⇒君は俺の心の中に

 

 ≪私、嘘を……付いた≫


 その言葉は、今でも鮮明に覚えている。


 あの時は、試合を終えて少しテンションが上がっていた。

 どうしても伝えたくて、プレゼントも渡したくて……本気で家に行こうかとも思っていた。


 そんな時、突然届いた電話。そしてその言葉。

 最初は何言ってるのか分からなかった。お得意の冗談だと思った。

 ただ、いつもとは違う春さんの声は……今まで抱いていた興奮を一瞬で醒ました。


 後は……本の通り。


 まぁ本に書かれているのはその殆どが俺の実体験だ。……とはいえ、登場人物の名前は勿論変えてあるし、セリフだって一言一句正確かと言えばそうでもない。


 それでも、花と出会ってからの内容は……記憶は……間違いない。

 自分の記憶と、自分が残したノートがその証拠。むしろノートに書いてない、高校に入ってからの数千文字の方が割と曖昧だ。


 だからこそあの時、春さんからの電話が来た俺は……全くもって作中のと同じだった。というより、忘れろと言われても無理な話なんだ。


 あの日の事はそれ位……色濃く頭の中に染みついている。

 まるで昨日の事のように。




 ≪じゃあ、私も病院行くね?≫


 春さんの言葉を最後に電話を終えると、急ぐように支度を済ませた。そして、勢い良く家を飛び出したんだ。大きな……ラッピングされた袋を片手に。

 バス停まで全速力で、バスが来る時間なんてお構いなしにとにかく急いでいた。小雨が降ってたのに、傘を忘れる位に。


 あの時の俺は、本当に早く花に会いたかった。それに、


 俺が行けば、もしかしたら花は何かしらの反応してくれるんじゃないか?

 試合の事言ったら、笑顔を浮かばせてくれるんじゃないか?

 プレゼントを渡したら、喜んでくれるんじゃないか?


 なんて変な自信に溢れていたんだ。


 言葉では理解していたけど、頭の中では春さんの言ってた花の姿はボンヤリとしていたから。


 それにしても気持ち悪い位の思い込みだよ。でも、当時の俺は……葵日向は……本当にそう思っていた。

 すぐさま、奈落の底へと落とされるとも知らずにね。


 こうして、病院へ着いた俺は迷うことなく春さんに聞いた病室に向かった。

 ……ここからは、悔やんでも悔やみ切れないよ。


 なんで春さんを待たなかったのかって。


 けど、それを知る由もなかった俺は真っ直ぐ向かった。花が居る病室へ。そしてドアを……開けた。


 目の前に広がるの綺麗な病室。

 大きな窓に、手前にはシャワー室。

 その奥に置かれたベッドに、少しだけ見える膨らみ。

 花がそこに居るのは間違いなかった。


 俺はゆっくりと近付いて、そしてついにその視界に……花を捉えた。


 ベッドの上。そこに……花は居た。上半身を起き上がらせて……そこに居た。

 けど、その雰囲気は……まるで違う。俺の知っている花じゃない。


 頬は少し痩せて、その目は……虚ろ。


 まるで別人のような花を目の前に……なかなか声が出なかった。それ以上前に進めなかった。


 そんな時、ゆっくりと花が俺の方を向いた。

 目が合った瞬間、思わず慌てるように声が零れる。


「よっ、よう花! 元気か?」


 いつもの花なら、一瞬驚いた表情を浮かばせた後、優しく微笑むはずだ。俺は心のどこかでそれを願った。それを望んだ。


 けど、それは……



「あの……どちら様でしょう?」



 叶わなかった。


 その一言は……胸に風穴を開ける。

 全身に伝う悪寒と、けたたましく鳴り響く鼓動。

 呼吸も上手く出来なかった。


 そして何より、目の前の花がこんな事を言ったという事実を……受け入れられる事が出来なかった。

 受け入れられる訳がなかった。

 つい数週間前まで仲良く話をしていたのに、一緒に出掛けていたのに、まさか……まさか……



 自分の事を忘れているなんて。



 嘘だと言って欲しかった。

 冗談だよって言って欲しかった。

 だから……必死だったんだ。


 固く動かない口を無理矢理こじ開けて、震える声を絞り出す。


『なっ、何言ってんだよ。冗談は止めろって』


 でも目の前の花は、じっと俺の目を見つめたままだった。虚ろな目で只々じっと……

 その姿は、とても嘘を付いているモノじゃない。

 冗談で装っているモノじゃない。


 いつもとは違う雰囲気に足が震えた。

 それでも、認めたくなくて……俺は焦るように持って来たプレゼントの袋を開けたんだ。


 これを見てくれたら、何とかなるかもしれない。このテディベアさえ見てくれたら。


『なんだよその顔、つまんないぞ? それより見てくれよ! このテディ……』


 そう言いながら、テディベアを袋から取り出そうとした俺は……もう1度花の顔を見たんだ。でも、



 待っていたのは……地獄。



 見た事も無いような……怯えているような表情。

 今にも泣き出しそうな表情。


 そして、



『ほっ、本当にだっ、誰……ですか……かかっ、看護師さん……呼びます……よ』



 その言葉が……引き金だった。



 この作品は……ある意味自分自身であり、ある意味理想とする自分。


 坂城さんに言った言葉が蘇る。

 その通り。まさにその通り。


 作中のように、全てを受け入れて花を支えようと決意出来ていたら……どれ程良かったんだろう。

 そう思うのは当たり前だ。



 あの葵日向は俺の……理想の姿そのものなのだから。

 あの匙浜花は俺が……今願う姿そのものなのだから。



 勿論作品として書く以上、その事が原因で病院や個人情報がバレる可能性もあったって言うのもある。


 それにしても本当の俺は、最悪だった。結果として最低だった。俺は……俺は……



 花の言葉に居ても立ってもいられずに……逃げたんだから。



 病院の中だっていうのもお構いなしに走った。

 逃げたかった。花から離れたかった。

 嘘だと思いたかった。

 夢なら覚めて欲しいと思った。


 そんな気持ちを繰り返しながら、ひたすら走って……病院を後にした。


 そして、ただ逃げたい。その場を離れたい。

 その本能のまま、土砂降りの中をひたすら歩いていた。長い長い下り坂を歩いていた……んだと思う。

 正直、病院を出てからは記憶が曖昧だったんだ。


 その……大きなエンジン音に気が付くまでは。


 徐々に大きくなる音。

 そして横から差し込むまばゆい光。


 目を細めながら横を向くと、目の前に大きなトラックが迫っていた。

 その瞬間、自分が道路の真ん中に立って居た事には気付いたけど、


 ヤバい轢かれる。ヤバイ……

 体は言う事を聞かなかった。


 徐々に近付くトラック、動かない体。

 駄目だ……


 観念し、もう自分が助からない事を悟った俺はゆっくりと目を瞑った……その時だった。


 誰かに押されるように……体が浮いた。

 無意識に横に移動する体。


 えっ?

 何で自分の体が移動しているのか、その理由は分からなかった。なぜなのか、その正体は? 必死に考えても想像も出来ない。それに確認する事も出来なかった。


 だって、目を開ける間もなく聞こえたのは。

 けたたましいブレーキ音と、鈍い音。


 そして辛うじてそれを認識した瞬間に、頭に受けた事もない衝撃が走る。そして瞬く間に体全体に響いて……目の前が真っ暗になったんだから。


 頭が割れるように痛かった。体中が痛かった。

 それでも……意識はあった。


 でも何があったのかは分からない。想像もつかない。

 力を振り絞って目を開けてみたけど、視界はぼやけてて……辺りを認識できるようになるのに少し時間が掛かった。


 段々とハッキリしていく内に、目の前に停車しているトラックが見えた。けど、それだけじゃない。

 そのトラックの先に何か大きな物体があったんだから。


 何度も瞬きをし、徐々に鮮明になる姿。

 それが人だと認識出来るのに、そこまで時間は掛からなかった。


 目に見えて分かる髪の毛、そして見覚えのある色合いの服。


 そして長い髪の毛の隙間から覗かせる顔を見た瞬間、それが誰なのか……確信した。


 あぁ……助けないと……助けないと……

 その瞬間、頭の中はそれで一杯だった。


 力を入れてもなかなか立てないから……四つん這いになってでも移動した。

 手が擦り切れようが、ズボンがどうなろうが関係ない。


 とにかく早く……行きたかった。


 ピクりとも動かなくて怖かった。

 綺麗な肌に付いている生々しい傷が……痛々しくて仕方がなかった。

 入院着のまま、裸足。

 雨に打たれて寒そうな姿に……心が締め付けられる。


 ようやく辿り着いても、その目は閉じたまま。指も足も動かない。


 それでも俺は……助けたかった。何とかしたかった。


『は……な……花……大丈夫か……花……花っ!』


 思いっきり叫んだ。

 とにかく大きな声で。

 そして無意識の内にその冷たい手を握っていた。


 反応して欲しかった。どんな些細な事でも良い。

 生きている証が欲しかった。感じたかった。


『花っ!』


 すると……少しだけ花の手が動いた気がした。

 その感触に、俺はもう1度花に問い掛ける。


『花? しっかりしろ花』


 その声に気付いたのかは分からない。ただ、確かに……その瞼が開いていくのが分かった。


『花……』


 ゆっくりと、けど確かに見開いていく瞼。そして……その視線は確かに自分へと向けられた。


 嬉しかった。

 安心した。


 それを口にしようとした時だった、花の唇がかすかに動く。


『ダメだ花。無理して話すな……』

『……めん……ね……た』


『ダメだって。無理……』

『ごめん……ね……』




『ひ……な……た……』




 それが俺が最後に聞いた……




 君の声だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る