死にたいときは死にたいのか?

 死にたいというけれど、我々の望むものは本当に死だろうか。おそらく、答えはノーだ。きっと若者がエモいという言葉に感情を収斂させてしまうのと同じで、雛型にそって感情を矯正してしまっているのだろう。ならば、もう一度、その絶望と汚泥の果てに見える感情と相対して見なければならない。全てはこの目でそれを見、この身でそれと愛し合うためだ。


 まず「死にたい」と言ったときの「死」について考えてみよう。私が思うに、その死は現実の死とはかけ離れた、想像の世界の死なのではないだろうか。もっと言えば、死を指してすらおらず、何らかの比喩である。

 現実の死について我々はイメージすることすら難しいだろう。なぜなら、我々は日常からそれを遠ざけ、蓋をしてしまったからだ。よって、それと相対する時は、相手方は棺の中で、我々は現実にいる。つまり、非現実と現実の境界がある。最近、ふと思うのだ。私は人生の中で何回、死に触れたことがあるであろうか。答えは驚くほど少ない。きっと、瞳を閉じた彼ら全員の数は、今日駅ですれ違った人の十分の一にも満たないだろう。世界は、生で満ち過ぎている。さらに、数少ない彼らも、我々の願望の棺に入れられ、肉体が朽ちるより早く人工的に燃やされる。それは帰らずの旅で、今後、彼らと会う時は厚さゼロミリメートルの棺の壁越しになってしまう。あらゆる願いや恐れを跳ね除けて、単に終わりとしての死、何ら意味を生産しない死に我々は何度出会ったであろう。ましてや、対面して。そんなことを考えていると、死とは、もはや死ではなく、哀れな案山子に見えてくる。それ自体は何ら意味をなさないが、我々が役割と与え、夢を見たがために、様々な衣服を着せられ装飾させられ、挙句焼かれる。なんと酷いことか。そして、我々はその灰すらも死と呼称するのだ。

 それは本当に死であろうか。もはや原型をとどめなくなった死は、無限の意味を持つようになった。死は現象から場へと成ったのだ。なんでもできる無敵の場に。そして、我々はそこにある種の理想郷を見出した。それが比喩としての死だ。その死は穏やかで、温く、痛みもなければ、喜びもない。時間は一瞬が永遠で、永遠が一瞬。そこで我々の精神は夢幻の虚無という名の安らぎを得る。言われてみれば、こんな場所は未だ名を持っていなかったのかもしれない。それがために死だなんて呼ばれているのだろう。だが、繰り返すが、我々の死は様々なものが固着しすぎている。そして、固着したものから派生した意味の死は、死と呼ぶには相応しくないだろう。

 何か、名前をあげなければいけない。きちんと我々が彼を見て、愛すまで、彼がこちらの世界にやってくることはないだろうから。

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