第4話 はじめまして、こんにちは(1)

 タウシャン村に戻る道すがら、スーリヤはチャンドラに「家族がもう一人増えた」と近況を報告する。ラクダの背に乗っているフェレシュテフにも会話の内容が分かるように、故郷の言葉で。チャンドラは素直に「おめでとう」と言い、白い虎の尻尾を楽しげに揺らした。スーリヤに肩車をしてもらっているカルナが時折ちらりと自分たちを見ては、恥ずかしそうにぷいっと前を向く行動もチャンドラは密かに楽しんでいる。


『そういえば、お前、マツヤにいたんだったよな。あそこは亜人と人間が同じくらい生活している稀有な場所だ。人間嫌いのお前がよく暮らしていけたな』


 故郷のバンラージャを出て行ってから、スーリヤは様々な場所に赴いた。後に相棒となるバイェーズィートに出会う前にも、出会ってからも。その中の一つに巨大な港町マツヤがあり、彼は当時の町の面影を思い浮かべて、チャンドラに言葉を投げかける。


『あそこは亜人の住む場所と、人間の住む場所がはっきり分かれてるから、それほど苦じゃなかった。世話んなってた職場にも人間がいたが……その人は嫌な人じゃなかったし、まあ、その、考えが……変わったというか……』

『ふうん』


 ”人間”についての話題になると、急にチャンドラの言葉の歯切れが悪くなる。スーリヤはチャンドラの顔色をちらりと窺って、理由を察し、分かり難い笑みを浮かべた。


(チャンドラさん、心の中で物凄く葛藤しているのかもしれないわ……。耳と尻尾が不自然な動きをしているし、歩き方も何だかぎこちないわ……)


 チャンドラに考えを変えさせてしまった要因の一つであるフェレシュテフはラクダの上で、苦笑する。然し顔を隠す布があるので、表情はチャンドラにもスーリヤ、カルナにも知られない。


(村の連中には知られてもそれほど問題はないが……他所者に気付かれると面倒だな)


 チャンドラとフェレシュテフが種族の壁を越えて番になっていることにあっさりと気が付いたスーリヤは、タウシャン村に辿り着くと、出来るだけ人通りの多くない道を選んで自宅を目指した。時間帯が良かったのか、幸いなことに村人にも村外の人々にも出会わずに自宅へと戻ることが出来た。


『一先ずネネに話をしてくるから、少しの間、外で待っていてくれ。ラクダたちは……そうだな、一先ず羊小屋ここに繋いでおいてくれ』

『分かった。有難う、スーリヤ』


 家の中にいるネネに事情を話しに行ったスーリヤに礼を言って、チャンドラはラクダの背からフェレシュテフを下ろすと、動物たちの背から荷物を下ろし始めた。フェレシュテフもてきぱきと、チャンドラの手伝いをする。




 スーリヤ曰く「独り身で暮らすにはやや広い家」、寧々子曰く「天井が物凄く高くて、一部屋一部屋がやけに広々としている家」の居間は、とても賑やかだ。寧々子や隣家のギュル夫人に娘のラーレ、そしてバイェーズィート夫人のデニズが談笑を交えながら裁縫や刺繍をしている。更には、まだまだ手のかかる年頃のデニズの子供たちが時折揺り籠の中で眠っているナナの様子を窺いながら、持参した木製の玩具で元気良く遊んでいた。家主であるスーリヤの体格に合うようにと設計して建てられた家の一箇所にこれだけの人数が集まっても空間に余裕があるので、窮屈な感じは全くない。


「ネネは決して不器用なのではないのよね。だってねえ、裁縫自体はとても上手なのだもの」


 産後の肥立ちが悪くなく、母子ともに健康そのままであるとはいえ、寧々子が調子に乗って無理をして倒れてしまいそうな予感がする、と、心配しているスーリヤに寧々子の監視を頼まれたギュルとデニズ、そしてラーレが渋い顔をしている寧々子の顔を覗き込む。寧々子の手には昨日縫い上げた、ナナに着せる産着があり、彼女はそれに刺繍をしているところだった。


「ええ、そうですねえ。縫い目は真っ直ぐですし、仕上げも丁寧ですし。ただ、刺繍だけは……もう少し修業が必要みたいですねえ……」


 今はもう別の町に嫁いでいってしまったギュルの娘のヤセミーンが着ていた産着を参考にして、簡素ながらも可愛らしい薔薇の模様を刺繍しているのだが、どう見てもそれがカクカクしている何かの模様?になっているので寧々子が自分の腕に自信を無くして、がっくりと項垂れた。

 或る日に散歩をしていると、いきなり異世界へと迷い込んでしまってから、早数年。ゴリラ顔の父親や祖父にある程度はサバイバルに使えそうな知識を教えられていたとはいえ、日本製の文明の利器に慣れきっていた寧々子は、それらが存在していない異世界での生活に順応するのに多少は苦労したものの持ち前の根性で克服してきた。けれども、どうにも克服できないものもあった。それが、生まれ持った、或いは経験で培ってきた芸術的センスを発揮する刺繍。


「服を縫うのは問題なくなったのに、どうして刺繍だけはいまいち上達しないかな~?見本さえあれば何とか見られる刺繍が出来るからと安心していたら、これですよ……っ!カルナの時も駆けつけてくれたスーリヤの妹カーリーに手伝って……いや、カーリーが殆どやってくれたんだけども……うううっ、こう、ちくちく針を刺していく単純な作業が苦行としか……っ!紡績と機織りをしたり、大人数の御飯を作ってる時の方が楽しいなあーっ!」


 不甲斐ない自分への苛立ちからか、ついつい独り言で声を荒げてしまうと、それまでは健やかな寝息を立てていたナナが目を覚まし、室内の空気の振動がビリビリとくるほどの音量で泣き出してしまった。寧々子は急いで立ち上がり、揺り籠の中に納まっているナナを抱き上げる。


「うわー!超音波ー!”かか”が悪かった!ナナぁ~御機嫌直して~っ!」

「あらあら、とっても元気ねえ、ナナちゃん。御免なさいね、私たちはちょっと耳を塞がせてね~」

「すみません、ギュルさん、デニズさん、ナナの元気が良過ぎて……!」

「気にしないで頂戴、赤ちゃんは泣くのも仕事だもの」


 赤ん坊だった頃のカルナも泣き声の大きさがかなりのものだったが、ナナはそれを上回っているのではないかと寧々子は思う。人間の寧々子でさえ耳を塞ぎたくなる音量は、聴覚が優れている兎の亜人アルミラージの長い耳を塞がせる。

 あたふたとしながら暫くあやしているうちにナナが泣き止み、気分が落ち着いてくれたようなので寧々子は安堵し、ナナを再び揺り籠の中に戻す。


「良かった、泣き止んだ……。うう……っ、女の子が生まれたから綺麗な、可愛い刺繍の入った服を着せてあげたくて頑張ってるんだけど、現実は厳しいなあ……。あれ、ラーレの方があたしより上手……あはは……」


 所定の位置に戻る際に、隣にちょこんと座っているラーレ――ヤセミーンの年の離れた妹――が進めている刺繍が視界に入り、寧々子は発情した雄羊に背面から強烈なタックルを喰らわされた時のような衝撃を受けた。ラーレが手拭いに刺繍しているのは初心者向けの簡単な模様ではあったが、丁寧で綺麗に仕上げられているのが分かる。「ついこの間刺繍を習い始めた八歳の女の子に余裕で負けてる……」とぶつぶつと呟いて落ち込んでしまった寧々子の二の腕を、ラーレの小さな掌が優しく撫でた。その光景を目撃したギュルとデニズは顔を見合わせると、感情の読めない笑顔を浮かべて、こくりと頷いた。




 寧々子は悲しい現実に打ちのめされつつ、カクカクとした何かの数を少しずつ増やしている。そして、ふと手を止めて顔を上げた時、兎の亜人たちの耳が一斉に動いたのを見た。彼女たちは寧々子の耳には聞き取れない音を聞き取ったのだろう。


「この声は……スーリヤさんとカルナくんが帰ってきたみたいね。あら?他にも声がするわね。お客様を連れてきたのかしら?」


 刺繍を中断したギュルが外から聞こえてくる音を拾っている耳と同じ方向に顔を向けると、寧々子もつられて其方に顔を向けてみる。家の壁の向こうで何が起こっているのか、気になったのだ。


「ラーラさん……スーのお母さんが来たのかな?ラーラさんはいつも突然現れるからなあ」

「いいえ、お母さまではないわね。男の人の声だもの。この声は確か……スーリヤさんの弟さんね。以前にも聞いたことのある声だわ」

「え、チャラ?チャラが来るのは久しぶりだなあ~。最後にチャラに会ったのはカルナが生まれて直ぐくらいだったかな」


 丁度良いことにナナが生まれた頃にやって来てくれたので、チャンドラに家族が増えたことを報告出来る、などと考えていると玄関の扉が開いて、スーリヤとカルナが中に入ってきた。


「おかえりなさい、スー、カルナ!」

「たやいま!」

「ただいま。ギュルさん、デニズ、ネネの見張りをしていてくれて有難う御座います」

「いいえ、どういたしまして。弟さんがいらっしゃったの?声が聞こえたのだけれど」

「ええ、まあ……」


 少し言い淀んでから、スーリヤは寧々子に「大事な話がある」と切り出した。それを聞いたギュルが「それじゃあ、私たちはお暇するわね」と言って、寧々子の見張りをしてくれていた客人たちが手早く片付けをし始める。


「すみません、何から何まで頼ってしまって……」

「良いのよ、気にしないで。貴方たちはお隣さんだし、此方も十分にお世話になっているのだからお互い様よ」

「そうよ、スーリヤさん。うちの旦那のお友達の頼みだもの、喜んで伺うわ。ネネ、スーリヤさんを心配させたり、困らせたりするのは控えめにね」

「は~い、出来るだけ気を付けま~す!」


 デニズが投げかけた言葉に対して、にこにこしながら軽い返事をして、寧々子は彼女たちをその場で見送り、それから台所へと向かう。スーリヤに紅茶チャイを淹れてきて欲しいと頼まれたので、火を起こす。次にお湯が沸くまでの間に茶葉と薬缶と茶器、そしてお菓子を用意する。

 スーリヤはギュルたちを家の外まで見送り、彼女たちと手短な挨拶を交わしていたチャンドラたちが連れている動物たちが羊小屋に移動してあるのを確認してから、彼らを家の中に招き入れた。

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