⇒君は俺の心の中に,

 



 ≪私、嘘を……付いた≫


 その言葉を聞いてからどれ位経っただろう。

 電話を切ってから急ぐように出掛ける準備をしたのは覚えている。勿論、机の上の大切な袋も忘れずに。


 額にポツリと零れる冷たい滴。見る見るうちに降り注ぐそれを目の当たりにして、ようやく傘を忘れた事に気付いた。

 ただ、タイミング良く到着したバスのおかげでそこまで濡れる事はなく、俺は難なくバスへとの乗り込む。


 窓際の席に腰を下ろすと、強くなってきた雨が窓に打ち付けられる。それらに合わせるように稲光が姿を現し、豪快な音を響かせた。

 一瞬で変わってしまった空模様。

 瞬く間に荒れた天気。


 それはどこか似ていた。誰のとは言わない。けど思い当たる節は……あった。


 鼓動がハッキリと聞こえる。

 走って来た反動だろうか、それとも違う事が原因なのか……はたまたその両方か。

 それでも今は何の意味もない。とにかく俺は会いたかった。一刻も早くその顔を見たかった。


 何度も乗っているバスのはずなのに、今日に限ってはその進む速度は半分以下に思える。まるで遠回りでもしているかと疑いたくなる位に。

 そんな時間の中で、ふいに頭に過るのはさっきの電話だった。

 それは何度も何度も頭の中を……交差する。






 ≪もしもし? 日向君?≫


 少し前、知らない番号から掛かって来た電話の主は、最初誰だか分からなかった。その呼び方と声の感じから春さんっぽい気はしたけど、後に続いた言葉に少し戸惑いを感じたのも事実だった。


 ≪そうですけど……≫

 ≪……ごめんね?≫


 それでも、


 ≪私、嘘を……付いた≫


 その言葉で……確信した。


 ≪嘘って……はっ、春さんですよね? 嘘って何ですか。何の事ですか!≫

 ≪ごめんね? 今更……けど、私はもう隠し切れそうにない≫


 その声は、驚く程暗くて憔悴し切っていた。まるであの春さんとは到底思えない程に。

 そして隠し切れそうにない……その言葉が当てはまる人物を……俺は知っていた。


 ≪隠すって……まさか花の事ですか?≫

 ≪そう……花の事。私は日向君に嘘を付いた≫


 ≪なっ、何かあったんですか春さん! 花に何があったんですか!≫

 ≪ごめんなさい。隠していて……あのね? 今、花は……仙宗大学病院に……入院してる≫

 ≪えっ……≫


 入院。

 その言葉に驚いた。と同時に、その意味が分からなかった。

 一体なんで? なぜ? ちゃんと言葉になったのかは分からない。けど、必死に伝えようとした。


 そんな思いが通じたのか、暫くして春さんがゆっくりと声を零す。そして……教えてくれた。


 ≪2週間ほど前に、お義母さ……いえ、花のお婆ちゃんが亡くなったの≫



 それは想像以上に衝撃的だった。

 顔を合わせた時も、元気な様子でなんでもこなせる姿が印象的で、まさか? そんな言葉が喉から出かけた。けど、この状況で嘘なんて付ける訳がない。つまりそれは……本当の話。


 その日、朝早く起きてくるはずのお婆ちゃんがなかなか起きて来なかった。だから春さんが様子を見に行くと……そこには布団が乱れ、掻き毟った跡が残る冷たい姿があったそうだ。


 結果として、その不幸が……花を変えた。

 小さい頃から仲が良くて、テディベアの作り方も教わる位の関係。花にとってどれだけの存在だったのかは何となく理解出来る。

 その人が亡くなった。それも突然。


 昨日まで元気だったのに、目覚めるとそこには既に居なかった。

 その事実が、花にどれだけの傷を負わせたのか……それは俺自身にも垣間見えていた。

 そう、その日こそ……花が俺にメッセージを返してくれなくなった日だったのだから。


 その日から、花は部屋に籠るようになった。

 お葬式やらを済ませると、ご飯も余り食べなくなって……その変化は今まで見た事がない位で、それこそ症状を知った時以上だったそうだ。


 話し掛けても、返事はあるけど弱々しい。

 スマホは机に置きっぱなしで、既に充電すらなくなっていた。

 ただベッドの上で両ひざを抱えながら座っているだけ。


 だから春さん達は決めた。花を助ける為に決めた。……入院させる事を。


 もちろん、俺にも教えるべきかどうか悩んだそうだ。ただ、時期が時期。前から花に選手権予選が始まると聞いていて、その日程も覚えていた。間接的に、俺が最後の大会に賭ける思いも聞いていた。

 だから……言えなかった。


 俺と病院で行き会った時も、娘を心配してくれる事が嬉しくて言ってしまいそうだった。

 でも、まだ大事な試合が残ってる。この事実を伝えた事で、プレーに支障が出たら……それこそ娘の望んだ事を裏切ってしまう。


 そう考えると……言えなかった。

 申し訳ない気持ちになりながら……許して貰えないと覚悟しながら……口には出来なかった。


 でもそんな我慢も限界を迎え、俺に連絡してくれた。

 そして全てを……話してくれた。


 ≪ごめんね? 許して貰えないのは分かってる。でも……もう我慢が出来なかった。こんなにも花の事心配してくれてる日向君に、これ以上嘘なんてつけなかった≫

 ≪春さん……≫


 その全てを知った時、俺は何とも言えない感情に包まれていた。

 それは勿論、悲しみでも……嘘を付いていた春さんへの怒りでもなかった。


 ただ単純に……


 ≪話してくれてありがとうございます。本当にありがとうございます。でも最後に1ついいですか?≫

 ≪うん。何でも言って?≫


 ≪教えてください。花の……病室を≫


 花に会いに行きたい。それだけだった。






 どこか静まり返った院内。

 病室が並ぶ廊下を歩く俺の足音だけが妙に響いていた。


 ドアに記された病室の番号。それらが春さんから聞いた数字へと近付く度に、少しずつ足が重く感じる。


 早く会いたい。勿論その気持ちでいっぱいだった。

 けど、徐々に体を蝕んで行くのは……自分が見た事のない花の姿。


 嫌な予感がする。

 想像を絶する姿だったらどうしよう。


 希望と嬉しさ、最悪な状況が入り混じる中で、ついに俺は……その場所へと辿り着いた。


 春さんから聞いた番号。そしてその下に記された匙浜花の名前。

 間違いない。この中に、花は居る。


 ただ、その扉を開けるのには……時間が掛かった。

 本当に開けて良いのか? 早く開けろ。 本当に良いのか? 色んな事が頭を過る。そして何より、例えようのないショックを受け、規則正しい生活が困難になった花。そんな彼女は……



 ―――症状が悪化する事無く、過ごせているのだろうか―――



 それを確かめる、踏ん切りがなかなかつかない。

 ただ、そうなのかどうかは会って、見て……目の当たりにしなければ何とも言えない。


 俺は何度か深呼吸をした後……ついに意を決して、手に力を込める。

 そして、ゆっくりとそのドアを開けて行った。



 その先に広がるのは綺麗な病室。

 大きな窓に、手前にはシャワー室も設けられていた。その奥にはベッドが置かれている。少しだけ膨らみが見えて、花がそこに居るのは間違いなかった。


 俺はゆっくりと近付いて行く。

 そして、ついにその視界に……花を捉えた。


 ベッドの上、そこに……花は居た。上半身を起き上がらせて……そこに居た。

 けど、その雰囲気は……まるで違う。俺の知っている花じゃない。


 その長い髪は健在だった。

 けどその頬は少し痩せて、その目は……虚ろ。


 まるで別人のような花を目の前に……なかなか声が出なかった。それ以上前に進めなかった。


 そんな時、ゆっくりと花が俺の方を向いた。

 目が合った瞬間、思わず慌てるように声が零れる。


「よっ、よう花! 元気か?」


 焦るように、とっさに浮かばせた作り笑顔。

 いつもの花なら、一瞬驚いた表情を浮かばせた後、優しく微笑むはず。俺は心のどこかでそれを願った。それを望んだ。


 けど、それは……




「あの……どちら様でしょう?」




 叶わなかった。


 その言葉は一瞬にして耳を通り、頭を締め付ける。

 心臓が悲鳴を上げる位に握り潰されて、息が出来なくなりそうな程苦しくなる。


 嘘だと言って欲しかった。冗談だよって言って欲しかった。


 でも目の前の花は、じっと俺の目を見つめたままだった。虚ろな目で只々じっと……


 その姿は、とても嘘を付いているモノじゃなかった。

 冗談で装っているモノじゃなかった。


 紛れもない本心。


 それを理解しようとするたびに、あちこちが痛くて苦しい。

 胸から何かが込み上げて来て、目の周りが熱くなる。どうにかなってしまいそうだった。



 ……その感情を、俺は……俺は……



 両手を強く握り締めて……必死に耐えた。

 手が赤くなる位、爪が皮膚を傷つける位握り込んで……耐えた。


 そんな俺を見ても、表情1つ変えない花。それは俺の事を知らない……証拠。


 信じたくない現実。

 けど、受け入れなければいけない現実。

 ただ、そんな中でどこか……懐かしさを感じたのも事実だった。


 何も知らない? 何も分からない? 俺の事も……知らない?

 そう考えると、ふと……あの時の自分を思い出す。


 症状をいきなり言われて落ち込んだ。

 それでも何とか向き合おうともがいた。

 あの時の自分の姿。


 そして、出会った。

 第一印象は最悪だったけど、話す内にどんどん仲が良くなった。

 それだけじゃない。今までの経験を元に、取り組んでいる方法を全て教えてくれた。

 同じ症状で悩んでいるからこそ、共感もしてくれて、何でも話す事が出来た。

 自分の気持ちを理解してくれる大切な人物だった。


 その存在は大きい。俺にとって花は……かけがえのない存在だった。



 ……だったら……今度は俺がそのお礼をする番じゃないのか?



 俺が花にしてもらった事を、今度は俺がするべきなんじゃないのか?

 俺にとって、尊敬し憧れであり大切な存在だった花の様に。今度は花にとって、俺がそんな存在になれるように恩返しするべきなんじゃないのか?


 どう生きてたって、花に恩返しなんて出来たとは思えない。だったら……




 今度は俺が……花を支える。




 いつになるか分からない。でも……


「あっ……あぁ、ごめんごめん」


 いつか今までのように2人で笑いながら、話せるようになるその時を……目指して……






「俺は……君の……」





















 ふと瞼を開くと、まだ目の前はぼんやりとしてた。


 だが、まるで今までの全てを思い出すかのような感覚が頭に残り、不思議と何とも言えない心地良さに包まれていた。


 そして、その先にはいつものように君が居て、いつものような寝顔をしている。


 その姿に安心したのか、自然と笑みが零れてしまう。

 柔らかい日差しに照らされて、すやすやと眠るその表情。


 変わらない。あれからも……これからも……ずっと……ずっと……




 変わらない。











 ―――俺は君の隅に、君は俺の心の中に―――










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