辿り着いていないのに、双子の兄の声が聞こえたような気がするなんて、長旅の疲れで遂に幻聴を聞くようになってしまったのかとひやひやしながら、声がしたような方向に顔を向けてみる。視線の先の緑の丘の上で小さな子供を肩車して立っている大人の虎の亜人の男性を見つけて、彼は目を疑った。
「スーリヤ!!!」
幻聴の次は幻覚か、と、チャンドラは頭のどこかで思いはしたが、足が動いていた。チャンドラの歩みは自然と小走りに変わり、彼に引かれているラクダたちも自然と歩調を変えていく。
(チャンドラさんがスーリヤ、と仰ったから、若しかして、あの方がチャンドラさんの御兄様……?双子の兄弟だと仰っていたけれど、毛並みの色が違うのね。それから……肩車をされている小さな子が、虎の亜人と人間の混血の子なのかしら?どう見ても虎の亜人の子供のように見えるのだけれど……?そうだわ、御父様寄りの外見を強く受け継いだのかもしれないわ。ふふっ、元気いっぱいに尻尾を振っているわ、可愛い……)
小走りのラクダに乗っているフェレシュテフは大きく体を揺らしながら、落ちてしまわないようにと気を付けながら、顔を隠す白い布越しに虎の亜人の親子の様子を窺い、微笑んだ。あれが、自分たちが望んでいる未来の形だと。
「久しぶりだな、スーリヤ。……元気にしてたか?」
「まあ、見ての通りだ。何とか暮らしていけてる。そっちはどうなんだ?」
「そうか、それは良かった。こっちも……まあ、何とかやってる。肩に乗ってるのはカルナだよな?大きくなったなあ。前に会った時は、未だ生まれたばかりの赤ん坊だったのに……」
「だーれ、“とと”?」
「カルナ、こいつはチャンドラだ。“とと”の弟で、カルナの叔父さんだ」
「ちゃーちゃ?」
「そう、ちゃーちゃ」
「おい、俺の呼び名を適当にするな」
久しぶりに再会した兄弟たちのやりとりを見ていると、楽しげにしているのが分かる。だが、フェレシュテフには彼らが使っている言葉がいまいち分からないので、どうしたものかとラクダの上で手持無沙汰する他ない。
「ところでチャラ。お前、突然やって来たが……どうしたんだ?護衛の仕事は辞めて、マツヤっていう港町で働き始めたってのは去年あたりに鬼婆から聞いたんだが……それに、其方は?恰好から察するに、砂漠の国の人間の女性か?」
スーリヤが疑問を口にした途端に、場の空気が和やかなものからぴりりとしたものに変化する。チャンドラの強張った表情を見て、スーリヤは直感で「これは何か深い事情があるな」と察する。昔からチャンドラは口には出さないが、表情や仕草に隠し事の有無が出てしまうのだとスーリヤはよく知っている。
「……こいつはフェレシュテフって言うんだ。スーリヤの言う通り、人間の女だ。……スーリヤに頼みたいことがあって、此処に来た。俺の話を聞く聞かないはスーリヤの自由だ。断られても、俺は文句を言わない」
衣服に香を焚き染めて隠しているようだが、人間よりも嗅覚に優れている亜人の鼻には隠しきれない匂いがフェレシュテフには染みついてしまっている。スーリヤはそれに既に気が付いているし、チャンドラも誤魔化しきれていないだろうと分かった上で、話を切り出そうとしているのだ。
スーリヤは伏し目がちに何かを考えてから、小さく息を吐いた。
「あっちの方から此処まで来るのは相当大変だっただろう。先ずは疲れた体を休める為に、うちに来て、茶でも飲め。腹が減ってるなら、ネネが食事を用意してくれるだろう。詳しい話は……それからだ」
「え?あ、ああ……」
門前払いされるだろうとチャンドラは予てから覚悟していたのだが、すんなりと自宅に招いてくれるスーリヤに呆気にとられる。そんなチャンドラを放置して、「羊を集めてくる、ちっと待っててくれ」とだけ告げて、スーリヤはカルナを肩車したまま丘の方へと歩いて行ってしまった。
(あいつは絶対に、俺がどういうつもりで此処に来たのか、それに気が付いてる。それなのに何も言わないで、家に招いてくれるのは……何でだ?)
人の目を避けられる場所でこれから責め立てられるのかもしれない、と、チャンドラが戦々恐々としているとフェレシュテフが控えめに声をかけてきた。
『あの……御兄様とはどのようなことをお話になったのでしょうか?私は此方の言葉は分からないので、どうなっているのかが分からなくて……』
『あ、ああ……長旅で疲れてるだろうから、家で休んでいけ、と言ってくれたんだ。だからこれから、スーリヤの家に行く。……一先ず、こっちの話を聞いてはくれるみたいだが……どうなるかは、全く分からねえ。あんまり期待はしない方が良いかもしれねえ』
『はい、それは承知しています。ですから、どのような結果になったとしても、私は平気です。あなたと共にいられるのであれば、何処だって構わないもの』
『……うん』
フェレシュテフの言葉が胸に響いて、急に彼女に触れたくなる。顔を隠す布越しにでも彼女の頬に触れたいのだがだが、彼女はラクダの背に取り付けている荷台の上に座している。馬上であったなら余裕だったのだが、それ以上に高さのあるラクダの背の上では、いくら丈高いチャンドラでもそれは難しい。それでもチャンドラは無意識に手を伸ばしていて、フェレシュテフは落ちないようにと気を付けながら身を乗り出して、彼の手に触れてきてくれた。掌の肉球で彼女の体温を感じ取って、少しだけ、チャンドラは安堵する。
(……ふうん、あのチャンドラがなあ……)
肩車は止めて、カルナを片腕に抱き、散らばって草を食んでいる羊たちを呼び集めながら、スーリヤは横目でチャンドラたちの様子を窺っている。顔を隠している人間の女性――フェレシュテフと手と手を触れ合わせているチャンドラの纏っている空気が穏やかだった。
(素直は素直なんだが、頑なに意地を張るところがあるチャラを手懐けるなんて、相当の手練れかもしれねえな)
チャンドラの中にあった人間への不信感と女性への苦手意識を払拭させた人間の女性は、一体どのような容姿をしていて、どのような性格をしているのだろう。あの二人を連れ帰った時の寧々子の反応もどんなものなのだろう。そんなことを想像しているスーリヤは楽しそうに目を細めて、唇を三日月の形にしていた。
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