匙浜 花,
「葵君?」
「はっ、はい」
突然耳に入り込んだ友上先生の声。少し焦り気味に顔を上げると、そこはいつもの診察室だった。
「大丈夫かい? 今日はどこか上の空な気がするけど」
「だっ、大丈夫です」
大丈夫なはずはなかった。頭の中はある1つの事で一杯で、未だに動揺を隠せずにいる。ついさっき病院の入り口で対面してしまった奴の姿は、それ位印象的で……絶望的だった。
そんな中、よく足早にあの場を後に出来たものだと感心する。
こうして冷静に考えると、もし立ち止まって居たら? 足がすくんで動けなかったら? 最悪の事態が頭を過り、何とも言えない感情が体の中を駆け巡っていた。
「ふふっ、葵君? 言ったよね? 言いたい事があるなら何でも言ってって。僕もまだこの仕事について長いとは言えないけど、流石にいつもと様子が違うのは分かるよ」
「そっ、それは……」
「精神的な不安が直接症状に影響するかは分からない。でも、それが原因で僕達が目指してる規則正しい生活が崩れる可能性は十分にある。最初に君が口にしたサッカーの不安も、少なからずそういう傾向を作り出していた訳だし」
先生の言う事はごもっともだ。症状を自覚してから最初に訪れた時、先生に聞かれたのが、
『最近、精神的・身体的に困っている事や疲れている事はないかな?』
確かに、母さんに連れられて来た時は色々とサッカーの事で悩んではいた。そしてそれを伝えると、先生は黙って話を聞いてくれて……最後に同じ事を言っていたんだ。
そんな事を思い出すと、流石に……大丈夫なんて言えない。
「ごめんごめん、少し言い過ぎたかな? 言いたい事を言うのと、言わされるのじゃ全然違うもんね。ただ、思い詰めないでね?」
なかなか声が出せない俺を見てか先生はすかさずフォローする。もちろんそれは、何度診察を受けても変わる事がない先生の優しさだった。
それを感じた瞬間に浮かんで来たのは、もしかすると先生ならいい方法を知っているのかもしれない。一体どうしたらいいのか教えてくれるかもしれない。そんな……希望。
だから俺は、意を決して口にしたんだ。
「あの……先生? ……教えて欲しいんです」
「うん? なんだい?」
「人との接し方について」
奴の事について。
初対面でいきなり傷付く事を言われた。そのせいで少しトラウマ気味になってしまったけど、この前バッタリ会ってしまった。とっさに逃げてしまったけど、自分でもどう接するのが正解か分からなくて……気になっている。
姿や出会った場所なんかは濁したけど、自分の抱えている悩みは十分吐き出せた気がした。
「なるほどなるほど。初対面だったんだよね?」
「そうですね」
「それなのにトラウマになるような事を言われて、ついこの間その相手とバッタリ遭遇。無視する形になった……と。ちなみに葵君? その言われた言葉っていうのはどんなものだったのかな。あっ、辛いなら無理しなくても大丈夫だから」
「えっと、良かったね……です」
「良かったね? 一般的には悪意とは真逆なイメージだけど……」
「あの状況なら悪意以外の何ものにも感じられなかったです」
「あの状況……つまりは普通じゃない状況って事か。その人とはそれ以来話してないんだよね?」
「話してないです」
「なるほど、それだと悩むのは当たり前だよ。んーそうだな……あくまで客観的にしか見れないけど良いかな?」
「おっ、お願いします」
「結論から言うと、もう1度その人と話してみた方が良いんじゃないかな?」
「話す……」
そう言って、より一層笑顔を見せる先生。もちろん心のどこかで先生ならそう口にするんじゃないかとは思っていたけど、いざ言われると少なからずガッカリ感に襲われた。
「さっきも言ったけど、葵君が言われた良かったねって言葉は、一般的には好意的な言葉。それを悪意だと捉えるって事は相当特殊な状況だったんだと思うよ。でもね? どうしても初対面の人がいきなりそんな事言うのは……考え辛いんだ」
「けど……」
あの表情は本気だった。最初から俺が
そう口にしようかどうか迷っていると、
「まぁ可能性の話だけど、葵君が知らなくても相手の方は君の事を知っているのかもしれないね。身に覚えはあるかな?」
「いっ、いえ」
「じゃあやっぱりそこも含めて、ちゃんと聞いた方が良いんじゃないかな? 葵君はその人の事を何も知らない。知らないままどうしようか悩んでいても仕方ないよ。それにもし自分に何かしらの恨みがあるとしても、そのトラウマになるような事を言われた原因が分かるのと、分からず悩んでいるのとじゃ随分精神的に違ってくると思うな」
「そっ、それは……」
ごく当たり前の正論を言われ、喉から出かかっていた言葉はすっかり引っ込んでしまった。
「もし本当に葵君に原因があるなら、それを解決出来るように行動すればいい。本当にただ単純に悪意を込めてその言葉を言ったのなら、面と向かって拒否すればいい。でも今の葵君はそれすら判断が難しい状況なんじゃないかな? だからこそ、もう1度その人と話してみた方が良いと思う。それに日本語っていうのは難しいからねぇ。本人がその気じゃなくても、受け手によってはチグハグな捉え方が起こる場合もある。僕達人間はそこまで優れてはいないんだ。何度も会話して、何度も喧嘩して……そうしてやっと分かり合える生物なんだよ」
「そう……ですよね」
先生の言う事は間違っていない。奴と言葉を交わしたのはあの瞬間だけで、奴がどんな人物なのか……イメージはあの時のままだ。
けどそれじゃ何も変わらない。変われない。奴の姿を見る度に緊張して、どうしようか心の中で迷い続ける。そんな事を考え続けるのは、想像するだけで辛くて怖い。
ただ……どうしても奴の顔を見ると逃げてしまう。あの光景と、あの言葉が蘇ってくる。
けど、もし先生の言うように俺の捉え方が間違っていたら? あの時、あの瞬間自分がいつも通りだったとは思えない。
なら尚更……理由があるにしろ無いにしろ本人と話すしか方法はないのかもしれない。このモヤモヤした何かと、トラウマに似た何かを消し去るには。
そう思わせる程、先生の言葉は説得力があって……温かかった。
「それに第一印象最悪だった人達の方が、結局馬が合ったりするしね?」
「先生、それだけは……無いと思います」
なんて事を言いながら、今日の診察を終えた俺は少し笑みを浮かばせて診察室を後にした。
だが、1人で廊下を歩いていると、実際目の前に現れたら予定通りに話せるのか、逃げないで居られるのか……そう考える度に断言だけは出来なかった。
とりあえず、シミュレーションでもしておいた方が良いのかもしれない。
奴がお見舞いに来ない可能性もあるけど、まずもの忘れ外来に行く。
奴が座ってる。けど、気にしない。……そうか、奴が話し掛けて来たら反応すれば良いのか。わざわざこっちから突っ掛かって行く必要はない。よしよし良いぞ。
頭の中で必死に考えを浮かばせながら、自動会計機にお金を入れる。そして出てきたお釣りを財布にしまうと、病院の入り口までゆっくりと足を進めた。
うん。奴が俺に気付く、そして近付いて来る。この第一声が重要なんだよなぁ。なんて言うか? 何だ?
相手の一言。それが何か、それに対して言おうか……たぶん周りの人から見たらブツブツ独り言を言ってるヤバイ奴だったと思う。でも、そんなの気にならない位に、その時は集中してたんだ。
そう言えば奴は朝になんて言ってた? 確か……
その瞬間が、目前に迫っているとも知らずに。
「あっ!」
それは一瞬だった。突然の声に反射的に顔を上げた俺。そしてその視界に入ったのは、
「はっ……」
見覚えのある長い髪の毛、見覚えのある制服。見覚えのある顔。待合室に座っている奴の姿だった。
その瞬間、足が震える。頭が真っ白になる。
さっきまで考えていたシミュレーションなんて、どっか旅行に行ってしまった。それでも、
「あっ、あの!」
そう言って立ち上がり、こっちに近付いて来る奴の行動に辛うじて頭のどこかが反応してくれた。
まずい。こっち来るぞ! それよりなんでここに? いやいや、それよりどうする。逃げるか。……逃げる? それだとさっき先生に言われた事も、行動に移そうとした事もふいにする。
そんな思考が徐々に脳内に届いたのか、とりあえず我を失う事だけは避けられた。そして、
何とか落ち着こう。逃げたら終わらない。逃げたら終わらない。逃げたら終わらない。
その言葉を呪文のように繰り返して、一筋の考えに辿り着く。
……相手の出方を見て、どんな奴なのか、本性はどうなのか。後はあの言葉の意味を……ちゃんと聞こう。
「はっ、はい?」
それはやっとの事で出た掠れ声だった。それでも自分にとっては大きな一歩に違いない。そんな自信を噛み締めて、俺は奴の第一声に備えたはずなのに……
「この前はその……すいません」
その予想外の言葉に、少し気が緩む。
「えっと……この前って……」
「前にお話した時の事です。私その……失礼な事言っちゃって!」
そう言いながら何度も謝る奴。その姿に、もしかして本当に勘違いだったのか? なんて気持ちも浮かんで来たけど、それに被るように浮かんで来たあの時の光景。
いや、これだけで信じるのは良くない。上げて上げて一気に落とす手なのかもしれない。とりあえず見極めを……
「そういえば……」
「ごめんなさい。でも私嬉しくって……って違うんです。嬉しいってそういう意味じゃなくて……あぁ日本語って難しいなぁ」
しようとする俺を凌駕する奴の行動は、正直驚いた。
「えっと……」
「ちっ、違うんですよ? あの良かったねってのも違うんです。でも怒らせちゃってどうしようって……姿見掛けたら謝ろうと思ったんですけど、全然行き会わないし……」
「あっ、謝る?」
「そうです。あぁもう、本当にごめんなさい。良かったねって言うのもあなたに会えたのが嬉しいってのも嘘じゃないんです! 本当の事なんです。あっ、違う違う! 決してそういう症状だからとかあなたの健康状態を馬鹿にしてるって事じゃなくて……」
なんというか、人が動揺している姿を見ると自分は冷静になる。誰かがそんな事を言っていたような気がした。
そして、それをまざまざと感じている自分が居る。とにかく、落ち着いてくれないと話もままならない。どうしたものか……
「えっと、ちょっと良い?」
「あっ、すいません! うるさいですよね?」
「それはそうだけど、とりあえず落ち着こうよ。君の事全然知らないし」
「はっ、そういえば…………失礼しました。名乗りもせずごめんなさい」
「いや、そこまでかしこまらなくても」
「いえいえ、挨拶は相手の第一印象を図る物差しですから。これだけは譲れません」
その瞬間、一瞬で顔が凛々しくなる奴。その代り映えには良い意味でゾクッとした。
「改めまして、私は
「あなたと同じ……軽度認知障害を患っています」
そう呟くと、さっと鞄から診察券を取り出す彼女。そこに書かれていた匙浜花の名前。
この日、この時、この瞬間。目の前に佇む女の子は、正体不明の不気味な奴から話の出来るごく普通な女の子に……
変わった。
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