花は咲み、鯨は夏に歌う

藤咲 沙久

鯨の歌が聴こえる

【52ヘルツの鯨】


52ヘルツの鯨とは、正体不明の鯨の種の個体である。他の種より遥かに高く、非常に珍しい52ヘルツの周波数で鳴く。この鯨はおそらく世界で唯一の個体であり、「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。


             (参考:Wikipedia)





『花はみ、くじらは夏に歌う』





 蝉がまだ名残惜しそうに鳴いている暑い日だった。

「あ、渡り鳥さんいた」

「……それは俺のことですかね、お嬢さん」

「だって名前教えてくれないもん」

 赤いランドセルを背負ったその子は、なぜか俺のところにやって来る。長い石段を上がった先の神社、さらにその裏手。ここには人目と暑さを避けて一人の時間を過ごしに来ているというのに。

 少なくとも、俺がこの町に住んでいた頃には誰にも見つかったことのない秘密の空間だった。

「それに、決まった季節だけ別の場所に行く鳥を渡り鳥って呼ぶんでしょ。お兄さんみたい。春も秋も冬もいないから、私が三年生の時からずっと」

 お嬢さんはもう六年生ですか、と思わずしみじみ返してしまう。しかも夏以外にも俺がいないか時々確かめていたのか。それはなんとも、ご苦労なことで。

「お嬢さんは誤解している。俺は夏休みだから帰省してるだけですよ」

「キセイ?」

「帰郷。里帰り。駄目か、んー……じーちゃんとばーちゃんに会いに来てます」

「うそ。だってもう九月になったもん、まだ暑いけど夏休みは終わったんだよ」

「嘘じゃないんですけどねぇ」

 女の子が俺に倣って地面へ座ろうとしたので、服を汚してしまうからやめなさいと制止した。手持ち無沙汰な気持ちなのか今度はくるくる回りだす。仕方なく、スカートの中が見えてしまうからやめなさいとまた制止した。

「もう六年生なんでしょう。慎みなさい」

「渡り鳥さんの、けち。えっち」

「ケチで結構。エッチは心外です。俺はロリコンじゃありません」

 本当に不服だったので眉を強く寄せたが、たっぷりとした前髪のせいで彼女には気づかれなかったようだった。そろそろ切らなくてはいけない。

 ため息をつく俺に構わず、女の子は周りをうろうろ歩き回った。子供というのはどうにも落ち着きがない。せっかくの放課後にわざわざ会いに来る理由も、得体の知れない男に構う意味も、まったく分からなかった。

「わーたーりーどーりーさーんー。ねぇ聞いてる? お話しようってば」

 君は余程の暇人か、もしくは友達がいないのか。

 その問いはギリギリで喉に留められた。やぶ蛇もいいところだからだ。自分の髪をぐしゃりと乱してから、もう一度ため息をついた。

「どうせなら……そうだな、鯨。五十二ヘルツの鯨がいいです。自分で言うのも何ですけど」

 ふと思い付いたイメージで指を地面に滑らせる。小石混じりの土を迷いなく押し退け、あっという間に鯨のイラストが出来上がった。

 この細やかな技術は彼女を喜ばせるには十分だったらしく、目に痛いほど眩しい笑顔を向けられた。

「わあ、渡り鳥さん上手! それ何か特別なクジラなの?」

 耳に久しいシンプルな賛辞。しかしそんな言葉で晴れる心はもう持ち合わせていない。

 幼稚、稚拙、ありきたり。俺にとっては課題を提出するたびに酷評を受けてきた程度の画力だ。子供ひとりが気に入ったところで単位の足しにもならない。馬鹿馬鹿しくなって消そうとしたが、女の子があんまり嬉しそうに眺めているものだから、少しだけ気が引けて手を止めた。

 代わりに、質問に答えるための言葉を探す。

「……どの鯨とも違う高さで鳴く、一頭しかいない孤独な個体ですよ。鯨なら海にたくさんいるのに、そのどれとも違う」

 それは複数の種と一致する特徴を持った、どの種でもない正体不明の鯨。そんなものに例えるなんて孤高でも気取る気かと、自分でもわかるくらい唇が自嘲に歪んだ。

「お嬢さんは誰かと話してて楽しくなりますか? その時、笑いますか?」

「うん! お話ししてたら楽しいし、笑うよ」

「俺はね。周りが笑ってるから、笑っておくんですよ」

 楽しいという感情を知らないわけじゃない。筆を持ってる間は、絵の具を混ぜている時間は、俺にとっての幸福に違いなかった。

 でも、それだけでは足りないと言われた。周囲が楽しいと感じるものを一緒に楽しめないのはおかしい。楽しむだけじゃない、他人と感情を共有できないことが不自然だと。

 だから俺は必要に応じて笑ってみせる。悲しんでみせる。後ろ指を差されないためだけに。

(ただの自己防衛。擬態だ、それも不出来な)

 周りに理解されない、自分も周りが理解できない。それをなんとか誤魔化しながら生きてきたのだと、目の前にいる小さな女の子にどう説明できようか。

「渡り鳥さん……? どうしたの、なんで黙っちゃうの」

「……すみません。少し、嫌なことを思い出して」

「しんどいの? お家、帰る?」

 家か、と口の中で小さく呟いて、心優しい少女を見つめた。真っ直ぐな愛を注がれて素直に育ってきたんだろう。羨望や嫉妬の気持ちはない、俺だって大事にはされていた自覚がある。それが両親にではなかっただけで。

「大丈夫ですよ。……俺はね、お嬢さん。この町でじーちゃんたちに育ててもらったんです。そういう義理もあって、夏休みだけは帰ってくるんですけど」

 夏休み、のところで女の子はやはり首を傾げる。それが八月三十一日で終わるものばかりではないことを、小学生である彼女はまだ知らない。

 そんな十歳も年下の子供に何を話しているのだと、我ながら呆れた。しかし言葉というのはひとつずつ紐で繋がっているものだ。ひとつ口から飛び出れば、そのままずるずると全て露になっていく。

「祖父母は優しいし、あの家は俺の実家だ。でも、だからといって馴染めるものでもないんですよね」

 親の代わりに愛情を与えてくれた。でも俺は、それを客観的に捉えることしか出来なかったんだ。

 俺は薄情な人間だから。

「自分の家なのに落ち着かないの?」

「そう。そのくせ家を出た先での生活にも溶け込めない。共感が出来ない生き物なんです、俺は」

 あの鯨は、初めて自身が周りと違うと知った時どう感じたんだろうか。俺と同じで悟られないよう擬態したんだろうか。

 広い広い海の中で、なんて孤独な存在。

「みんなと同じじゃなくても出来ること、あるよ」

 大人しく耳を傾けてくれていた女の子が、少しだけ大きな声でそう言った。気づかないうちに視線が落ちてしまっていた俺はゆっくり顔をあげる。

「どういうことですか?」

「知ってることとか、出来ること教えっこしたりとか。全部同じだと出来ないでしょ。あ、鳴き声の高さが違うならハモれるよ! すっごくいい!」

「ぶふっ」

 まるでナイスアイディアと言わんばかりの表情に、柄にもなく吹き出してしまった。鯨か、最後のは鯨の話なんだな。

「あっ渡り鳥さん初めて笑った!」

「いや、今の、ふふ……今のは卑怯です、よ。ん、ふ」

「渡り鳥さん笑えたね、よかったね!」

「意味が、く、ふふ、ちょっとやめて止まらな、意味が違うのに、ふはっ」

 全然、何も、正しく伝わっていない。もう話がしっちゃかめっちゃかだ。それが可笑しくてたまらない。腹筋が震える感覚はあまりに懐かしくて、それがおさまるまで少し時間が必要だった。その間女の子は大変満足そうに俺を見ていた。

 やめてくれ、だんだんと恥ずかしくなる。

「もう平気? まだ笑っとく?」

「……勘弁してください。あと、ちょっとニヤニヤするのもやめてください」

 深呼吸をしてようやく息が整う。すっかりペースを乱された。調子が狂いっぱなしだ。

 最初に会った時は、もっとずっと幼い少女だった。身長も低かった。それが少し成長したら随分と口も達者になって、大人のこっちが慰められてしまった気分だ。

「ねぇ渡り鳥さん」

「なんですか」

「私、思うんだけどね」

 女の子はクスクスと笑うのを堪えきれないまま、恐らく特に意味はなく、無邪気に両手を広げた。

「別に、同じになれなくてもいいじゃない。だって同じじゃなくても一緒にいることは出来るんだから」

 思わず目を瞬かせた。なんてシンプルな意見。先程の感想と同じくらい素直で、子供らしく単純。大人の世界ではそう簡単にいかないのが現実だ。

 だけど初めてだった。そんな現実的でない肯定はされたことがなくて、何故だろうか、ひどく泣きそうな気持ちだ。

(感情が目まぐるしい。なんだこれ)

 じわりと汗がにじんだのは木陰でも防ぎきれない暑さのせいか、それとも内側から体温が上がったからか。それこそ子供のように動き回る心に戸惑いが強くて、俺はほとんど無意識に胸を押さえた。

 手のひらに鼓動を感じる。律動が響く。初めて絵を描いた日のように。課題や評価など関係なく、描きたいと思って描いていた頃のように。

「……お嬢さん」

 女の子の顔を改めてよく見る。ショートヘアが似合っていた。ああ、慰められたんじゃない。この子の言葉で、俺は。

「なあに?」

「以前聞いたあなたの名前、実は覚えていなくてお嬢さんと呼んでいたんです。もう一度教えてもらっても、いいですか」

 彼女が嬉しそうに頷く。まるで二人だけの大切な秘密を分かち合うように、俺の耳へ手を添えて、小声で名前を告げてくれた。それは優しい音だった。

 夏の日差しにも負けない元気さと、眩しいほどの素直さ。そうだな、彼女をモチーフにして描くとしたらヒマワリだ。それがいい。

「そうだ。ねぇ、渡り鳥さんカッコいいから、いつかお嫁さんになってあげてもいいよ!」

「俺は格好良くないしロリコンじゃありませんので、それは結構です」

「じゃあ友達になろ! だから、私にも渡り鳥さんの名前を教えて?」

 もうすぐ夏が終わる。今年を最後に夏休みは永遠に失われてしまい、俺は学生じゃなくなる。自分がどう社会に出ていくのか、正直まだ検討もつかない。

 だけどいつかまた、彼女に会うためにこの町へ来てもいいと思えた。鯨と、ヒマワリと、赤いランドセルを並べた絵を持って。



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