まるで逃げるように,

 



 いつものようにアラームが鳴り、いつものように目を覚ます。

 いつものようにカーテンを開けて、目の前に広がるのはいつものような青空。

 それは何でもない1日の始まりだった。そう、ごく普通の月曜日。


 目覚めも良いし、体の調子も良い。むしろ良過ぎる位。けど、何気なく視線を向けた机の上に……置かれている真っ白い薬袋。それを見た瞬間、紛れもなくあれは現実だったんだと思い知らされる。


 病院へ行った事、先生に会って診断を受けた事。

 自分が病気であるという事。


 明確にその症状が表れている自覚はない。今日の日付も曜日も……すぐに浮かんでくる。ただ、それでも忘れちゃいけない。それは不意に現れるのだから。だとしたら受け止めなければいけない、それを感じた家族や友達、周りの人達の……素直な反応を。


 それが、俺の歩みべき道なのだから。



 心の中ではそう思いつつも、やはり早々に割り切る事は難しい。そういう行動をしてしまうんじゃないか、そういう予兆を知られてしまうんじゃないか。そんな不安を何処かに感じていたのは事実だった。

 幸い、1週間ぶりに会ったクラスメイト達は心配……というより、笑顔でイジるような雰囲気で迎えてくれた。下手に心配されるよりは大分楽に感じたけど、それと同時に皆には絶対に病気を知られたくない……そんな気持ちが強くなった。


 そして遊馬先生。先生は俺の病気の事を知ってる数少ない人だ。熱血教師にありがちな、皆に知ってもらって皆で励ましましょう的な方向に持って行かないか心配ではあった。けど、


「よっし、じゃあホームルーム終わり! あっ、そうだ葵。休み時間ちょっと指導室まで来てくれ」

「指導室ですか?」

「おっ? 先生、葵を指導室に連れ込んで何する気ですかぁ?」


「何って……あんな事やこんな事に決まってんだろ?」

「「うおぉ?」」


「って、何がうおぉなんだよ。インフルで休んでたから、色々聞かなきゃいけないし色々決めないといけないだろ? 授業の遅れとか。だから良いな? 葵」

「はい」


 いつものような雰囲気と接し方に、その心配はほとんど消えていた。




 ガラガラ


「来たか葵。……悪いな、あんな誘い方して。とりあえずいつも通りにしとかないとな? あいつらに勘ずかれない為にも」

「いえ、ありがとうございます」

「それで、今後の事なんだが……お前はどうしたい?」


 いつになく真剣な表情を浮かべる先生。いつもとはまるで違う様子には少し戸惑いを隠せなかった。それでもとにかく俺の話に耳を傾けて、俺の希望に頷いてくれたのは嬉しくて仕方ない。

 クラスメイトには絶対に知られたくない。他の生徒にも知られたくはない。今まで通りの生活がしたいし、今まで通りに接してほしい。部活も今まで通り続けたい。けど校長先生はともかく、他の先生方にも知られたくない。サッカー部のコーチはもちろん監督にも。


「そうか分かった。生徒には漏れないようにしよう。けど先生方にも知られたくないってのは、私じゃどうにも出来ない。もちろん校長先生には葵の気持ちを尊重してもらうように話してみる」

「はい、ありがとうございます」


「それでもサッカー部監督の山田先生には極力耳に入らないように努力はするよ。あれだろ? 病気の事で他の生徒と差を付けて欲しくないって事だろ?」

「山田先生がこんな事で贔屓をするとは思えませんけど……」

「先生であり監督であっても人だからな。……ったく、お前は本当にバカ正直な奴だよ」


 病気の事は極力伏せて、今まで通りの高校生活を送る。そんな俺の希望を、先生は受け入れてくれた。ただ、今までと変わらない接し方をするからには、忘れ物や病気の症状らしきものが出ても公に庇う事は出来ない。そしてどうしても限界だと思ったら、人前であっても躊躇なく助ける。

 それだけは念押しされた。もちろん断る理由なんてない。



 そして部活。インフルエンザだったという体で遊馬先生が伝えていた事もあってか、久しぶりにグラウンドに見せた姿に誰からも怪しまれるような事はなかった。まぁ診断書の提出なんかもあるらしいけど、その有無も特に言われない辺り、遊馬先生と校長先生のおかげなんだと思う。


 心配されたり、イジられたり……いつもと変わらないサッカー部がそこにはあった。けど、前とは決定的に違う事がある。それは3年生の引退。準決勝で漆谷高校と試合をし、PK戦の末負けた。それは久しぶりに電源を付けたスマホで、海斗に連絡した時に聞いた事だった。もちろん、今後の練習の為にグラウンドに来ている3年生の姿も見える。でも、いない人もいる。

 その光景は選手権が終わったと……改めて実感させるものだった。


 そんな中、俺は監督のもとへと足を運んだ。インフルエンザになった事や、迷惑をかけて先輩達の応援にすら顔を出せなかった事に対する謝罪は、理由がどうであれ必要だと思ったからだ。

 そしてもう1つ大事な事……毎週土曜の午前中は部活に遅れる事への許可も……欲しかった。

 口にするのは緊張した。おそらく声も震えていた気がする。そんな俺を真っすぐ見つめる監督……その反応は意外なものだった。


「お前は焦り過ぎた。だからゆっくり休めって事なんだよ。癖になりやすい怪我だってのも、勿論理解してる。葵、今度はお前たちの時代だ……頼んだぞ?」


 その言葉に心が熱くなり、真っすぐ見つめる監督の表情が嬉しかった。だからこそ感謝した。だからこそ、必死に病気の事が口から零れないように我慢して……頭を下げる。


「俺……がんばります!」



 ――――――――――――



 こうして俺の新しい生活が始まった。

 協力的な先生がいて、理解のある部活の監督が居て……その状況を受け入れてくれる家族。全てが整っている環境に身を置く事が出来き、なんら今までと同じような生活を送られる俺は、やっぱり運が良かったと言わざるを得なかった。


 けど、そんないつも通りの生活の中でも病気の影が無くなる訳じゃない。人の話は以前より集中して聞くようにした。

 朝起きたら必ず日付を確認して、新聞やテレビでニュースや大きな出来事を確認するようにした。

 友達との約束や部活の日程は、必ずメモして残せるように手帳も買った。もちろん友上先生の言う通り規則正しい生活を心掛けて、薬も毎日服薬した。


 そして毎週欠かさず通院。けど、この通院だけは……少し苦手というか、足が重たい。先生と会うのが嫌とかそういう訳じゃないんだけど……


「うっ……また居た……」


 そう、通院するたびに必ず待合室に奴が居たんだ。長い髪に制服姿、その容姿とは裏腹に酷い本性を持ち合わせた……奴が。


 次の週もその次の週も、必ず俺が行くと椅子に座っている。そして見計らったかのように立ち上がると、階段とは真逆の廊下の方へ歩いて行く。それが毎週続くとなるとさすがに足も重くなり、ましてや奴にいつ気付かれるかという不安が大きく募り始めて……その行動に徐々に目を光らせるようになった。


 よくよく院内の案内図で調べてみると、奴が向かう廊下にあるのは病室ではなく検査室のようだ。そしてその先は病院の本棟と繋がっている。

 つまり、いつものように病院へ来て受付を済ませて、本棟の2階から渡り廊下でもの忘れ外来に来ていたら……かならず鉢合わせしていたという事だ。

 そう考えるだけで寒気が止まらなかった。そして心に決めたんだ。絶対1階の渡り廊下を使おうと。


 そんな警戒心もあってか、受診の時ばったり遭遇なんて事はなかった。もちろん、待合室には必ずその姿を見つけたけど、あっちが気付く事もなかった。

 いつになるか分からない。奴の家族か知り合いが退院するまでの辛抱だ。そう思いつつ、毎週の通院は忘れなかった。

 そして気が付けば、風が肌に突き刺さるような冷たさを感じるような……季節を迎えていた。





 マフラーと手袋が欠かせない時期になっても、毎週土曜日にやるべき事は変わらない。

 だが、バスの窓から見える曇天の空と、降り注ぐ雪。今の時期にしては珍しく積雪の見られる景色は……その違いをまざまざと見せつける。


 雪が降る事はある。けど根雪となって積もるのはここ数十年は1月に入ってからだった。予想外れの降雪は珍しい光景を見せてくれている。その分、バスの到着時間も大幅に遅らせてくれたけど。


 雪による渋滞。そのおかげでいつも乗っている時間のバスも大幅に遅れを取っている。もちろん予約の時間を過ぎる事もほぼほぼ決定だろう。バスに乗る前に念の為、病院へ連絡しておいて正解だった。

 そうして雪模様の中、病院へ到着した時にはいつもより1時間以上遅れていた。こればっかりは仕方がない。それに連絡もしたし……と足早に病院の入り口へ足を進めた。そして服に着いた雪を払い、最後にズボンの雪を払い終えて顔を上げた瞬間だった


「あっ」


 不意に聞こえてきた声。目の前に佇む誰か。

 その姿を見た瞬間、寒かった体に追い打ちをかけるように寒気が走る。その顔を見た瞬間にあの時の光景が蘇る。


 長い髪、コートの下から覗かせる見覚えのある制服。そして、


 『良かったね』


 その言葉。


 顔を認識した瞬間、なんでここに居るのか……そんな事はどうでも良かった。とにかく逃げなきゃ! そんな考えで頭が一杯だった。


 逃げろ逃げろ!

 俺は奴を無視するように、急ぎ足でその横を通り過ぎた。


「あっ、あの……」


 奴が何かを言い駆けていた気がしたけど、そんなのどうでも良い。とにかく逃げろ、距離を離せ、耳を貸すな。



 ただそれだけを心の中で繰り返していた。



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