最後の1秒まで,
薄暗い雲に覆われ肌に感じる冷たい風。
試合開始を目前に零れ落ちて来た雨の雫は優しく、そして次第にその姿を変えていった。
それはまるで自分の心を映しているかのように、ゆっくりと激しく……容赦なく降り注ぐ。
ユニフォーム姿の先輩達を送り出すのはもう慣れたはずだった。
試合開始とともにホイッスルが吹かれた瞬間、今までとは全く違う光景が目の前に広がっている事にも慣れたはずだった。
けど、今日に限って言えば感じた事のないような悲しさに包まれる。
感じた事のないような悔しさが体中に這いずり回る。
そして、
『あっ……わっ、わかった。ごめんね? うん……ごめんね』
感じた事のない後悔に……襲われる。
余りにも自分勝手。最低最悪な事を口にした自分。
それに気付いても、ただただその後ろ姿を見ている事しか出来なかった自分。
謝る事も、謝罪のメッセージさえ送られなかった自分。
一瞬だけ見せた彼女の寂しそうな表情が……忘れられない。
つい数時間前まで、目の前にはいつもの匙浜さんが居た。そんな姿を奪ったのは自分自身。
スタメンを外された事が恥ずかしかった。
試合に出られない事を知られたくなかった。
格好悪い自分の姿を見られたくなかった。
そんな自分勝手な感情で、今まで自分を応援してくれた……支えになってくれた人を傷付けた。
最悪な言葉で。
後悔したって遅いのは分かってる。
あんな事を言われて、試合なんか見に来る人なんて居る訳がない。
あぁ、初めてかもしれない。こんなにもサッカーの試合が……苦痛に感じるのは。
そんな自分の感情を無視するかのように、予定通り準々決勝は始まった。
午前中とはうって変わった予報外れの雨の中、ボールを追いかける両チーム。対戦相手の実力を考えると、いつも通りのプレーをすれば負ける可能性は低いはずだった。ところが、雨の影響かは分からないけど、前半を終えて0対0。この時点で、焦りを覚える先輩達は少なくなかった。
そして迎えた後半10分、ようやくゴールネットが揺らされた。欲しかった先制点に笑顔が零れる皆。だが対照的にそのピッチはどんどん悪化する一方だった。
こうなると、いつも以上に体力は消耗する。このままいけば、明日の準決勝の対戦相手は順当に行けば別会場で戦っている漆谷高校で間違いない。
そうなれば、いかに疲れを残さないかがカギとなる。それは監督も重々承知。後半残り25分、岡部と海斗、そして俺が呼ばれ……ピッチの中へと足を踏み入れた。
ウォーミングアップで体を動かしていたはずなのに、ピッチに入るとその熱は一瞬で奪われる。
ぬかるんだピッチにはパスの勢いも、足の踏ん張りもいつもとは勝手が異なる。そして何より、
「いいか? キツいだろうが、パスを繋いで時間を稼ごう。ミスなしでな」
そんな監督の指示が耳から離れない。
ミスしないように……
パスで繋いで……
時間稼ぎ……
淡々と、それを繰り返す。何度も何度も繰り返す。そして聞こえた試合終了のホイッスル。
その時、俺の心には……何の感情も浮かばなかった。
不意にスタンドに目を向けたけど、もちろん匙浜さんの姿はない。
振り続ける雨が……冷たいだけだった。
そして迎えた次の日。前日の雨が嘘のように太陽が顔を出して、絶好の天気が広がってた。
ピッチには少し芝が剥がれ掛かっている場所も見えるけど、それを含んでもコンディションはバッチリだった。それに乗じるように、先輩達の士気も高まる。
「絶対勝つぞ!」
「「おぉぉ!」」
先輩達も監督も……この一戦に賭ける思いは想像以上。それは分かっているつもりだった。それでも、昨日から続く沈んだ気持ちは簡単に治せるものじゃなかった。
結局、試合後もその夜も……匙浜さんにメッセージは送る事が出来なかった。謝る事すら出来なかった。そんな自分が腹正しくて、後悔の念が消える訳がない。
けど、時間は無常にも過ぎ去る。掛け声とともに、ピッチに走り出す先輩達を朧げに見つめながら……ついに準決勝、漆谷戦が幕を開けた。
王者の貫禄を見せるかのように、オーソドックスなスタイルの漆谷高校。それに対してこちらは全員守備のカウンター狙い。
試合序盤はいつもと違う動きに違和感を覚えたのか、珍しくミスをする漆谷高校。そんな中、最初にチャンスをつかんだのは俺達仙宗高野だった。シュートは惜しくも枠を捉えられなかったけど、このプレーに監督も先輩達も……自信を掴んだに違いない。
その後もしっかり守り、カウンターを狙う。一貫した作戦を貫いた結果、0対0のスコアで前半を折り返す事となった。
ハーフタイム中、チームの雰囲気は明るい。
「いけるぞ!」
「おう!」
「お前達、いい守備といいカウンターだった。このまま頼むぞ?」
「「はい!」」
完璧にハマった監督の指示と、それを実感した先輩達。それは明らかに……いつも以上の力を与えていた。
そして迎えた後半。俺達は……監督は……先輩達は……感じる事になる。
自信の裏に隠れて、刻一刻と近付いていた……悪魔の存在に。
後半に入ると、漆谷高校はより一層攻撃的になっていた。それもサイドチェンジを多用し、ディフェンスを揺さぶる動きが多く見られた。
そんな攻撃にもしっかり対応する先輩達。だが徐々に……バラつきが見られるようになる。
それは……疲れ。
前半は漆谷高校を抑えているという自信が、そのまま原動力となって体を突き動かしてくれた。だが、徐々に蓄積される疲労は、後半になる程その存在感を最悪な形で見せる。
ましてや完璧なチームディフェンスは、精神的な疲れを引き起こす。さらに執拗なサイドチェンジと、隙あらばドリブルを仕掛ける相手に、身体的な疲れも蓄積される。そうなると、どこかのタイミングで……
空いたスペースが出来てしまう。
スパッ
一瞬のスルーパス。そこに抜け出した漆谷のフォワード。
今までの努力が消え去るような先制点。誰もが唖然とし、膝に手を付く先輩の姿も見える。時計は後半15分、残り時間を考えると……体力が続くとは思えない。後半早々ウォーミングアップを指示されていた俺達にも分かる程に。
1度崩れた物を、元に戻すのは無理だ。それは失点した後のディフェンスを見れば一目瞭然。更に1点取らなければいけないというプレッシャーと疲れが重なり、ミスも増え悪循環に陥る。そして、
ピー
そのホイッスルの後に主審が指差したのはペナルティエリア。足が動かない中、必死にディフェンスをした結果の……ペナルティーキック。
こんな状況で、冷静になれるGKはそうそう居ないはずだ。ましてや高校生、勿論止めて欲しいと願ったけど……無情にも、ボールは再度ネットを揺らした。
これで0対2。
追い付くためには2点、勝つためには3点必要な状況。けど、ピッチ上には満身創痍な先輩達。前半から全力でプレーしてれば誰だってそうなるに決まってる。それに、この試合に臨む為の先輩達の努力を……知っている。そんな時、
「葵、鍔、岡部!」
突然呼ばれた名前。そして、
「勝つ為には……得点が必要だ。行ってこい」
まだ諦めていない監督の眼差しを受けて、俺達は……ピッチの中へと足を踏み入れる。とにかく点数が必要だった。残り時間を考えても、最初から全力で行くしかない。
ただ一直線に……ゴールに向かって。
視線の先には誰も居ないグラウンド。
本当に、つい数十分まで熱戦を繰り広げていた場所と同じなのか疑いたくなる程……そこは静まり返っていた。
所々に穴が開いたピッチを見る度、どれだけ本気で、力を振り絞り戦ってきたのか……その思いにまた胸が熱くなる。
ピッチに送り込まれた後、必死に動き回る。交代で入った俺達は素早くプレッシングに向かい、全員でゴールを奪いに行った。
そして、ボールを奪った俺は一目散にドリブルで駆け上がる。試合終盤って事もあって、流石の漆谷の選手にも疲れが見えていたから、イケるところまで行った。がむしゃらに、ディフェンスを抜いて……サイドを抉る。
この瞬間、俺の頭にはニアサイドに走り込む海斗のイメージが湧いていた。中学時代からのパターンで、どちらかがサイド深くまで侵入したら、反対サイドのどちらかがペナルティエリアに走り込む。守備的な人物のインナーラップは、相手を混乱させるのにうってつけだった。
それは感覚だった。ただ、自信もあった。そこにはニアサイドに走り込む海斗が居る。
そしてその奥には……駆け上がった岡部も居る。
だからこそ、俺は迷うことなく振り抜いた。そして強いグラウンダー気味のパスを送り出すと、体勢を崩しながらも、その行く先を見つめる。
すると、やっぱりそこには海斗が居た。タイミングはバッチリ、後は合わせるだけ……だが、その一瞬海斗と目が合う。そして浮かばせたのは不敵な笑み。
それは俺達の考えが一致した瞬間だった。
タイミングバッチリなボール。そのボールを海斗は……スルーした。それには海斗をマークしてたディフェンスも、キーパーも反応が出来ない。
まさかの行動。そのどちらも体勢を崩し、ボールはゴール前へと転がって行く。誰も邪魔する人は居ない。そんな絶好の瞬間、絶好の場所。そんなフリーの場所に走り込んだのは……仙宗高野のボランチ岡部。
そして思いっ切り振り抜いたボールは、気持ち良いネットの音を響かせる。
けど、これで終わりじゃない。ゴールを決めた岡部は、ボールを手に取りセンターサークルへ急いで戻る。
「まだだ!」
その顔を見たら、不思議と……笑ってた。
でも結局、反撃もそこまで。あと1点届かなかった。
「ふぅ……」
さっきとは違い、静まり返ったグラウンドを見つめながら……俺はさっきの試合を、控室での光景を思い出していた。
控室での監督と先輩達の涙。それを目にした瞬間、先輩達とはもうサッカー出来ないんだって事実が突きつけられる。
『俺達後悔してないですっ!』
そして胸に響いた、その言葉。後悔してない。果たして今の自分にそんな事言えるのか? そう考えると……頭に過ったのは匙浜さんの事だった。
自分で壊してしまった関係。
追い掛ける事が出来なかった後悔。
謝ったら匙浜さんは許してくれるんだろうか? いや、有り得ないだろ? 最低最悪な事を言ったんだぞ?
「はぁー」
思わず零れた溜め息は、誰も居ないスタジアムに響き渡る。思わぬ大きさに、少し恥ずかしさを感じた時だった、
「結構響いてるよ?」
不意に後ろから聞こえてきた声に、思わず振り返る。
聞き間違いじゃなかったら、その声は聞き覚えがあった。
まさか? いや、誰も居ない。居るはずがない。
そんな疑問が頭を過ったけど……視線の先には確かに人影があった。そしてその人物を目にした瞬間、その疑問は、確信へと変わった。
「えっ? なんで……」
突然の出来事に、しどろもどろな言葉しか出ない。でもそんな俺を見つめながら、その人はいつもと同じように話し掛けてくる。
「それはこの際どうでも良いよ。それより、この後時間……あるかな?」
「じっ、時間? 一体何……」
「あるよね?」
「あっ、あります」
その大人びた雰囲気と長い髪は、まさしく彼女だった。まぁどことなくいつもより……
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないかな?」
「つつ、付き合う?」
「いいよね?」
「いっ、いいです」
ちょっと怒ってそうな気がするけど……間違いない。
ここに居るのが信じられないけど、その姿は本物だった。本物の……
「じゃあ……行こう?」
「はっ、はい」
匙浜さんだった。
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