出戻り,

 



 青空と窓から差し込む日の光。

 まさにそれはサッカーをするに最高の天気だった。


 でも、俺が居るのはグラウンドじゃない。母さんの運転する車の中。

 あれ……なんで車に乗ってるんだ……

 ぼんやりとそんな疑問が頭を過る中で、しばらくすると滲むように浮かんできたのは……数回のやり取り。




『なっ、なぁ。教えてくれよ。今日って何月……何日……何曜……日……なんだ?』


 それは自分でもおかしいと分かる質問。それは母さんも同じみたいで、


『なっ、何言ってんの? 10月17日の土曜日でしょ?』


 一瞬驚いた様子だったけど、すぐに呆れたように答えた。

 けれど、それを聞いても何も感じない。何とも思わない。だから……聞いたんだ。


『今日ってさ、選手権の決勝トーナメントな訳……ないよな?』


 その言葉に、表情が強張る母さん。そしてそれからの記憶は……一切ない。




 あぁ、そうだ。それで気付いたら車の後ろ乗ってたんだっけ。 

 ぽっかりと記憶の中に開いた穴。普通ならそれを思い出そうと必死になるのかもしれない。

 けど、どうしてもそんな気になれない。ならないと言った方がいいのか。いや、正直どちらでもない。


 そんな事どうでもよくなる位、絶望したのを思い出したのだから。

 そんな事どうでもよくなる位、虚脱感に見舞われたのを思い出したんだから。


 皆で目標にしていた選手権出場。

 間に合わせようと努力した選手権決勝トーナメント。

 大好きなサッカーの事。


 それらを忘れていた自分に対して。


「ふっ」


 思わず口から零れた力ない声。無意識に浮かべる乾いた笑顔。

 今の俺を表すのには実にぴったりで仕方ない。


 とはいえ、何で車に乗っているのか、何処へ向かっているのか。それ位は気になる。外の風景を見る限り試合会場ではないのは確かだ。

 もしかすれば俺に話していたのかもしれないけど、それすら記憶にはない。ただ、ちゃんと着替えはしてる所を見ると、俺も了承したんだろう。


「なぁ母さん」

「んー?」

「どこに行くんだ?」


 おもむろに運転席に座る母さんに声を掛けると、その反応は至っていつも通りだった。その……言葉以外は。


「病院」


 病院? その言葉には一瞬引っかかるものがあった。ただ、すぐに納得させられる。


 ……そりゃいきなり、今日何月何日何曜日かなんて聞かれたら焦るか。いやそれより……怪我してからずっと、大事だって口にしてたサッカーの試合の事忘れてたからか?


 自分でも驚いた。けど結果としてすっかり忘れていた。

 でも、だからって病院かぁ。なんか俺、物凄くヤバい状態になってるって思われてないか。別に体は何の問題もないし……心配し過ぎじゃね? 

 でもまぁ今日は皆の所行ける気しないし、診察してもらって何かしらの薬飲めば体も安心するかも。


 じゃあ明日はどうだ。今日の試合は勝てるだろ。……明日? そもそも行ってもいいのか? ……ダメだろ。  

 何が絶対に間に合わせるだよ。それどころか大事な大会すら忘れてるなんて……監督にもコーチにも皆にも会わせる顔がない。


 ん? 皆? あっ、そういえばいくら顔見れないって言っても、海斗や岡部達には迷惑掛けた。それはちゃんと謝らないと……

 そう思いスマホを探したけれど、何処のポケットにも入っていない。もちろん座席にも転がってなんかいなかった。


 あぁ、忘れて来たか。最悪。でも海斗の番号は覚えてるから……母さんから借りるか。


「そっか。あっ、母さん。スマホ貸してくれない?」

「スマホ? どうして?」


「いや、海斗に連絡しないと」

「それならしたよ。アンタのスマホで」


「はっ? マジか」

「とりあえず朝様子見たら汗だくで、焼けるように体熱かった。もし風邪で皆に移すとまずいから今日休ませる……ってね」


 風邪? ……いや、かなり助かったよ。


「そうだったのか。サンキュ。それで俺のスマホは?」

「机の上に置いてたでしょ?」

「……なるほど」


 母さんのナイスプレーで、ドタキャン野郎のレッテルは免れたようだ。そして机の上にあったであろうスマホ。手に取った記憶がない以上今もそこに置かれているんだろう。

 それでもとりあえず2つの事に関しては安心を得られた。あとは病院へ行って……適当に診察を受けるだけ。


 ……あぁ、早く帰りたいな。




 そんな事を考えながらしばらく車に揺られると、ゆっくりとその動きが止まる。おそらく目的の場所に付いたんだろう。俺は怠い体を動かし、地面に足を付けた。

 そして目の前にそびえる建物に目を向けると、それはどこか見覚えのある場所。


 あぁ、病院って仙宗大学病院か。

 あの怪我をして、コーチ達に連れられて来た場所。ここ数ヶ月、リハビリする為に何度も来た場所。一気に馴染みを感じるようになったからこそ、意識しなくても勝手に入り口に向かって足は動く。


 中に入ると見慣れた内装と、見慣れたロビーが広がっている。そしていつものように受付へ行くと、なぜか問診票を渡された。


 お名前。病院の紹介。……最初ここに来た時に書いたよな?

 そんな事を考えながらも、とりあえず埋めていく。そして全て書き終えると、隣に居た母さんがそれを手に取って受付に向かった。

 そして何やら話をした後、俺の方を振り返って手招きをし……歩き出す。その方向はいつもと逆方向。

 今日に限って向かった先は……知らない場所だった。



 心療内科? 精神科?

 いつもリハビリをしていた場所とは真逆。長い廊下の先で目にしたその文字は見慣れないものだった。

 ただ、知識として覚えているのはその名の通り心の病を治す場所だという事。


 こりゃ大層な所受診させるなぁ、母さん。別にストレスとか感じてないんだけど?

 勿論、心の病やストレスなんかに思い当たる節は無い。けど、とりあえずは母さんの後に付いて行き、椅子に座って順番を待っていると……意外と早く名前が呼ばれた。立ち上がって看護師さんの所へ行くと、案内されたのは診察室。


 そこに居たのは見た瞬間ベテランと分かる……優しそうな先生。

 その風貌の通り、口調も柔らかい。そして診察……と言って良いのか分からないけど、それからしばらく世間話をした。昨日食べた物。一昨日の晩ご飯の事。最近気になったニュースや、サッカーの事。そして時折母さんに話を振ると、何やらメモを取るの繰り返し。


 その後俺だけ先に診察室を出され、母さんと先生は何やら話しているようだったけど、正直興味はなかった。ただ、これでやっと帰れる……それだけで頭が一杯だったんだ。


 そしてしばらくすると母さんが姿を現し、俺の所に来てこう口にしたんだ。


「あともう1カ所行く所がある」

「はぁ? まだ?」

「いいから。付いて来て」


 それは素直な反応だった。それと同時に、母さんはあの先生を信じていないんだとも思った。

 そりゃただの世間話で診察終了する先生だ。俺は楽だったけど、ここまで連れて来た母さんが納得するかは別の話。


 心配し過ぎだって。サッカーの事忘れてたのもたまたまなんだって。

 この時点でうんざり半分、呆れ半分。


 けど、少し硬いような母さんの表情を前には……その通り付いて行くしかなかった。


 こうして階段を上がって向かったのは、さっきの精神科の上で2階にあたる場所。待合室にはまばらに人が座っていて、奥には病室の様なものも見える。そして目に入ったのは、の文字だった。


 おいおい……母さん……

 それは深く考えなくても分かる。ただ、ここまで来ると心配の域を越えてくる気がして、流石に母さんに聞いてみた。


「母さん、こりゃいくらなんでも」

「念には念を……だよ?」


 そう言って少し笑顔を見せる母さん。ただその表情も少し強張っている気がした。

 普段は明るくて、冗談ばっか言ってるけど……そこまで気にしてくれてんのか?


 なんとなく心の中でそんな感情に浸っていると、すぐさま俺の名前が呼ばれる。

 仕方ない。とりあえず、ささっと行って来るか。


 診察室の中に入ると、そこに居たのはさっきの先生よりも少し若い人。ただその雰囲気はかなり似ていて、眼鏡姿に優しい表情。そして、


「こんにちわ。葵日向君」


 さっきの先生以上に柔らかい話し方。


「こっ、こんにちわ」


 そんなやり取りからスタートした診察。最初はさっきの先生のような世間話……だと思った。けど、この先生は……少し違った。


「それじゃあ、奥の方へ行こうか?」

「えっ?」

「念には念を入れて……色々調べたいしね?」


 楽観的だった俺を待っていたのは、何種類もの検査。

 質問されたり、紙に書かれた字を読まされたり、図形を書かされ、計算問題を解かされる。挙句の果てに血液を取られ、テレビでしか見た事のない機械の中に何度も入れられたり、散々だった。


 時計が無い中、めちゃくちゃ時間が掛かっている事だけは分かるし、正直……飽きていた。

 あぁ、何だこれ? 色々やり過ぎじゃね? 時間掛かり過ぎじゃね?


 飽きた……疲れた……

 とにかく早く……帰らせてくれ。



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