第2話 三人から四人

 空から雪が舞い降りて、緑の草原を白く染める季節が過ぎていこうとする頃。春が訪れたかのような、温かな日差しが届く昼下がり、人間と虎の亜人が築いた家庭で元気な産声が上がった。


「はあ~、生まれてくれて良かったあ~」

「今回も安産だったね。おめでとう、ネネさんや。とても元気良く泣く子だ、お母さんみたいに逞しく育つんだよ」

「あはは、ちょっとはお淑やかに育ってくれたら嬉しいかも……」

「そうねえ、スーリヤさんの心配の種が増えちゃうわねえ」

「ごもっともです……」


 寧々子が上がっている息を整え、噴出した汗を隣家のギュル夫人に拭ってもらっていると、生まれたばかりの赤ん坊を産湯に浸けてくれている産婆のゼイネプが小さな生命の誕生を歓迎するように、顔の皺をより深めて、にっこりと笑う。


「さあさあ、お父さんとお兄さんと御対面しましょうね」


 産後の片づけを済ませ、誰も彼もが一息吐いて落ち着き払った頃合を見計らって、ギュルが居間で待機している寧々子の夫のスーリヤと息子のカルナを呼びに行く。出産の手伝いをしてくれた御婦人方に礼を言い、彼女たちを見送ると、大きな体をしたスーリヤは寧々子の傍に静かに腰を下ろした。


「女の子だったよ、スー」

「ん、聞こえてたから知ってる。お疲れさん、ネネ」

「うん、頑張った」


 自分と同じ身体的特徴を持って生まれてきた娘を寧々子から引き取ると、太く逞しい腕には小さすぎる命を抱いて、スーリヤは優しい眼差しをして、ふっくらとして柔らかな赤ん坊の頬を指の背でそうっと撫でる。目を閉じている赤ん坊はその感触をどう感じたのか、眉を寄せて顔を背けてしまった。それを目にして、スーリヤが太い虎の尻尾を幸せそうに揺らしている。


「カルナ、おいで」


 日差しは春のようでも、風は未だ冷たい。それでも窓を開けて、空気の入れ替えをしたものの、部屋の中には独特の臭気が残っている。人間の寧々子よりも鼻が利くカルナはそれに戸惑い、寝室の入り口で立ち止まっていたが、母親の声に反応して、おずおずといった足取りで彼女の許まで歩いていく。普段活発に動かしている尻尾をしょんぼりと下げてしまっているカルナを優しく捉え、寧々子はぎゅうっと抱きしめた。そうして母親の温もりを確かめて、漸く安堵したのだろう。強張っていた小さな体から力が抜け、寧々子の旨に顔を埋めていたカルナが顔を上げて、はにかむ。


「”とと”と一緒に良い子で待っててくれたね、有難う、カルナ」

「いーこにしてた!」

「うん、良い子!ほら、あの赤ちゃんね、カルナの妹だよ。赤ちゃんに、お兄ちゃんだよ!って挨拶してあげて?」

「わかった!」


 寧々子にそう言われたカルナは彼女の腕の中から慌てて抜け出し、スーリヤの許へと移動する。母子のやり取りを見ていたスーリヤはカルナが赤ん坊を見やすいようにと抱き方を変えてやり、カルナは興味津々といった様子で元気良く「にーちゃだよ!」と妹に声をかけた。残念ながら赤ん坊の耳には兄の声が大きすぎたのだろう、驚いた赤ん坊が泣き出してしまい、「若しかして悪いことをしてしまったのだろうか?」と思ったカルナがかちんと固まってしまう。


「ちっとばかし兄ちゃんの声が元気良くて、驚いちまっただけだ。もう少し優しく声をかけてやれ。そうすれば大丈夫だ」


 呆然としている息子の頬を撫でながら、スーリヤが助言する。それを聞き入れたカルナは、父親にあやされて泣き止んだ妹に、今度はこそこそ喋りでもう一度挨拶をする。カルナなりに”優しく声をかけた”つもりなのだろう。妹は、今度は泣かなかった。


「いもーと、いもーと」

「そう、カルナの妹だ」


 同じような調子で尻尾を揺らして赤ん坊を見つめている父と子を、寧々子が幸せそうに見つめている。




 三人家族が四人家族になった日の夜。嘗てカルナが使っていた揺り籃に赤ん坊を寝かせて、お腹が膨れて満足したカルナを寧々子の傍に寝かせて、夫婦は静かに語らう。


「赤ん坊の名前はどうする?俺たちで考えてつけるか、それとも誰かに名付け親になってもらうか?カルナは……鬼婆が名付けてくれたな」


 何かの勘が働いたのかどうかは定かではないが、長男のカルナが生まれた時、偶然にもスーリヤの母親、鬼婆ことヴィカラーラが妹のカーリーを伴って村を訪れていた。彼女は生まれたばかりの孫を抱き上げると、珍しく優しい目をして、名付け親になることを申し出たので寧々子たちはそれを拒まず、快く承諾したのだ。


『何れ太陽スーリヤの加護を失おうとも、立派に生き抜いていける強さを持ってもらいたいねえ。だから敢えて、”カルナ”と名付けようかねえ』


 スーリヤの故郷で言い伝えられている神話から取られたその名前は、あまり縁起の良いものではないらしい。然し、意味の良くない名前を敢えてつけることで、幸運を呼び込もうという思いがあると、ヴィカラーラは言った。

 ――世界が違っても、似たようなことってあるんだなあ。

 寧々子が生まれ育った世界の日本でも、古い時代には同じような風習があったと祖母から聞いたことがあった寧々子はヴィカラーラの名付けを拒絶せず、スーリヤもそれを受け入れた。ヴィカラーラの思惑通りか、ご利益があったのかどうかは知る由もないが、一般的な虎の亜人の子供より体が一回りほど小さいだけで、人間と亜人の混血児であるカルナは重い病気もせず、すくすくと育ってくれている。


「あのね、前に向こうの世界に里帰り出来ちゃったことがあるでしょう?その時にね、向こうにいる家族が生まれてくる子の名前を考えてくれたんだ。だから、その名前をつけても良い?」

「そうか。それなら、その名前にしよう。寧々子の家族が考えてくれた名前だ、良いものに違いない」

「あ~、うん、変な名前ではないかな。それは保証します」


 皆で炬燵に入って、ああでもない、こうでもないと議論をして大いに盛り上がった草森家の家族会議によって、赤ん坊につける名前の候補が決定した。

 因みに自分が考えた名前を孫につけようと意気込んでいる父親の豊作ほうさくの案は、母親の木綿子ゆうこと祖父母が協力し合って悉く却下された。彼らは知っている。豊作には名付けの才能がないことを。寧々子の兄の稲穂いなほには”稲作いなさく”、寧々子には”米子よねこ”、弟の麦穂むぎほには”畑作はたさく”と名付けようとした豊作の感覚を、彼らは微塵も信用していないようだ。


『農家の子供だからって稲作と畑作、二人合わせて二毛作とか名付けようとするのはちょっとなあ……。稲ちゃんは稲作でも問題ないけど』

『寧々ちゃん、稲ちゃんはゴリラだべ。ゴリラ・ゴリラ・ゴリラだべ』

『おい、妹と弟よ。兄ちゃんをゴリラ扱いするんじゃねえ。あまりの悲しさに俺のピュアなゴリラハートが砕け散っちまうべ』

『『自分で自分をゴリラと認めてるべさ』』


 うっかり自認していることをばらしてしまったゴリラ稲穂が嘆き狂うので、ホルスタイン寧々子と動く仏像麦穂が適当に稲穂を慰めたことを思い出して、寧々子は苦笑する。


「えっとね、男の子が生まれたら、健太けんた。健康で骨太に育ちますようにって、願いが込められてるの。それから女の子だったら、菜々子ななこ。向こうにはね、菜の花ナノハナっていう植物があって、黄色い可愛い花を咲かせるの。それは食べられるし、種からは油もとれるから、そんな感じの女の子になるようにって願いが込められていて……」

「……どういう願いを込めてんだ、お前の家族は」

「いや~、願いは兎も角として、随分とマシな名前だから!うちの父さんなんか、もっと微妙な名前をつけようとしたから皆で止めて……。うん、生まれたのは女の子だから、菜々子。菜々子だと皆が呼び難いかもしれないから……ナナだね」


 寧々子、と日本語らしい発音は、タウシャン村の人々が使っている言語では発音し難いらしいので、寧々子はスーリヤや村の人々からは“ネネ”と呼ばれている。思いを交わして、番になってからのスーリヤだけは誰もいない時に限って、寧々子、と呼んでくれる。

 家族は勿論、村の人々にも親しんで貰えるような響きの名前が良いと思い、娘の名前は“ナナ”にしようと決めた寧々子が同意を求めると、スーリヤは口の端をちょっとだけ上げて、目を細めた。


「食えるとか、油がとれる女になれってのは置いといて。響きは良いし、覚えやすそうだから“ナナ”で良いんじゃねえか?」

「じゃあ、この子はナナだね。カルナが起きたら教えてあげなくちゃ」


 寧々子の傍で丸くなって寝ているカルナの頭を彼女が愛おしそうに撫でると、カルナはうっすらと目を開けて間もなく、再び目を閉じて寝息を立て出した。それを見て、寧々子とスーリヤが笑い合う。

 ――こうして二人目の子供の名前は、“ナナ”に決定した。

 後日、新しい家族の誕生を祝いにやって来てくれた村長のムスタファーにそのことを伝えると、赤ん坊の名付け親になろうと考えていたらしい兎の老人は「とても良い名前だねえ」と喜びつつも、すっかり意気消沈してしまったのだった。

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