蝕む何か,

 



『大丈夫か? 安静にしろよ?』


 一体何回そう言われただろう。


『私達やるから、ゆっくり見学してて?』


 そうやって気を遣わせたのは何度目だろう。


 耳にする度に心が温かくなる。けど、その後に必ず訪れるのは引け目と申し訳なさ。

 そして何時になればサッカーが出来るのかという焦りと……皆に追い付けるのかという不安と恐怖。


 足関節捻挫と診断された時は、ただの捻挫だと思って安心した。けど、レントゲンを目の前に先生の言葉を聞いた瞬間……そんな気持ちは一気に奈落の底へと消えてなくなった。


 外側靭帯損傷、全治2ヶ月。それが正確な怪我の名前。

 損傷と言う割に、実際はどこかの靭帯が切れてるらしい。さらに全治2ヶ月というのはあくまで目安。人によってはそれ以上に時間が掛かるし、そこから競技復帰に向けたリハビリが始まる。

 そしてこの怪我は癖になりやすい。そうならない為には完治してから、徐々に徐々に動かしていく必要がある。

 つまり……単純に計算しても、選手権の決勝トーナメントまでに元の状態に戻すのは難しい。それは、ついさっきまでスタメンを目指していた俺にとって……絶望的な通告だった。


 足に巻かれたギプスのお陰で、痛みはそんなに感じない。ただ、本当に自分の足かと疑いたくなるような感覚に違和感を覚える。

 慣れない松葉杖のせいで、移動にも時間が掛かった。それが妙に恥ずかしくて……嫌になる。

 でも、人前でそんな感情を表に出せる訳なかった。


 クラスの皆は俺の姿見て心配してくれて、素直に嬉しかった。でも俺にとっての4組は皆笑ってバカ騒ぎする場所。だから早くいつも通りの姿に戻って欲しくて、明るく振舞った。

 サッカー部では監督やコーチ、先輩達が労いの声をくれた。けど、チームの雰囲気を壊したくなくって逆に応援した。病院へ行く日以外は、当たり前のように顔も出した。


 学校では明るく、気にしてないように振舞う。そうしなければいけないと思った。

 練習にも試合にも出れなくて悔しい。そんな気持ちを抑えてでも、部活に行く。そうしないと、忘れられそうだから。自分の場所が無くなると思ったから。


 でも、その反動は家に帰り1人になった瞬間……襲いかかる。


 いつまでこんな格好なんだ?

 いつになったら悲壮的な言葉を掛けられなくなる?


 いつまで練習が出来ない。いつになったら走れる。

 元の筋力に戻るのに、技術を思い出すのに……一体どれだけの時間が掛かるんだ。


 そんな不安が頭を過る。グルグル回って胸が締め付けられる。

 いつからか俺は……そんな夜を迎えるのが怖くて仕方がなかった。



 それでも足の治療に関してはやれる事をやった。

 患部に衝撃は与えない。薬をちゃんと飲む。おかげで比較的早くギプスは取れた。


 専用の装具を付けるようになると、ギプスの違和感も感じない。その頃には松葉杖にも慣れて、移動にも不自由はなかった。


 それでも……サッカーに対する不安と恐怖だけは消える事はない。


 病院では理学療法が始まり、必死に頑張った。

 そして数週間後。自力で歩くことを許された俺は、サッカー部復帰を目指して……動き始めたんだ。

 地道にリハビリを続け、自力歩行から軽いジョギングまで出来るようになった。


 徐々に回復していく足。けど、それに比例して大きくなるのは不安。

 歩けるようになってから、須賀さんらマネージャーさんの手伝いをするようになった。けど、自分の場所はグラウンドの中。

 でもそこに俺の場所はあるのか? 本当に大丈夫なのか? あの時のレベルまで戻れるのか? だとしたら一体どれだけの時間が掛かる。


 サッカーをしたい。

 サッカーが本当に出来るか不安だ。


 早く追い付きたい。

 追い付けないと分かるのが怖い。


 矛盾した言葉が交差してよく分からない。



 そしてついに先生の口から出た、完治という言葉。

 それは途方もなく嬉しいものだった……はずなのに、頭から不安と恐怖は離れない。


 あれだけ好きだったサッカーに恐怖を感じる自分が嫌で仕方なかった。

 そんな事を少しでも考えてしまう自分が憎かった。


 だから……完治を言い渡されたその日。家にあったボールを脇に抱え、久しぶりに河川敷に向かった。

 数か月前まで自主練をしていた場所。久しぶりに訪れたそこは……何にも変わりはなかった。


 そんな場所でそっとボールを置いた俺は、左足を思いっきり振り上げる。左足に感じる感触、そして綺麗な弧を描くボール。それは数か月ぶりのキックの……ハズだった


 いくら経っても、ボールは綺麗な弧を描かない。

 いくら経っても、ボールの感触を感じない。

 左足はその硬い地面を永遠に……踏み締めたままだった。


 足が震える。

 頭がグラグラ回る。

 心臓が誰かに掴まれたかのように締め付けられる。

 そして何かを必死に否定するように、呼吸が苦しくなる。


 嘘だ……嘘だ……

 信じたくはない。信じられなかった。

 でも、その視線の先にある事が現実を知らしめる。


 俺はボールを蹴る事が出来なかった。あれだけ好きで、毎日のように蹴っていたのに……それすら恐怖を感じる。


 怪我の再発が怖くて仕方ない。

 その衝撃に左足が耐えられるのか怖くてで仕方ない。

 そしてまた、あの長い……何も出来ない日が訪れるのかもしれない。


 そんな不安に包まれる。


 蹴りたいのに蹴れない。完治したのに蹴られない。

 その意味は自分自身が良く知っている。だからこそ……目の前が真っ暗になる。


 まるで奈落の底へと落とされたかのように。



 ――――――――――――



 そんな暗闇の中に少し光を感じる。次第に大きく、強くなってくるそれに耐えきれなくなった俺は、嫌々ながらゆっくりと目を開けた。

 そこに広がるのは見慣れた天井。それが徐々にハッキリ映ると、朝が来たのだと理解する。


 出来ればもう少し寝ていたい気もしたけど、思いの他頭は冴えていた。


「ふぅ」


 そんな溜息を1つ吐くと、俺は上半身を起き上がらせる。


 ったく天気良いな。

 窓から燦々と注がれる日の光は、見ているだけで気持ちが良い。そんな心地良さに身を任せていると……


 ♪♪~♪♪♪


 突然響き渡るスマホの着信音。その画面に目を向けると、表示されていたのは海斗の名前だった。


 こんな朝っぱらからなんだよ?

 少し煩わしさを感じながらも、俺はゆっくりとスマホを手に取る。そして大きなあくびをすると、画面をスワイプして……ゆっくりとそれを耳に当てた瞬間だった、


 ≪なん……≫

 ≪日向! 何してんだ!≫


 こっちが話す間もなく、勢いよく声を張り上げる海斗。その余りの大きさに耳がキーンとする。まるで何かに怒っているかのような雰囲気を感じるものの、俺には心当たりがなかった。

 なんでそんな大声なんだよ? なんか怒ってんのか? 


 ≪何してるって……≫

 ≪もう家は出たんだろ? 早くしろよ?≫


 家出た? 早くしろ? 一体何言ってるんだ。 


 ≪はっ? 海斗……一体……≫

 ≪は? じゃねぇよ! お前まさか……≫

 ≪まさか?≫


 ん? 海斗の奴何か勘違いしてるのか?


 ≪おいおい、まじかよ! 良いか? 今日から選手権の決勝トーナメントが始まる≫


 けっ、決勝トーナメント……選手権……はぁ?


 ≪それで会場の準備があるから、俺達1年はそれ手伝う為に早く来いって言われただろ!?≫


 手伝い。早……く。


 ≪その様子じゃ寝坊だな。ったく勘弁してくれよ。とにかく急いで来い! 分かったな?≫

 ≪なっ、なぁ海斗……≫


 ≪なんだ?≫

 ≪それって……冗談じゃないよな?≫

 ≪当たり前だろ! とにかく待ってるから速攻で来い!≫


 プツッ


 ツーツーツーという電話が切れた音が何処か遠くに繰り返される。もう何も繋がっていないのに、俺は耳からスマホを離せずにいた。

 それすら忘れる程に、俺は必死に考えていた。思い出していた。海斗の言っていたその言葉を。


 選手権の決勝トーナメント? 

 それが今日だって? 嘘だろ……アラームもかけないなんて有り得ない。


 準備の為に早く来い?

 そんな事監督が言ったか? いつだ。どのタイミングで……


 いくら記憶を辿っていっても、その場面には遭遇しない。むしろ海斗が冗談を言ってる気さえした。

 でも、あの雰囲気。それにサッカーに関して嘘をつくなんて、海斗は有り得ない。だとすれば……


 俺が忘れてた?


 その瞬間、一気に鼓動が速くなる。


 嘘だ……宿題とかならまだ分かる。でもサッカーに関する事を忘れた事なんてない。

 息が苦しくなる。


 でも、実際忘れてた? しかも大事な選手権の日をだぞ?

 頭が急に重くなり、目の前がグルグル回る。


 決勝トーナメント……準備……サッカーの事……日にち……時間……

 その全てを……完全に忘れていた?


 落ち着け、落ち着け。

 俺はその日に間に合わせようと頑張ったんじゃないのか。

 それを目標にして、疼く体を無理矢理抑えつけて我慢してきたんじゃないのか。

 選手権の決勝トーナメントの為に。


 そうだ。だったら忘れる訳ない。決勝トーナメント、その日にちは…………あれ? 何日だ? 何月何日だったっけ? なんでだ……なんで……出てこない!


 それは焦りだった。

 大切な日だって分かっているのに、全くそれが出てこないんだから。


 それは絶望だった。

 いくら思い出そうとしても、全く頭に浮かんでこないんだから。


 嘘だろ? 嘘だろ? 嘘だろ?


 ガチャ


「ちょっと日向ぁ。アンタ今日、準備だかなんだかで早く出るんじゃなかったの?」


 意識は混濁していた。それが怖くて怖くて仕方なかった。


 だから俺は……俺は……藁にもすがる思いで、ドアの先に居た人に……問い掛けたんだ。


「なっ、なぁ。教えてくれよ。今日って」



「何月……何日……何曜……日……なんだ?」



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