変わった日常、染み込んだ生活,

 



 時間というものは実に呆気なく過ぎ去る。

 不意にそんな事が頭に浮かんだのは、なんて事の無い土曜日の朝だった。バスの窓から差し込む日の光がどこか優しくて、その温かさが懐かしく感じる。


 ついこの間までは冷たい風が襲い掛かり、真っ白い雪が道路を覆って行く手を阻む。そんな辛さをまざまざと感じていたはずなのに……通り過ぎる景色にその面影は見られない。

 ましてや時折目に付く桜の木。そのピンクの花びらの間から姿を見せる緑色の葉っぱを目にする度に、それが現実のものだと実感する。


 気が付けば暦は5月に入る寸前。それすら意識しなければ分からない程……あっと言う間だった。裏を返せばそう思う程、何も無かったと言える。


 当たり前の高校生活。

 当たり前の部活動。

 当たり前の……通院。


 まぁ、良く思い出してみれば何もなかった訳ではない。

 3月には先輩達との別れがあったけど、近くの大学に進学する先輩が多くて……そこまで悲しい訳じゃなかった。むしろ先輩達には感謝の気持ちしか浮かばなかったっけ。


 4月には新しいクラス分けがあったけど、その半分以上は1年の時と同じクラスの奴らだったし、担任も遊馬先生。3年生ではクラス分けがないから卒業までメンバーは変わる事がない。まるっきり新しいクラスって訳でもないし、さほど気にはならなかった。


 部活の方も新1年生の加入で嬉しい反面、ポジション争いの火花が散らされている。けど、そんな雰囲気も嫌いじゃない。


 そして俺は今日もバスに揺られて仙宗大学病院へ向かっている。この長い坂道を越えると、もはや目の前に見えるはず。毎週土曜日の通院もかれこれ数十回には上るだろうか、その道中は通学路の次に見慣れた気さえする。


 こうして時間通りに病院へ到着すると、特に意識をせずとも体が動き出す。最短距離で自動受付機へ向かい診察券を挿入。受付票を取って、もの忘れ外来へ。通りすがりの看護師さん達に挨拶出来る位に顔も覚えた。そしてごく普通にフロアに足を踏み入れ、当たり前のように、


「おはよう。葵君」

「うん。おはよう」


 匙浜さんと挨拶を交わし隣に座る。そしていつも通り……何気ない会話がスタートする。

 いつからかは分からない。けど、こんなやり取りが普通になっていた。


 そして途中で名前が呼ばれ診察室へ。特段変わった事のない時の診察は早いもので、ものの5分で終わる事もある。だが、だからと言って友上先生が手を抜いている訳でもない。ちょっと寝不足気味で診察を受けた時には、普通を装っていたにも関わらず見抜かれてしまった。


『葵君? 言ったよね? 寝不足はダメだよ。もし良かったら理由を聞かせてくれないかな?』


 深夜にサッカーを見ていただけとはいえ、先生のいつもの優しい表情には只ならぬ圧を感じたっけ。それ以来、少しでも気になる事があったら先生には言うようにしてる。でも、ここ数ヶ月は本当に何1つ思い当たる節はなかった。だからこそ、今日の診断も5分と掛からず終了。


 そのまま診察室を後にすると、さっきの席には…………誰も座ってはいなかった。

 ガランとした3人掛けの椅子。とはいえ、ある意味これも見慣れた光景の1つ。特に寂しい気持ちに襲われる事もなく、俺は1人外来を後にした。

 そして程なくして病院のロビーに差し掛かると、いつもの端っこの席に影を見つける。それは一足先に薬袋を手にした匙浜さんの姿だった。


 診察の時間上、匙浜さんの方が薬の受け渡しは早い。だから俺が診察に呼ばれたら匙浜さんはここに来て薬を受け取る。それがいつものパターンらしい。俺の診察前に話をする事もあるけど、会話の殆どは診察終わりのこのロビーだった。

 前よりも1本遅いバスで帰るようになった匙浜さん。時間的には30分位だろうか。その間にお互いの話をするのが、いつからか当たり前のようになっていた。


 30分。

 長いようで短い……そんな時間を今まで何度も繰り返す中で、匙浜さんの色々な事を知ったし、俺の事も色々話した。

 そして必ず1週間の出来事をお互いに話す事が当然のようになったっけ。まるで宿題のように、記憶が消えていない事を確認するかのように。


 こうして今日も例外ではなく、その何気ない会話は始まる。


「そういえば葵君は桜まつり行った?」

「桜まつり……いや、行ってないな」


「そうなの? 今年も綺麗だったよ」

「そうか……言われてみればここ数年行ってないな」


「ここ数年!? もしかして部活忙しくて?」

「……基本的にサッカーの事しか考えてないのかも」

「なるほどなるほど……」


 なんて話していると、匙浜さんが徐に鞄の中から手帳を取り出して何やら書き始める。そんな行動も最初は驚いたけど、慣れればどうって事ない。それにこの行動こそ、彼女なりの症状との付き合い方の1つでもある。

 その証拠に、横目にチラっと見えた1ページは、相変わらず文字でビッチリ埋め尽くされていた。



 話をする度にしきりに何かを書いているのは気になっていた。でも、その理由はなんとなく聞けずにいた。そんな時、偶然目に入った手帳の1ページ。思わず零れた、


『すっ、凄い……』


 って本音。

 もちろんすぐに、他人の手帳の中身を見てしまったと焦ったけど、当の本人は……


『凄いかな? なんかね、癖になっちゃって』


 そう言いながらいつもの笑みを浮かべていた。そしてゆっくりと話してくれたんだ。


 自分が見た事、聞いた事。その全てを忘れないようにメモしてる事。

 服薬や健康的な毎日を過ごすだけじゃない。もしもの為に記録する。それが私なりの……付き合い方。


 俺も大事な事を手帳に書き留めたり、スマホに残したりしていた。けど、彼女のそれは自分の想像を遥かに超えるものだった。


 そのメモを見ながら、毎日の日記も欠かさず書く。

 そして朝起きたら手帳と一緒に読み返す。

 それを毎朝、毎日繰り返す。

 そう……数えるだけで3年近く。


『忘れるのが怖いんだ。それに皆に心配させたくないし。保険の保険を掛けたい位に臆病者なだけ』


 なんて匙浜さんは卑下していたけど、そうとは思えなかった。

 そして何より、


『でもね? どうせなら今日の自分はこれだけ色々な事を知れて、幸せな1日を過ごしたんだよ? って明日の自分に自慢したいじゃない。そしてそんな日記を読み返して、だったら今日はもっと色んな事知って、昨日よりも幸せな1日にしてみせるって思えたら……その日がもっと楽しくならないかな?』


 その言葉を聞いた瞬間、俺にとって匙浜さんは、同じ症状で悩む仲間ではなく、憧れであり見習わなければいけない……尊敬の対象へと変わっていた。


 それから俺も日記をつけるようになった。なるべく手帳を持ち歩いてメモを取るようになった。けど改めて匙浜さんの手帳を見ると……そのレベルの違いを思い知らされる。



「あのね葵君?」


 なんてしみじみ考えていると、俺の情報を書き終えたであろう匙浜さんから不意に声を掛けられた。


「なに?」

「私ね、葵君と知り合う前はそこまでサッカーって詳しくなかったんだ」


「まぁ興味ない人は興味ないだろうし。仕方ないよ」

「でもね? サッカーの話してる葵君、凄く楽しそうだし……そこまで葵君を夢中にさせるスポーツとは? って事で色々とルールとか勉強してみたの」


「べっ、勉強? いや、わざわざそんな……」

「そうしたらね? オフサイドとかなかなか複雑なルールもあって、面白いなって思うようになって」


「面白い……?」

「そうそう。それで……確か葵君、今度練習試合あるって言ってたよね?」


 練習試合は……来週の日曜日ある。その話は確かに先々週辺りに匙浜さんに言った気はする。


「来週の日曜日だね」

「本とか映像で見るより、やっぱり生で見た方が良いと思うんだ」


「ん? 生?」

「だからね? 葵君……見に行っても良いかな?」

「えっ? それって……」


 初めて話をしてから数ヶ月。それなりに仲も良くはなったはずだった。でもそれはあくまで病院の中での話。仙宗市と石島市。距離も離れた場所に住む同士、病院以外ではその接点はまるでなかった。

 だからこそ、俺が焦るのも無理はない。なぜなら、匙浜さんの言う事が想像通りなら……


「その練習試合。私、見に行ってもいい?」

「えっ……えぇ!?」


 つまりは……俺と匙浜さんが、病院以外で初めて会う。

 そういう事なのだから。



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