そこにあった
彼は目が覚めると、階段の踊り場にいた。粗末な場所だ。打ちっ放しコンクリートに、錆びた手すり。それに埃もひどい。彼はむせるように咳をすると、腰を上げた。そして、針金のような顎髭を撫でながら悩んだ。
どうしたものか……。
男には確かな記憶がなかった。目を閉じ、妻と思われる女性の姿を思い浮かべてみるが、そこに立ち現れるのは、顔の異なる女性ばかりだ。全員よく似ているが、明確に違う人物だった。
「俺は愛した女性も覚えていないのか」
ぼやくが、果たして愛していたのだろうか。それすらも不安になった男は、苛立ちに任せて壁を殴った。ジンジンと拳が痛む。殴った場所は変わらず平らで……果たしてどこを殴ったのだろうか。男は思い出せなかった。
男はつばを壁に吐きつけた。濡れて色が変われば、さすがに場所がわかると思ったからだ。
すると、壁は明確に色を変えた。
だが、どこが変わったのかわからなかった。指先で壁をなぞり、場所を探すが、色の違いは見つかったが、やはりそこがどこかわからなかった。
男はいよいよ恐怖した。きっと、この閉鎖空間が自身の認識に影響を与えているに違いない。そう思った男は、大慌てで階段を降りていった。しかし、どれほど降りても見える景色に変化はなかった。
「どれだけ長いんだ、この階段は」
男は最初から数えていなかったため、何段降りたかはわからなかったが、間違いなく長い時間降りたと言えるほど降りていた。
やがて、疲れ果てた男は座りこんだ。息があがり、じんわりと汗を書いていた。頭を垂れていた男は、不意に顔をあげた。その目には恐怖が見て取れた。
「お前、だれだ?」
男が問いかける。だが、返答はない。
「答えろよ、おい!」
男は錯乱したように声を荒げる。立ち上がり、周囲を見回す。
「見てるのはわかってんだ! 何が目的だ! 俺をこんな所に閉じ込めやがって!」
怒気で顔を赤くした男はがむしゃらに腕を振り回した。彼は、何かがいることはわかっても、どこにいるかまではわからないようだった。
「出てこい!」
男は叫ぶが、当然、返答はない。すると、男は壁にぴったりと背中をつけた。背後を取られるのを恐れたのだろう。だが、彼の背中には冷たい汗が伝っていた。瞬間、弾かれたように男は振りかえる。
「今、そこにいたな……」
男は錆びた手すりを思い切り蹴飛ばし、折れたそれを手に取った。武器を手に入れた男は、またゆっくりと階段を降りだした。景色に変化はない。
しかし、それでも男は足を動かし続けた。その目には、確信に近しいものが宿っていた。瞬間、男は目の前の空間を突き刺した。何もない空間を突いて何をしようと言うのか。だが男は悔しさに一言漏らしただけで、また歩き始めた。
男は焦っていなかった。なぜなら、どれほどの時間が経ったかわからないが、空腹も喉の渇きも、果ては眠気すら感じていなかったからだ。おもむろに男は自らの頭を壁に打ち付けた。
「ここにもいるのか……。なんでもありだな」
正気を失ったようにすら見える男だが、その目には、明らかに企みが宿っていた。また、目の前を突き刺す男。そして、笑う。
「時間は無限にあるんだ! いつまでも遊ぼうじゃねえか!」
そして男は階段を降り始めた。
それを私は面白く感じた。
だが時間切れを悟った私は目を閉じた。
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