ネネスってどの雲る
かなえ ひでお
第1話 期待と不安
旅のお供には馬とロバがいれば十分なのだが、それだけでは不十分になる場所がある。広大な砂漠の旅には、ラクダの存在が不可欠だ。
必需品を補充しようと立ち寄ったオアシスの町でラクダを購入すると、フェレシュテフは馬からラクダに乗り換えることになった。馬の背の上とは違う感覚に初めの頃は違和感が生じていたが、そのうちに慣れてきた。
ゆったりとした歩調のラクダの背でゆらゆらと体を揺られているフェレシュテフが出来ることは少ない。例えば顔を隠している白い布を除けて、雲一つない真っ青な空と優美な曲線を描く砂の海、陽炎を揺らめかせている地平線や、ラクダを引いて歩いている白い
(何もすることが出来ないのは、退屈で仕方がないわ……)
一所懸命に歩いてくれているチャンドラには大変申し訳ないのだが、どうしても飽きが生じてくる。長旅をしたこともないので、どのような暇潰しの方法があるのかもフェレシュテフには見当もつかない。
――退屈だったら寝ていて良いぞ。
と、チャンドラは予めフェレシュテフに告げていた。愛する人にそう言われのだから、それに甘えていたら良いのだが、どうしてか気が引ける。だからフェレシュテフは退屈な気分を紛らわそうとして、首を向ける方向を変えたり、視線の高さを変えたりして、間延びしているように感じられる時間を潰している。
砂漠の旅を続けて、一月と半ばほどが過ぎようとした頃。
相も変わらず、雲のない蒼穹に浮かぶ太陽は燦々としている。極力、露出をしないようにしている服装をしても、強烈な日差しは易々とそれを突き抜けて、じりじりと肌を焼く。元より褐色の肌をしているフェレシュテフとチャンドラだが、より一層色が濃くなってしまったような気がするほどだ。そして、あまりの暑さに汗をかいたとしても、あっという間に蒸発してしまい、体中から水分が抜けていく感覚に常に襲われているのも変わらない。
(……あら?)
ふと視線の先を変えた時、常に見えている地平線が消失し、遥か彼方に天頂に白化粧を施している、緑の乏しい高い山々が出現したことにフェレシュテフは気が付いた。そしてもう一度視線を下方に変えてみると、さらさらとした水分の無い砂の海の合間に色の違う乾いた地面が顔を出していたり、点々と生えているだけだった草も群れの数を増やし、時折吹きつけてくる砂混じりの熱風に身を揺さぶられている。
(あと少しで、砂漠が終わるのかしら?)
見飽きてしまっていた風景に、僅かばかりの変化が生じてきたのだと彼女が理解したところで、眼下のチャンドラが不意に振り返り、徐に口を開く。
「あの山を越えると、草原地帯に入る。それから更に進んでいくと、スーリヤの……兄貴のいるタウシャン村に辿り着く」
黄砂の海と、青々とした草の海との境界である山脈の麓までは、まだまだかかる。何時の間にやら太陽が傾き、青かった空が美しく焼けてきたので今日のところはこの辺りで休んで、明日に備えようということになった。太陽が沈みきる前に、町で仕入れてきた情報を頼りに水場を探し、その近くで野宿をする。
「フェレシュテフ、ほら」
言い方は素っ気ないが、フェレシュテフをラクダの背から降ろすチャンドラの仕草はとても優しい。壊れ物を扱うようにラクダから降ろしてくれたチャンドラに礼を言うと、フェレシュテフはいそいそとした様子で彼が地面に降ろした荷物の中から食器や食料を取り出し、火打石を使って火を起こし、水を入れた薬缶で湯を沸かす。旅の休憩時間だけが、フェレシュテフがチャンドラの役に立てると感じられる時間なのだ。
漸く出番がやってきたとばかりに張り切っているフェレシュテフを横目で見ながら、旅のお供をしてくれているラクダたちに餌を与えて、彼らの今日の働きを労うと、チャンドラは小さく息を吐いた。
(タウシャン村まではこんなに遠かったか?前に鬼婆とカーリーと三人で行った時は、今頃にはもう村に到着していたはずだよな……)
数年前に母親のヴィカラーラと妹のカーリーの三人で赴いたタウシャン村までの旅の移動手段は主に徒歩だったのだが、昼夜問わず常に移動ばかりしていた。並外れた体力を誇り、夜目も利く虎の亜人である彼らにはそれは全く苦ではない。だからこそ徒歩とはいえ、目的地に辿り着くまでの時間はそれほどかからなかったのだろう。然し、夜間に移動をしていたことで道中はそれなりの頻度で亜人、人間問わず夜盗の襲撃に遭ったものだ。チャンドラたちは虎の亜人であるとはいえ、たったの三人で、然も武装も碌にしていなかったので、夜盗らは闇の中でならば勝てる、と判断したのかもしれないが相手が悪かった。チャンドラが出るまでもなく、持ち前の腕っぷしで母親と妹が夜盗らを撃退しては、近くの町の自警団に突き出して小遣い稼ぎもしていたなと思い出し、つい、笑みを浮かべる。
「あなた、お茶が入りましたからお食事にしましょう?」
「ん~」
食事の準備を済ませたらしいフェレシュテフに声をかけられて、意識を思い出から現実に引き戻すと、チャンドラは良い匂いがしていることに気が付いた。彼は餌やりの片付けを手早く済ませて、フェレシュテフの隣に腰を下ろして、視線も落とす。布膳の上には日持ちのする固焼き
(俺一人だけだったら前と同じ移動手段を使えば良いが、フェレシュテフにそんな無茶をさせる訳にはいかねえし、危ない目になんか遭わせたくもねえ。これくらいの調子で進んでいくのが、丁度良いんだろうな)
と、自分を納得させて、大きく千切った麵麭をぱくり。
「今日も一日お疲れ様です、あなた」
「ああ、そっちもな。ラクダに乗りっ放しで尻が痛くなったりしてねえか?」
「ふふっ、もう慣れましたから馬にもラクダにも乗り続けても平気ですよ」
馬に乗り慣れていなかったフェレシュテフは旅の初めの頃は毎日、尻の痛みに泣かされていたものだ。そのことを笑いの種にして、会話が弾み、やがては布膳の上に並べられていた食事は綺麗になくなっていた。
「片付け、済んだか?」
「はい」
食事の片付けを終わらせたフェレシュテフをそっと捕まえると、毛布で彼女の身を包んでから、膝の上に載せて、チャンドラも毛布を被る。砂漠の夜は灼熱地獄のような昼間と打って変わって、凍えるほどに寒い。吐き出す息は白く、熱々だったお茶もあっという間に温くなり、冷めきってしまう夜空の下、二人は焚火の前で身を寄せ合って暖を取る。
「あの山を越えると草原に入ると仰っていましたけれど、お兄様がいらっしゃる村まではあとどれくらいかかるのでしょうか?」
煌々としている月の光が強すぎて、星の見えない濃紺色の空を見上げながら、フェレシュテフが呟く。ふと昼間にチャンドラが言っていたことを思い出したので、何となく、尋ねてみたかったようだ。
「町で会った隊商の連中が言うには、山の頂には未だ雪は残ってるが、山道は問題なく使えるらしい。だがあの山道は俺でも険しいと思うくらいだからな……フェレシュテフには物凄くきついかもしれない。だから山越えには結構な時間がかかるだろうな。山を越えて草原に出ても、其処から更に街道に沿って進んでいって……順調に進めて、早くて一月くらいか?」
「そう、ですか……。マツヤの町を出てから山越えもしましたし、今も砂漠越えをしていますから、旅の大変さは分かってきています。それでもタウシャン村に早く辿り着きたいと、気持ちが逸ってしまって……。タウシャン村は住民の殆どが
話に聞くことしか出来ていないタウシャン村の光景を思い浮かべて焦る心を慰めようとするが、生まれ育った港町マツヤやこれまでに立ち寄った砂漠の町などしか知らないフェレシュテフには草原の村が上手く想像出来ない。
「人口や村の規模はフェレシュテフが育ったマツヤに比べると随分と小さいが、賑やかさは同じくらい……いや、それ以上かもしれねえ。兎の亜人は体は小さいがどいつもこいつも元気で、よく働く奴らだ。……まあ、あの村で一番無駄に元気なのはあいつだな、絶対」
「あいつ?どなたですか?」
「……兄貴の番のネネっていう人間の女。あいつは本当に無駄に元気だ」
タウシャン村の話題になると必然とチャンドラの双子の兄スーリヤの話題が出るのだが、彼の番であるネネという名前の人間の女性の話題にも触れることがあるので、チャンドラから見た彼女の印象はフェレシュテフも知っている。
或る日突然タウシャン村の近くに現れて、スーリヤに拾われた人間の女性ネネ。詳しい出自などは分からないが、あっという間に村に馴染み、村人たちから信頼を得た彼女はよく笑い、よく働き、スーリヤや村人を呆れさせたり、笑わせたりと忙しいらしい。
「ネネの奴と初めて会った頃、里からあまり出たことがなかった俺は人間に偏見を持っていて、亜人と人間が番うことがどうしても理解出来なくて、許せなくてな。つい感情的になって、スーリヤやネネに酷いことを言っちまって……ネネに思いきり脛を蹴られた。人間の女に蹴りを入れられたのは後にも先にもネネだけだ」
虎の亜人の男性の鋼のように硬い脛に蹴りを入れても、ネネは骨折しなかった。捻挫はしたらしいが。スーリヤから聞いた話によれば、村の子供たちと釣りに行って湖に落ちたり、放牧の手伝いをして羊に体当たりをされて吹っ飛んだり、揚句には梯子に登っていてうっかり足を踏み外して頭から地面に落ちたりしても、ネネはピンピンしているらしい。その為に一時期、ネネは実は人間ではなくて、何かの亜人なのではないだろうかという噂が村の中で流れていたこともあるのだとか。
「と、まあ、そんな奴らが住んでる所だから……きっと楽しいぞ」
「……ええ、とても楽しい、素敵な村だと思います。そんな素晴らしい村で……」
チャンドラと共に暮らしていけたら、家族が増えていったらどんなに幸せなことなのだろう。そう続けてしまいそうになって、フェレシュテフは口を噤んで、目を伏せた。
(今でも十分に幸せなのに……どうして欲張ってしまうのかしら?)
満足しても満足しても、次々に新しい欲が生まれてきているのが分かって、恥ずかしくなる。
(タウシャン村の方々に受け入れてもらえる保証もないのよ。期待し過ぎては、駄目。拒絶されてしまった時、とても辛くなるわ)
期待に胸を膨らませると、心の奥底に押し込めていた不安が這い上がってきて、冷や水を浴びせ、楽観的な思考から悲観的な思考へと変えてしまった。
「――フェレシュテフ」
急に押し黙ってしまったフェレシュテフの頭上から、声が降ってきた。ゆっくりと顔を上げると、焚火と同じような色に変わっているチャンドラの目とぶつかった。
「疲れただろ、もう休め。火の番は俺がしてるから、心配するな。……他のことも、あんまり気にすんな。だから、早く寝ろ」
吐息だけで笑ったチャンドラがフェレシュテフの額に口付けを落として、彼女を腕の中に閉じ込めると、あやすように彼女の背中を撫でてくる。
(私が不安になったことに気付いてくださったのかしら?)
つっけんどんな物言いはするが、チャンドラは根は優しい。「早く寝ろ」は「もやもやとしている気持ちは寝て忘れてしまえ」という気遣いなのかもしれないと思うと、冷えかけた心が再び温かくなってくる。ともすれば自然と体も温かくなってきて――フェレシュテフは静かに寝息を立て始めた。
(……思ったより寝るのが早いな。そんなに気分が沈んでなかったってことか?ったく不安になったなら、口に出してすっきりしちまった方が良いのに……
母親を亡くしてから独りで生きてきたフェレシュテフは、誰かに甘えることが苦手なようだ。自分が寄りかかることで誰かに迷惑をかけたくない、という気持ちも強いのだろう。それでもチャンドラと番になってからは、少しずつ甘えてくるようになったのだ。欲を言えば、もっと甘えてきて欲しいとも思うし、甘えられ過ぎても困る、という相反する気持ちがチャンドラの中に共存していることは彼女には言わない。何となく、恥ずかしくて。
(勢いのままに連れ出したが、あの村で暮らしていける保証なんてない。スーリヤが味方についてくれるだろうって期待しちまってるところがどうにも恰好がつかねえよな……)
それでもタウシャン村を目指さずにはいられない。あそこには、亜人と人間が番って出来た家族が暮らしている。自分たちもそのようになりたいと願うから、あそこを目指さずにはいられない。
(タウシャン村が駄目なら、他の場所を探す。恰好つかないことこの上ないが、セーヴァやヴァージャさんに頼る道もある。……こいつが幸せになれる場所を見つけ出してやる)
その為ならばどんなことにも耐える、どんなことでもすると、マツヤの町を出る前に心に誓っていたはずだと、自分に喝を入れるが――
(だけどなあ、村に着いて、あいつん家に訪ねて行ったら……絶対に呆れた顔をするよな、スーリヤの奴。俺が人間と番ったら散々文句を言ってきたくせに、俺と同じことをしてるんじゃねえよって、口では言わないで目で言ってくる。ネネの奴も何か言ってくるだろ……っ)
フェレシュテフと番って以降、彼はタウシャン村に辿り着いた時のことを想像しては、とある思いに駆られている。若しも時間を遡れるのだとしたら、世の因習に逆らって番った兄夫婦を責めた彼の日の自分をぶん殴ってやりたい。それはもう、半殺しにする勢いで。
具体的に思い描けてしまう近い未来を憂いて、チャンドラが深い溜め息を吐いた。
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