第5話

 初めて夏樹が海月クリニックに訪れてから、二週間が経過した。今日は二回目の受診の日である。夏樹はいつものように外出の準備をして、部屋の鍵を閉める。一週間前のあの日の夜以来特、これと言った出来事は起こらなかった。言葉を喋る中級くらいのカラミタにも遭遇していない。あまり外出もしないのもあるが。ひつぎとは前に比べて話すようになった夏樹。


 ・・なんだろう、やっぱり話し相手が居ると少し不安が和らぐぁ・・。とは言ってもそんなに大した事は、話していないけれど。普通の日常会話程度だ。おはようとか、お休み、とか言って来ます、とかそんな感じ。ひつぎはずっと僕の傍に居るという訳では無いから、傍に居たら、僕が話しかけるくらいしかしていない・・。あんまりプライベートな事は話してないなぁ・・ひつぎから話しかけてくる時は、大体ひつぎがお腹空いた時に僕のエネルギーを食べていいか?って聞いて来る時くらいだし。ていうか結構、律儀だよね。もう勝手に食べてくれて構わないんだけれど・・。何回も言っているんだけれど、いや、勝手に食べると、自制が効かなくなって、また無様に酔うといけないからって言って、聞かないからなぁ・・。僕からすれば、有り難いと言えば有り難いけれど・・。


 そんな事を考えつつ、駅に向かう夏樹。電車の席に座り、イヤホンを耳に着ける。スマホからお気に入りのプレイリストを選択して、音楽を最小音量にして流す。音楽を聴いていると、少し心が落ち着く。周りの雑音をあまり拾わないようにするという目的もあるが。自分が意識していなくても嫌でも周りの音が耳に流れ込んでくる。だから、うつになると、それだけで物凄く疲れてしまうのだ。何と言うか、敏感になり過ぎている。眠くはないが、とりあえず夏樹は目を瞑る。


 ・・昨日は・・まぁまぁ眠れたから、あまり眠くないけれど、なんだろうなぁ・・眠ても覚めてもずっと眠いままだ。起きていても、寝ていても、どっちでもいい。ずっと頭の中がスッキリしない。どっちの状態でもなんだか体がだるいんだよね・・。


 海月クリニックがある最寄りの駅までは、一時間くらいなので、少しは寝ても大丈夫だろうと思い、つい、うとうとしてしまう夏樹。


「・・ん?・・あれ?・・ここは・・あっ、通り過ぎちゃった・・」


 車内のアナウンスで、目が覚めた夏樹。電子掲示板を見ると、降りるはずだった駅から二つほど、通り過ぎていた。夏樹は慌てて電車を降りる。すぐに反対側のホームに移動して、次の電車を待つ。比較的都会なので、電車はすぐ来る。五分程で次の電車が到着した。


 ・・あはは、寝過ごしちゃったなぁ・・まぁ、診察までは時間あるから大丈夫だけどね・・。


 夏樹は次は眠らないように、出入り口付近のつり革を掴んで、扉の近くの壁に寄り掛かった。そして、ぼーっと、流れる外の景色を眺める。


「・・ふわぁ、・・ん?あれ?・・あっ、また乗り過ごしちゃった・・」


 車内のアナウンスでふいに目が覚めた夏樹。今度は四つほど、乗り過ごしてしまった。


 ・・ああああ、中々目的地にたどり着けないぞ・・もう、自分が嫌になるなぁ・・何でこういう時に眠っちゃったんだろう?いつもは眠くないのに。立ってるのに眠ったかぁ・・よし、次は眠らないぞ!・・。


 気を取り直し、反対側のホームに移動する夏樹。


 ・・大丈夫、まだ、診察まで時間があるから、こういう時の為にいつもよりも早く出かけたんだ。だから、まだ慌てるような時間じゃない。眠らない、絶対に・・次こそは・・。


 戻りの電車がホームに到着。夏樹はそれに乗り込む。今度はつり革に掴まらずに己の足で、車内の揺れを耐え抜く事にした。


 ・・流石によろめいたりすれば、眠ったりはしないよね?他の人にも迷惑になるし、流石に眠らないはず、眠らないぞ!・・。


 夏樹は眠らなかった。ただ、揺れる車内で足を踏ん張る事に意識を集中し過ぎて、降りる駅でまた降りられなかった夏樹。一つ駅を通り過ぎた。


 ・・うぐっ、いや、今度こそ大丈夫だ。一つだ。たった一つだけ、次の駅で降りればいい。簡単な事だ。誰だって出来る。子供だって、出来る。そうだ、簡単な事なんだよ。電車に乗って目的の駅に行くことなんて。次に扉が開いたら降りるだけ。ただ、それだけ、頑張れ!僕!・・。


 電車はゆっくりと走り出す。働き始めた頃は、こんな事は無かった。

・・電車で乗り過ごすなんて、慣れていない路線だったら仕方ない事だけれど、何百、何千回と乗った事のある路線で、こんなにも乗り過ごしてしまうとは・・やっぱり、僕が完全におかしくなってるよね?電車の路線がおかしくなるなんて事は多分無いよね?どうしちゃんたんだろう?・・僕は大丈夫なのかなぁ・・。はぁ~、もう、なんか、自分が嫌だなぁ・・。


 唐突に、自己嫌悪が夏樹を襲う。自己肯定感がかなり下がっているのだ。うつだと、こういう事がかなりの頻度で起こってくる。当たり前に、昔出来ていた電車で目的地で下車するという事が、出来ないのだ。うっかり、とかそんなものではない。集中力が無いというのもあるが、脳みそが、スライムに覆われているような感じだ。正常に働いていない。これもうつになってみないと分からない感覚かもしれない。


 電車はそうこうしているうちに、目的の駅に到着した。扉が横にスライドして、乗客が降りていく。夏樹はまだ、降りようとしない。さっきと同じように、何か別の事を考えているようだった。すると、扉が閉まる直前、夏樹は、何かに後ろから押されるようによろめいて、扉を越えて、駅のホームに降り立つ。


「・・?おっとっと、・・ん?あれ?・・」


 ・・なっ?何だ?、あ、この駅だ。・・やっと着いたんだ。今、また乗り過ごすところだったよ・・。誰かが後ろから押してくれたんだろうか?いや、僕がこの駅で降りるって知ってるのは、僕だけだ。じゃあ、たまたま誰かとぶつかったのかな?・・いや、でも今日は平日だし、そんなに人は乗ってなかったと思うんだけれど・・。


 夏樹は一応、辺りを見渡してみる。特に変わったところは無い。人もまばらだ。少し疑問が残るが、ずっとこの場所に居る訳にもいけないので、改札口を通って、海月メンタルクリニックを目指す夏樹。


 ・・確か、ここから十五分くらい歩いたところだったよね・・。


 前に一度、訪れたことがある場所なので、そこまで道には迷わなかった。クリニックに近づくにつれ、人が少なくなってくる。裏路地に入って、少しだけ狭い道を通ると開けた場所に出た。三角の薄い青色の屋根の建物があった。入り口の少し上の方に「海月メンタルクリニック」と書かれていた。


 ・・ふう、やっと着いた。診察時間まで、色々ミスっちゃったけど、なんとかギリギリ間に合ったし。


「・・お、お邪魔しま~す」


 夏樹は、玄関の扉を手前に引き中に入った。相変わらず、人の気配は無い。夏樹が受付の場所に向かうと、奥の部屋からラジコンの駆動音が聞こえてきた。「キュルキュルキュル・・」ミニチュアの道路を走ってくる。今回は青いトラックだった。荷台の部分に黒い塊が載っている。


「・・ん?何だろう?黒いのが・・荷台にのっかってる気がする・・」


 トラックが近づくにつれ、黒い塊がモゾモゾと動いているのが分かった。二本の耳がぴょんっと立って、夏樹に話しかけてきた。


「やぁ!みたにん!元気やった?・・無事でなによりやなぁ・・」


 ラビスである。今回はかなり大胆な登場の仕方だ。


「あ、どうも、こんにちは。ラビスさん。まぁ、元気と言えば元気・・ですかね?・・」


「そかそか、それはいいことやん?・・あっ、なぁ、これ、見てん?うちの愛車なんよ?これ、かなり便利なんよなぁ・・自分で歩かんでいいし。いやぁ、人間は面白いもん作りよるよなぁ・・感心するわ。こんなんあったら、運動せんごとなるで?誘惑に負けてしまうやん。太ってしまうわぁ・・。まぁ、これだけやなくて他にも色々種類があるんやけどな?今回は青いのに乗りたかったんよ。あ、丁度診察時間やな。もう奥の部屋に入ってええよ?今日はもう後、みたにんしか、おらんから」


「あ、じゃぁ、そうします・・」


 夏樹は言われるがまま、海月先生の待つ奥の部屋へと向かった。取りあえず扉をノックする。「ああ、どうぞ。入って・・」とくぐもった海月先生の声が返って来た。夏樹は扉を開き、中の部屋へと入る。前回と同じように真ん中に置かれた机に座っている海月先生。やはり何度見ても・・とは言ってもまだ2回目だが、年齢よりも幼く見えてしまう。(何歳かは不明だが、夏樹よりもまぁまぁ年上らしい。)


「・・あ、失礼します・・」


 ・・まぁ、こういうのは慣れ、だよね。見た目が実年齢より若い人なんて、案外いるもんだし。・・取り敢えず、診察時間に間に合ってよかった・・朝、早めに出かけて本当によかった・・。


 夏樹は前に来た時と同じように、椅子に座った。


 海月先生は、何か書類を書いていたらしく、夏樹が座るのと同時に、ボールペンを机の上にそっと置いた。


「ああ、三谷君。どうだい?何か変わった事とかはあったかね?」


「・・えっと、特にこれと言って変わった事とかはありませんね・・」


「ふむ、そうか。何処か体調が悪いとか、気分が優れないとかは?」


「・・まぁ、えっと、体は特には問題ない無いです・・。気分は、いつも通り・・ですかね・・」


「ふむ、なるほど、特に変化無しか・・」


 そう呟きながら、海月先生は再びボールペンを手に取り、机の上に置いていある、クリアファイルに挟んでいた書類を取り出し、メモをしている様だった。きっと夏樹のカルテだろう。


「・・では、いきなり確信の話だが、この前私が提案と言うか、お願いした事については考えてくれたかね?・・」


 海月先生は、真っ直ぐに夏樹の目を見つめてくる。


「・・はい。色々と考えたんですけど、というか、色々あったんですけど、僕は、僕に・・出来るのならリベレイターに成りたいと思っています。僕のエニグマとも話し合って、そう決めました」


 海月先生の表情には変化はないが、少し安堵しているような感じがした。


「そうか、それはとても有り難い事だ。三谷君にとってもいい事だ。前にも言ったが、私もリベレイターなんだが、そこまで強くはなくてね・・ふむ、三谷君のエニグマと話したと言ったが、会話が出来る相手だったという事か。それなりに理性があるという事なんだね?その辺り詳しく聞こうかな・・どういった経緯だったのかね?」


「あ、はい。ちょっと前の話になるんですけど・・・」


 夏樹は、死神のような恰好をしたカラミタと交戦した夜の出来事を、なるべく詳しく語った。


「ふむ、なるほど、死神のようなカラミタ・・か。今までとはまた毛色が違うな・・。どう思う?ラビス?」


「う~ん。せやなぁ・・」


 いつ居たのか分からないが、ラビスが机の上に居た。夏樹は全く気が付く事が出来なかった。なので少しだけ驚いている。


「・・まぁ、多分、中級くらいの奴なんやろうけど、こっちの世界で形を形成出来る奴は、まぁまぁ強いで?骨の色が白いって夜でも分かるくらい、クッキリしてたんやろ?最近はあんまりそんな変なの見らんかったからなぁ。そんなクッキリとしたカラミタは・・。喋ったっちゅうことは、理性も少しはあるんかな?でも、普通にそのカラミタを倒してしまった、みたにんの相棒もなかなか強いんやなぁ・・・」


「ふむ、そうか・・なら三谷君のエニグマ・・なんて呼べばいいかな?」

「あ、えっと僕はひつぎって呼んでます。その、名前を教えてもらったんですけど、なんか呪文みたいに長くて覚えきれなかったので、ニックネームですけど・・」


「なるほど、かなりエニグマと打ち解けたみたいだね。そうか、じゃぁ私もひつぎ君と呼ばせてもらおうか。それでいいかね?」


 そう言うと海月先生は夏樹から視線を外し、夏樹の後方に目を向けた。つられて夏樹も後ろを振り向くと、いつから居たのか黒い縦長の棺桶のような箱が音もなく佇んでいた。箱の中からくぐもった声が聞こえてくる。


「・・別に構わない・・」


「・・うお!喋ったで!ちゃんと話せるやん?あれ?でも、どっかで聞いた事があるような・・無いような・・まぁ、ええ子やん。やっぱりかなりシャイなんやな?分かるで、うちもかなりのシャイな性格やからな。乙女やからなうち。後、強くて可愛いんよ?モフモフなんよ?」


「まぁ、少し落ち着きたまえ。ラビス。話が前に進まなくなってしまう。君がモフモフで可愛いのは認めるが・・」


「いや、後、その、シャイではないような気が・・」


「え?何?、みたにん、なんか言った?」


「い、いえ、何も・・」


 ・・シャイではない気がするんだけれど・・。というか、ひつぎはもうこの部屋の中に居たのか・・。気配とかが何故か全く感じないから、やっぱり少し驚いちゃうよね・・。


「ふむ、という事は箱の中身も、既に見たのかね?何が入っていたのかな?話から察するに、鎧とかなのかな?それとも腕だけ・・とか?やはり異世界に繋がっているのかな?ああ、かなり気になる。興味深い・・」


・・うわっ、海月先生の喰いつき具合が凄い。これは、いや、かなり興味津々というか、無理やりにでも箱の扉を開けて中身を見かねないぞ!


夏樹は慌てて、海月先生に今まで、中身を見たことが無い事を伝えるのだった。


「あ、えっと、中身はその、まだ見た事がありません。真っ暗で何があるのかは想像もつきません。まぁ、そう言われると、見ようとはしなかったですね・・」


 珍しく海月先生の顔が暗くなった。明らかに残念そうな顔をしている。


 ・・あ、少し頬を膨らませているぞ。分かりやすい。今のは表情が読みにくいとかじゃなくて、ハッキリと残念だって顔だ。

・・ちょっと可愛いけれど・・。すぐに海月先生はいつもの、眠たそうな顔に戻っていた。


「・・ふむ、そうか。それは残念だ・・実に・・・。まぁ、気が向いたら見せてくれるようになるだろう。うん、そうだな、楽しみは後にとっておこう。もしかしたら見てはいけない物だったりもするし・・」


「は、はい。そう、ですね」


 ・・確かにどちらかと言うと、気になると言えばひつぎの中身はどうなっているのか、気になるけれど、多分、他のカラミタのように、黒い靄みたいなモノが詰まっているのではないかなと・・。色んな形になれるみたいだし。でも、もしかしたら人型に近いのかも・・。


「・・ひつぎは大事な任務の途中。軽々しく、姿をさらすことは出来ない。機密性が高いから、ひつぎの事はなるべく内緒にして欲しい・・」


 珍しくひつぎがお願いをしていた。声がくぐもっているので、若干聞き取りにくいが・・。


「ふむ、そうか、それは失礼な事を言ってしまった。誰にでも秘密にしておきたい事の一つや二つ、あるものだ。触れてはいけない話だったな。もうこの話はしないようにしよう。すまなかった・・」


「・・別に、いい・・」


「そうやで、海月ちゃん。うちらにも秘密にしておきたい事なんて、沢山あるんやで?うちも箱の中身は気になるんやけども、そこはもう、こう、グッと我慢やな。我慢やで?みたにん!海月ちゃん!」


「ラビス。君が一番知りたそうな事を言っているみたいだが?それに我々人間に、かなり詳しくカラミタの事を教えてくれたのも君じゃないか。その辺りは機密事項とかではないのかね?本当は秘密にしておかなければいけない事だったのでは?」


「うぐっ、いやぁ・・うち、そんなに大事な事言ってたかなぁ?よく覚えてないんやけど・・どうやったかなぁ・・・・」


「・・この黒い毛玉・・かなりお喋り・・言わなくてもいい事まで、ぺらぺら喋る。・・何故この黒い毛玉が姫様を探す任務に就いているのか、ちょっと理解出来ない・・もしかしたら、議会は最初から姫様を探す気なんて、無いのかもしれない・・もう姫様は必要無いという事なのか・・」


 ・・黒い毛玉って・・。ひつぎが珍しく辛辣な事を言っているような気がするんだけど・・。もしかしたら知り合いとか、なのかな?・・。


「いや、それは言い過ぎやて~、ひつぎん。黒い毛玉て・・。てか何でうちが姫様探してる事、知ってるん?」


「・・前に、自分で言っていた・・」


「そうやったっけ?」


 海月先生と、夏樹は無言でラビスをジト目で見つめる。ひつぎも目があったら多分そう見ているだろう。・・と言うか、ひつぎんてなんだ?・・。


「うわ、こわ、うち、自分で自分の事が、こわなってしまうんやけど・・勝手にうちの口が動いてるんかな?・・あれれ?そうやったっけなぁ?あはは、まぁ、でもええやん?・・海月ちゃん達の役に立ったんならそれで・・なっ?」


 と言いつつ、ウインクをしてくるラビス。黒いから分かりにくいが・・。今更だがラビスの目の色は、綺麗な透き通る様な水色だった。初めに会った時は、そんな事、気にもしなかったのに。


「ふむ、ラビスの事は取り合えず、置いておこうか。話を元に戻そう。さて、三谷君が、ついにリベレイターになる事を決心してくれた。我々としてはかなり助かる。もう救世主と言ってもいいだろう。実のところ、リベレイターの素質があっても、カラミタと戦おうとするうつ病患者はほとんど居ないんだ。それもそうだろう。皆自分の事で精一杯だからだ。他人の事なんてどうでもいい、自分が日々生きるだけで手一杯。それは当然の事だ。そもそも、リベレイターやカラミタについての話を信じようとはしない者も居るくらいだ。きっとこの先生は頭がおかしくなっているのだろうと。それも理解が出来る。普通はそんな荒唐無稽な御伽噺のような、非現実的な事は信じようとはしない。魔法を信じないのと同じだ。では何故、科学を当たり前のように信じるのか、私はそっちの方が分からないが、この話をするとまた脱線してしまうので、今回は止めておこう・・」


「・・やっぱりそうですよね・・あんまり信じる人は居ないのかもしれません・・信じたとしても、実際にカラミタと戦うって人はもっと少ないのかもしれない・・なんとなくそんな感じじゃないかなって、頭の隅っこでは分かっていたのかもしれないです・・正直なところ、かなり不安です」


 ・・何だか嫌な事ばかり、浮かんでくる。本当に僕なんかにリベレイターなんて務まるのか・・ちゃんとカラミタを退治出来るのか・・。戦って負けたら死んじゃうのかな?とか。・・怖いのかな?・・多分、怖いのかもしれない・・。正常な判断なんて元から出来ないし・・。このモヤモヤしている感情は・・何なんだろう?・・。上手く言葉に出来ない・・。


「ふむ、そうだな・・三谷君の感覚は間違っていないだろう。それでも、そうだとしても君は、リベレイターになると覚悟を決めてくれた。それだけで三谷君、君は凄いんだ。一歩前に進んだことになる。もしかすると、今までよりかなり過酷な人生が待っているかもしれない。挫けてしまう事があるかもしれない。心が折れて立ち上がれなくなるかもしれない。心身共に傷ついて、戦う気力も無くなるかもしれない。越えられない壁が立ちふさがるかもしれない。自分の無力を嘆くかもしれない。変えられない残酷な運命が待ち受けているかもしれない。・・昔私もそう思っていたよ。不安な事は一度声に出してみるといい。そしてそう思っている感情を暫く観察してみるんだ。暫くその浮かんできた感情を観察していると心の中で暴れ回っていた感情が落ち着くのが分かる。そして、イメージの中でその感情に愛の光を当ててあげるんだ。そうすると、その感情に愛が注がれて宇宙に還っていく・・。流れていく雲のように、ただ感じればいい。自分は形の変わる雲ではなく、何者にも変える事の出来ない空だという事を忘れてはいけない。そういうワークをすると、感情に支配されなくなってくる・・少し慣れるのに時間がかかるかもしれないが・・。とまぁ、考え出すとマイナスな事はキリが無いな・・。私に出来るのはその不安を少しでも取り除く、手助けをする事くらいだ・・これが仕事なんだ・・」


「・・過酷・・でも今の僕の心の状態より酷い状態っていうのが、全く想像できないので、多分、今が一番過酷の中・・なのかもしれません・・」


 海月先生は少しだけ笑った。笑ったと言っても口元が少しだけ動いて、微笑んだくらいなのかもしれないが。表情の変化が僅かなので、分かりずらい。しかし夏樹は少しの変化でも海月先生が笑ったのではないかと感じた。少し表情を読む事が、慣れてきた感じだ。


「ふむ、そうだな・・うつの症状的に言えばあまり良好とは言えないが、リベレイターとしては申し分ない心境だ。実に頼もしい・・少しずつ、いつもの日常が取り戻せるように共に、進んで行こうじゃないか・・」


「うん!そやな!一緒に頑張って行こうな?みたにん!」


「・・あ、はい。頑張ります・・これで少しは僕が生まれた理由とかが分かればいいんですけどね・・」


「ふむ。そうだな・・ラビス。お茶の準備をして貰えるか?」


「ん?うん!ええで!うちに任せてな!」


 そう言うとラビスが、ぴょんっと、机から飛び降りて奥の部屋へと消えていった。


「え?ラビスさんて、お茶の準備が出来るんですか?あの小さい体で?カップとかポットとか持てるんですか?」


 すぐさま思ったことを、海月先生に質問する夏樹。


 ・・いや、だって、流石にエニグマでもあの体じゃ、カップはギリギリ持てたとしても、ポットは持てないんじゃ?・・。


 海月先生の表情をチラッと観察する夏樹。


・・何だろう?・・そんなに笑っていないような・・いや、不敵な笑みを浮かべている気がする・・。そんな感じで微笑んでいるような・・。


「ふむ、無論だ。ラビスはちゃんとお茶を淹れる事が出来るぞ?なんたって、向こうの世界では王家に仕えていた給仕係だったらしいからね?さて待っている間に話を進めようか・・」


「そ、そうなんですね・・なんかすみません。見た目で色々判断してしまいました。先入観は捨てないと駄目ですね・・」


「いや、構わないよ。普通はあんな小さな兎がお茶を淹れる所なんて想像がつかないのも当然の事だ。ああ、そうだった、三谷君が生まれてきた理由がどうとか、言っていたね?まぁ、前にも少し話したが、自分は何の為に生まれて来たのか、この永遠に解決しそうにない問い。誰しもが考えた事があるのではなかろうか。これも、ちょっと科学的と言うよりかはスピリチュアルな話になってくるんだ・・」


「・・は、はい。スピリチュアルですか・・」


 ・・あれ?奥の部屋から紅茶の香りが漂って来たんだけど・・気のせいじゃないよね?って事は本当にラビスさんが準備してるのか・・どんな風にお茶を淹れているのか・・ちょっとだけ、見てみたい気がする・・。


「ああ、そうだ。よく言われているのが、この地球に生まれてくる前の魂は、あらかじめ自分が地球に生まれてから死ぬまでに、何をするのかという壮大な計画を立ててから、生まれてくるそうなんだ。この人生の計画書の事を、まぁ、色々な呼び方があるが、ここではブループリントと呼ぼうか。それを計画してから、我々は生まれてきている」


「人生の計画書・・ブループリントですか・・」


「いつの時代、何処の場所、どの国、海がある、山がある、寒い地域、暑い地域、どんな家、どんな両親だったら、今生で己がするべき事を安心して遂行出来るか。性別は男か、女か、どんな容姿がいいか、どんなハンディキャップを背負うか、例えば視力が悪いとか、病気になりがちとか、いつ結婚するとか、独身を貫くとか、色々と細かく決めてね」


「そんなに決めてるんですか?・・凄いですね・・でもその計画書を見る事が出来れば、悩む人も減るんじゃないんですか?自分の進むべき道が分かった方が、寄り道なんかしなくても、真っ直ぐ迷わず、目標に迎えるじゃないですか・・」


「ああ、その通りだ、三谷君。もしブループリントを見る事が出来れば人生は明るく、楽しいモノになる・・が、残念ながら、この地球に生まれた瞬間に、母親の子宮から生れて、最初の産声を上げた時に、あらかじめ決めていた計画書の事をすべて、まるっきり忘れてしまうんだよ」

「えっ?ど、どうしてですか?」


 ・・せっかく、計画したものを全部忘れてしまう?なんで、わざわざそんな事を?だったら意味無いじゃんか・・。


「ふむ、それはね、三谷君。・・からだよ・・」


「えっ?つまらない?何がです?・・もしかして人生がって事ですか?」


「その通りだ。三谷君。もしブループリントの事を憶えていたら、この地球で体験する、ありとあらゆる出来事に新鮮さが無くなり、とても色褪せて見えるだろう?物語の結末を知っていてるのと、知っていないで、ワクワクしながら映画を鑑賞するのとでは、感動の割合が雲泥の差だ。まぁ、結末を知っていて、何回鑑賞しても見飽きない映画もあるにはあるが・・皆が皆、自分の人生の物語の主人公なんだ・・限りある人生で何をするのか・・結局のところ、ある程度の運命は決まっているが、運命と言うのは性別とか生まれる場所とかだ。そこから自分の人生は何をしても自由なんだよ。計画があろうが無かろうが、自分が選択した道が正解なんだ・・」


「選択した道・・ですか・・確かに小さい時はそれでいいのかもしれないですね・・。でも大人になって社会に出てみると・・色々仕事の責任とかも取らないといけなくなります・・会社とかだと、自由奔放になんて、なかなか、出来ないですよね?上司に言われた仕事をきちんとしないといけないし。同僚のミスも後輩の仕事も、全部リカバリーしないといけなかったですし・・」


 夏樹は、会社で働いていた時の事を、思い出していた。あまりいい記憶ではない。考えただけで、吐き気がしてくる。そのくらい仕事が辛かったのだ。今思えば、どうしてあそこまで必死に働いていたのか、理解出来ない。もっと、同僚や、上司、後輩を頼ればよかったと、今になって気が付く事もある。別に、少し仕事の納期が遅れたくらいで、死んだりはしないのに。あたかも、そうであるかのように、自分自身を駆り立てていた。

 ・・何度もこれで良かったのか、この進路で良かったのか、あの時もっとこうしてれば・・とか、後悔してばっかりだったなぁ・・。


「会社の中ではそうだろう。そういう組織なのだから。まぁ、いうなれば社員とは、替えがある使い捨ての、消耗品と同じだ。いくらでも替えがある。使えなくなったら、別の部品に取り換える。実に合理的だ。そうやって会社と言う大きな船を動かす。そうやって会社は進んで行く。まぁ、いいところも、悪い所もあるという事だな。社会でいう所の責任なんかも、本当は自分の人生に、自分の選択に責任を持つという事が一番大事なんだ。それが責任だ。・・学校とかで、輪を乱してはいけません、とか、他人の迷惑になる事はしてはいけません、とかの教えは、我々が持っている内なる神聖を隠してしまうものなんだよ。勝手なことをすると、皆が困るぞ、迷惑をかけるんじゃない、とかね?すべては従業員として働くとしたら必要な事だ。まぁ、幼い時はそれでいいのかもしれない。これから新しくプレイしようとしているゲームだって、ボタンの操作の仕方が分からなければ、意味が無いだろう?幼い頃に周りの大人から、この世界のルールを教えてもらっているんだよ。こんなふうに、生きていくんだよ?とね。それもある程度は大事な事だ。だってその不自由さも含めて、楽しむ為に我々は生まれてきているのだから。ただ、成長するにつれて、親や先生から、お前はダメな子だ、テストの点が悪い、言う事を全く聞かない、あの子は良く出来るのにうちの子はダメ、お前は何も出来ない、成績が悪い、などと、ひたすらに言葉と言う、ダメ出しの連続ジャブ・・暴力・・と言うか暗示・・いや呪いを聞かされ続けると、自己肯定感の低い人格が形成されてしまう。自分はダメな奴なんだと。実際、それだけですべてが悪いダメ人間だなんてことはない。勉強が苦手でも、運動が得意だったり、絵を描くのが得意だったり、歌うのが好きだったり、出来ないところに目が行き過ぎなんだ。そうして、本来の計画書どころか、人生そのものが嫌になってしまう場合もある。実に今、こういう自己肯定感が低い人が本当に多い・・ああ、ちょうど。ラビスがお茶を持ってきてくれたようだ」


「はいはい~、お待たせ~。うち自慢の紅茶なんよ?」


 奥の部屋から、「キュルキュルキュル」と音が聞こえてきた。ラビスが緑色のラジコンのトラックの荷台に乗って、お盆を持って、現れた。器用にお盆を小さな手と頭で支えている。お盆の上にはカップが二つあった。海月先生の椅子の近くに停車すると、持っていたお盆を海月先生に渡すラビス。海月先生は、有難うと言いながら、下から持ち上げられたお盆をそっと受け取る。そして夏樹の目の前にカップを置いてくれた。


「あ、どうも・・有難うございます・・」


 ・・本当にラビスさんがお茶を淹れたんだ・・凄いなぁ・・。お盆を運んでる姿が、ちょっとだけ可愛いと思ってしまったぞ・・。


「飲んでくれたまえ。実に美味しいぞ?えっと、なんだったか・・ああ、そうだな・・昔はそれで良かったのかもしれない。戦後まもなくは、人も物も無かったから、当時の人々は、その日を生きるのが精いっぱいだった。だから、同じような環境で、力を合わせて、歩幅を揃えて一致団結して、進まなければ、到底乗り越えらる局面では無かったんだ。勉強なんかよりも、田植えの仕方だったり、兄弟姉妹の面倒をみたりだとか、家のことが忙しく、学校に通えない子供もいた。少しでも足並みが揃わなければ、途端にそこから崩壊しかねない危うい状況だ。だから同じような教育を幼い頃に受けて、ひたすらに生活水準を戦前、いやそれ以上に上げなければならなかったんだ。そこに尖った個人の能力はいらない。ある程度人並みに仕事が出来ればそれで、何とかなっていたんだ。なにせ、物や食べ物が無いからね。余裕が無かったと言えばいいかな?」


「・・今では、食べ物が無いとか・・あまり考えられませんよね?・・コンビニとかスーパーマーケットに行けば、なんでも買えちゃいますもん。それに働き口も沢山種類があって、会社も沢山あって・・今は学力で決められてしまいますよね・・大学とかも競争しなければいけないし・・」

 夏樹は視線を下に移した。カップに注がれたままだ、湯気が出ている紅茶を眺める。茶色と言うより少し赤みがかった綺麗な色だ。夏樹の元気の無い、覇気の無い、顔がこちらを見返してくる。


 ・・何かにつけて、他人と自分を比べなければいけない。そんな競争社会。勉強が出来なければ、己のすべてを否定される。そんな学校時代。奨学金の為に、バイトをしながらキャンパスライフを送る大学生、専門学生時代。結局社会人になっても、奨学金の返済に追われる毎日。もはや何の為に働いているのか分からない。こういう人生を負け組って言うんだろうか・・そもそも勝ち負けってなんだ?誰に勝って、誰に負けた?・・僕たちはいつから他人の評価に一喜一憂するようになったんだろう?・・誰に認めて欲しいんだ?・・どうして面接官の人に色々駄目出しを言われなければいけない?どうして、自分を誤魔化してまで、誰かの機嫌を取らなければいけない?・・他人が僕の人生を決めるのか?・・。これも勉強が出来ない奴の甘えだって笑われるのか?・・。何が幸せなんだろう?いい大学に入って、いい会社に入社して、結婚して、家庭を持って、定年退職まで働いて、老後を自由に生きる。そもそも、老後にならないと自由に生きてはいけないのか?誰が決めた?それが幸せなんだろうか?・・僕だって・・それなりに頑張って来た筈なのに・・心も体も・・何だかボロボロだ・・。無理してたんだ・・。触ったら崩れてしまいそうな、そんな心・・いやそう感じる心すらも、今は空っぽだ。何も感じない。感じる事が出来ない・・。穴が、暗い穴が無限に広がっている。ただの闇しかない・・虚無しかない・・。虚無は無いモノなのに、どうして虚無が有るって分かるんだろう?無い事を感じている?じゃぁその感じているモノはなんなんだ?僕の心?それとも脳みそ?ああ、駄目だ。分からない・・。


 夏樹は暗い顔で見返してくる自分の顔を、かき消すように一気に紅茶を飲み干した。フルーティーな味だ。海月先生も紅茶を飲んでいた。ゆっくりとカップを机に置く。


「ふむ、競争か・・。それでお互いが高めあえればいいのだが・・。勉強とは本来楽しいモノだ。特に大人になって、興味のある事をもっと知りたい、理解したいと思った時とかね。やはり興味が無ければ、無理やりやらされる勉強は苦痛でしかない。まぁ、それで色んな事に興味を持つ事もあるかもしれないから、やらないよりかは、学校の勉強はやった方がいいのかもしれないな。・・ちなみに私は数学が苦手だったね・・特に物理とか。受験とかは、それはもう苦労したよ・・。計算が昔から苦手でね、もう電卓があればいいじゃないかと投げ出しそうになった時もあったな・・いやぁ、懐かしいね・・」


 海月先生は少し遠くを見ている様だ。ほんの僅か、微笑んでいるようだった。過去に記憶を馳せているのだろう。まぁ、見た目が小学生くらいにしか見えないので、何と言うか、不思議な感じがするのだが・・。


「話を戻すが、今はモノも食も余るくらい溢れている。情報もすぐに手に入る。高度経済成長を見事成し遂げた。今と昔は違う。かなり恵まれている。だから誰かと足並みを揃えなくてもいい。十分に先人達が頑張ってくれた。感謝しないといけないんだ。今の時代はある程度のモノは最初から揃っている。苦手な事を克服してもそれは、周りから見れば普通の人だ。人並みに出来るというくらいの認識にしかならない。量産品だらけの世界で、どうやって己と言う個を大事にするのか、それはとっても簡単な事だ。自分の得意な事を、もっと伸ばせばいい。好きを極めればそれは、いつしか人とは違った輝きを放つようになる。自分が苦手な事は、それが得意な人を頼ればいいんだ。自分がやるよりよっぽど生産性が上がる。そして、信じられないかもしれないが、その尖った才能を必要としてくれる人が現れるんだ。初等教育も、もっと個性を大事にした方がその子の将来の為になるんじゃないかと、私は思う。必要最低限の読み書きや、買い物が出来る程度の計算力は無論必須だが・・。個性を消して皆同じ型に嵌めて、何でも言う事を聞く、物分かりのいい人材を作るのではなく、それが良かった時代もあった。だが、それぞれがそれぞれの得意な事を、もっと伸ばせるようなそんな環境が今は、重要だと思うね。これからはそういう個性、個人の時代だ。学びたい事があって大学や専門学校に行くのはいいと思う。ネットで受講できる事も沢山あるし、興味がある事はその辺りで調べてみてもいいかもしれない。それだと学校に行く意味が無くなるのかもしれないが・・まぁ、これは私の単なる理想論でしかない。理想というか、願いだな・・。少しだけでもそういうカリキュラムがあるといいと思う。しかし個人個人にそんな事をしていたら、教員は大変だろうね?もちろん今の教育が悪いとも言えない。いい大学に入って、いい会社に就職して、結婚して所帯を持って、老後まで安定した生活を送りたければ、それでもいい。それが良く言われるテンプレの人生だな。それも個人の選択の自由だ。しかし、働き方も多様化してきているからね?会社に勤めるのがすべてではないと思うよ。今は大企業に就職出来たからと言って、一生安泰かと言うと、そうでもない。明日にでも倒産するかもしれない。そういう事を今、考えても仕方ないが、ただ、私はこの世界の中で、ルールの範囲内で、私の出来る事をする。それだけだよ」


「・・個性ですか・・昔は無かったスマホとか、動画配信とかSNSもそうですよね・・インターネットの普及で、色んな情報を手に入れる事が簡単になって世界が広がった。そう考えると、便利になりましたよね・・昔の人たちが、色々と勉強して、試行錯誤を繰り返して、実験して、色んな発明がされてきたんですもんね。人間って凄いです・・。僕は先生の理想はいいんじゃないかと・・むしろそっちの方がいいと思います・・」


「そうか、共感してくれて嬉しいよ。ふむ、まぁそうだな。もっとこうしたらいいとか、もっと楽したいとか、こうしたら効率がいいとか、離れた相手と連絡を簡単に取りたいとか、食料を長く保存したいとか、それらは、飽くなき探求心が生み出したものだ。全ては良かれと思って発明された事。全ての発明は善意から始まっているんだと思うね。その道具を、方法を良い事に使うか、悪い事に使うかは、その人間次第だが・・」


「・・善意からだと・・素敵ですよね・・戦争のお陰で、科学の技術力が上がったりとかって話も聞きますけど・・」


「ふむ、そうだな。今我々が使っている日用品や家電なんかも元々は軍事品から、技術が流れてきた物も多い。色んな考えがあるが、私はそうであると信じたい・・まぁ、まとめると、この社会のシステムを楽しもう、くらいの感覚でいいじゃないかな?・・ふふっ、これだけ語っておいて、楽しもう!、じゃ、ゲームのルールに対して怒るのではなく、ゲーム自体を難しく考えずに取りあえずやってみようと言っているのと同じだ。これくらい軽く考えてみても、いいのかもしれないね?・・さてだいぶ話が逸れてしまったが・・三谷君。心の準備はいいかね?」


「え?は、はい?・・はい!」


 唐突に話が変わったので、一瞬何を言われたか分からないかった夏樹。

 ・・世界に対して怒るのではなく、その世界のルールで遊んでみたらいいいのでは?・・か。そんな事、考えた事も無かったなぁ・・。ずっと今の自分の現状は、会社が悪いとか、無能な上司のせいだとか、助けてくれない国のせいだとかって思ってたけど・・楽しむか・・。モノは考えようってヤツかな・・。悪くない、むしろいいのかも・・。


 そんな事をしみじみ考える夏樹。それはさておき、恐らく心の準備とは、リベレイターになる心の準備の事だろう。何だか頭が色々とぐちゃぐちゃしているが、夏樹の決心は固かった。


「ふむ、いい返事だ。じゃぁ、ここに契約書があるから、日付と名前を記入してくれたまえ」


 そう言うと海月先生は、一枚の用紙を夏樹に渡した。


「・・あの、結構、事務的なんですね?・・もっとこう採用試験みたいなものが、あるのかと思ってましたけど。特別な儀式みたいのとかあったりもするんですか?」


「うん?ふむ、まぁそうだな・・昔は色々面倒な手続きが、それこそ儀式みたいなものがあったんだが・・時代にそぐわないから、かなり撤廃した事柄が多い。リベレイター自体、今ではかなり少なくなっているからね?これからの事は、後で話そうと思っていたんだが・・採用期間のようなものもあるにはあるし、試験のような物もある。まぁ、それは追々、説明しよう」


「はい、分かりました・・」


 夏樹は契約書の文面を読んでみた。シンプルに(私は、リベレイターとなりカラミタの脅威から人類を守ります。)と書かれているだけだった。そこまで大した内容ではない。夏樹は、名前を記入した。そして海月先生に契約書を渡した。それを手に取り、海月先生は机の上に置く。


「ああ、そうだった、我々の組織名は「スズラン」と言う。公になっていない非公認の組織なんだ。まぁ、確か意味があって、スズランの花言葉は再び幸せが訪れる、だったか、人類に再び精神的な安寧が来るようにという想いが込められているそうだ。・・確かそうだったはず・・名前だけ覚えておいてくれ。あまり気にしなくてもいい。ただ、自分がリベレイターだと人に知られてはいけない。そこは約束して欲しい。非公認の秘密組織だからね?」


「あ、でも、秘密組織って聞くとなんか、ワクワクしてくるやん?何でなんやろうな?魅力的な響きやなぁ?まぁ、話を聴く限り、中々面白い世界やん?このうちらが今いる世界は。しかし、笑えるくらい過酷なんやなぁ・・。うちらの世界の方が、まだマシ、なんかもしれんな?うちらは生まれた時から役割が決まってるもんな?・・ひつぎんはどう思う?この世界の事は?」


 唐突にラビスが会話に加わってきた。いつの間にか海月先生の目の前に座っていた。二本足で体を支えて、上体を起こしているので、座っているというより、立っているのか?耳がぴょんぴょん動いている。ひつぎは意外にもその質問にボソボソと答えた。


「ゲームは・・難しい方が、楽しい・・」


 くぐもった返答が返って来た。あはは、と笑いながらラビスがお腹を抱え体を揺らしながら笑っている。


「ぷっ!本当に、せやな!簡単にクリアできるゲームほどつまらんものは無いもんな?あはは!人間も中々、物好きやなぁ・・こういう時は何て言えばいいんやろうか・・あ、酔狂?自分で、わざわざ計画書の事忘れて、思い出すために生きてるんやろ?この世界は楽しい事ばかりやないのに。辛い事も沢山あるんに、そもそも思い出すかどうかも分からんのに、かなりの縛りプレイやん・・ドMやん。うちはそこまで自分を縛らんでもいいと思うんやけどなぁ・・・。まぁ、でもそこが人間の面白くて、可愛い所なんかもな・・そういう闇な所も、うん!・・好きやで?」


「ふむ、ラビス。そろそろ紅茶のおかわりを頂こうか?この話をすると、量子力学の話まで行くから、キリが無いのでこの辺りにしておこう。人生はすぐにクリアする事の出来ない、難易度MAXのゲーム。因みに難易度を下げる方法もあるにはあるが・・それはまた今度だな。そう考えると人生に対しての見方が少し変わってくるのではないかな?どう進むべきかは至る所に宇宙からの、神様からのヒントで溢れているんだ。ただあまり躍起になって探しても簡単には見つからない。全ては表裏一体。ゴールはスタートに有ってスタートはゴールに有る。入り口は出口に有って出口は入り口に有るんだ。答えは外には無い。自分の中に有るんだ。自分自身との対話。内なる神との対話。まぁ、瞑想をおススメするよ。気が向いたら色々ネットとかで調べてみるといい」


「瞑想ですか・・分かりました。帰って早速調べてみます・・」


 ・・答えは全て自分が知っている・・何だろう・・今までそんな事考えた事無かったな・・海月先生は何でも知ってるなぁ・・考えて無かった自分と、最初から言われなくても、その事を知っている自分が居るような・・不思議な感覚だ・・。


「瞑想の事はとりあえず置いといて、早速だが本題に入ろうか。一週間後の日、模擬戦をしてもらう。相手は、こちらが選んだ同じリベレーターだ。なにせ人手不足でね。なるべく早く三谷君を、立派なリベレイターに育てなければならない。唐突で本当にすまない。模擬戦と言っても、どの程度の力があるのかを確かめるための、言わば、三谷君のエニグマ、ひつぎ君の性能を確かめるためのものだね。なに、そんなに身構えなくても大丈夫だ。リベレイターになると決心してくれた時点で、ほぼ合格みたいなものだからね。他のリベレイターに新しく仲間が加わった事を知らせるためにも、三谷君がどんな力を持っているのか、皆で共有しなければいけないんだ。そこである程度の力を示してくれればそれでOKだ。なるべく丁度いい相手を探しておくよ・・」


「も、模擬戦ですか!・・そ、そうですか・・僕に出来ますかね・・まぁひつぎに頑張ってもらうって事になるけど、なんか、急にごめんね?ひつぎ。こんな事になってしまって・・」


 ・・ひつぎにも色々と事情があるだろうし、他の人に能力とか教えてしまってもいいのかな?・・まぁ、勿論仲間になる人達だから、そりゃ、お互いの能力を知っておかないといけないもんね・・。


「・・別に、問題ない・・力を示すというのは・・己の手の内を明かさなければいけない?」


 ひつぎが、海月先生に質問をしていた。海月先生は僅かに驚いたような顔する。少しの変化なので、本当にそうなのかは分からないが・・。


「ふむ、そうだな、我々は一応組織だから、個々の能力がどんなものなのかをある程度は把握していないといけないんだ。何故なら、いざ、という時に判断が遅くなってしまう。その僅かな時間が命取りになってしまう事があるからね。なるべくそういう状況にならないのが一番だが。全てを完全に出し切れとまでは言わないが、手を抜いて勝てないのであれば、それこそ、本末転倒だ。試験の意味が無い。対戦相手は、まだ決めてないが、ほとんど決まっている。中々の戦士だよ。危なかったら審査員が止めるだろうから、ほどほどの全力で戦って欲しいところだ。・・・ふむ、そうか、まぁ、実のところを言うと、仮に裏切られてしまった時に、弱点とかが分かればある程度は対処が出来る為という側面も、あるにはある。酷い話で申し訳ない。これでは君たちが裏切る前提になってしまうな・・」


「いや、でもそれは逆に、信頼を得るという事になりますよね?」


・・やっぱりそういう側面もあるよね・・。僕も海月先生の立場とかだったらそうすると思うな・・。でもハッキリ言ってくれた方がこちらとしては心構えが出来ていいけれど・・。


「ふむ、こちらから勝手に話を振っていて、申し訳ないと思っている。もちろん、三谷君の言うように信頼を得るという事も重要だ。・・己の能力を披露するというのは、同時に弱点をさらけ出す事にも繋がるからね?ひつぎ君にとっては勝手に人間が決めたルールだ。不快に思っても仕方ない事だ・・・。・・だが、私は、私達は決して君たちを裏切ったりはしない。この約束だけは、私の命に代えても守るつもりだ。私を、私達を信じてくれないか?・・ふふ、まぁ、滅多に面と向かってこんなセリフを言う機会なんて無いから、少々恥ずかしいね・・」


そう言うと、カップを口に運んで一口啜る海月先生。


「カッコイイやん?海月ちゃん!流石やん!せやで、他の奴らは知らんけど、うちらは絶対にみたにん達を裏切ったりせんよ!」


ラビスも同意している様子だ。ぴょこぴょこしている。


「・・別に、不快ではない。そもそも、自分に秘密にするような力なんて無い。相手をただ食べるだけ、だから。まぁ、仲間なのなら、ある程度は加減は・・すると思う・・それより夏樹は大丈夫?・・きっと自分の事で手一杯だから、夏樹まで完全に守り切れるとは断言出来ない・・その辺りは正直に言うと、少し不安・・」


「えっ?ひつぎが、僕の心配をしてくれているの!そっか、あ、まぁ、パートナーだからか。う~ん。確かに僕はどうやって戦えばいいんだろう?先生、僕も戦闘に参加するんですよね?でも僕は、今までで、子供の頃、同級生と口喧嘩をした時くらいで、殴ったり蹴ったりなんて、した事無いんですけど・・自分で言うのもアレですけど、ヒョロヒョロですし・・」


 その辺り、一体どうやって夏樹は戦えばいいのか、普通に考えて、武道とか、ボクシングとかをやっていたのなら、なんとなく戦うというイメージが沸くのだが、夏樹は今までの人生で、そんな習い事などは一切やっていない。体形はやせ型の猫背気味。よくある現代の若者という風体。それに加え、美容院にも散髪屋にも、半年程行っていないので、髪も伸び放題である。前髪は伸びすぎて、目が隠れるくらいまで伸びていた。ハッキリ言ってボサボサである。


うつのせいで、スーパーマーケットのレジの店員さんと会話するのも億劫なレベルなので、会話とは「〇〇〇〇円になります。袋はどうしますか?」から、「袋は持っているので要りません」たったこれだけでも、もうキツイのだ。


美容院になんぞ行ったらそれはもう、地獄だ。初めに「今日はどんな感じです?」から「あ、いつも通りのヤツでお願いします」これは言わないといけないから頑張って話す夏樹。とてもいい美容師さんなのだが、色々話題を見つけては夏樹に話しかけてくるので、その返答に追われ、体力の半分は削ってしまう。仕事だから仕方無い事だが。それプラス精神力もマッハで無くなっていくので、美容院からカットが終わって出てくる頃には、相当に憔悴している夏樹。疲れるのが怖くて中々、行けないのだ。


海月先生は、ラビスからおかわりした紅茶を飲んでいた。ゆっくりと、カップを机の上に置く。


「ふむ、そうだな・・今回の模擬戦はあくまで、ひつぎ君の能力を確かめるものだ。当然ながら、いきなり戦闘未経験の素人に戦えと言うのは、あまりにも酷な事。私でも無理だ。詳しく話してしまうともうキリが無いから、リベレイターの能力や戦闘方法は、ざっと説明しよう。三谷君、紅茶のおかわりはどうかね?」


「あ、えっと、はい。お願いします・・」


 海月先生が、机の上に置いてあるポットに手を伸ばし、夏樹の空になったカップに熱々の紅茶を注いでくれた。


「リベレイターが、相棒のエニグマと戦うには、大まかに二つのパターンに分けられる。エニグマが自分の意志で戦う自動タイプ。そしてエニグマが何らかの武装になって、リベレイターがそれを着用、または武器として戦う装備型。三谷君の場合は前者の自動型だろうから、極論を言うと、ひつぎ君が戦うのを見てるだけでいい」


「み、見てるだけでいいんですか?」


 ・・それは確かに楽だけれど・・なんかちょっと、ひつぎに悪いような気がするなぁ・・。でも、戦えって言われても僕には特に何も出来る事が無いのだけれども・・そっちの方がお互いにとってもいいのかな?・・。


「厳密に言うと、相棒がお腹が空いて動けなくならないように、自分自身の精神エネルギーを、戦闘中は供給し続けなければいけないんだ。体力も大事だが、今回は精神力の方がより重要という事だね・・」


「戦闘中に、精神エネルギーを供給し続ける・・って、どうすればいいんですか?精神エネルギーがもし無くなったりした時って、僕はどうなるんです?」


 ・・え?何か、結構大変そうなんだけれど・・元気な時ならまだしも、気分は常に下がり気味だし・・そんな状態でひつぎを支える事なんて出来るのかな?・・大丈夫かなぁ・・。


「ふむ、そうだな、よくRPGのゲームのキャラクターなんかで、HPとMPがあるだろう?HPはヒットポイント、体力だ。MPは魔法を使う時とかに消費される、マジックポイント、マジックパワーなどと呼ばれるモノだ。分かりやすいように、MPはここではマインドポイントとしよう。意味は精神力だ。これを消費し続けると、人はうつになる。心が、感覚が虚無になる。普通の人間にも、HPとMPがあり、この二つのバランスがとても重要になる。どちらかが不調だと、とたんに体調を崩してしまうんだ。健全な精神は、健全な肉体に宿る。これはよく言われることだが、本当に的を射ている言葉だ。運動することは実にいい事なんだ。つまり体力をつければおのずと、精神力も強くなる。精神力が強くなれば、自信がつく。自信がつけば、自己肯定感も上がって、自然とやる気が出てくる。正にいい事尽くしだ・・心配しなくとも相棒との絆があれば、精神力が無くなる事は無いだろう。仮に無くなってしまっても、死ぬという事にはならない。せいぜい気を失うくらいだ・・」


「そうなんですね・・それを聞いて少し安心しました。そうですよね。自分の相棒を信じとけば、問題無いですもんね・・」


「大丈夫・・全部食べたりしない。夏樹が死んだら困る・・」


 ひつぎがフォローしてくれたようだ。なんだかんだで、ひつぎは夏樹に対しては、優しいというか、律儀だ。


「ふむ、ひつぎ君もこう言ってくれているように、その辺りは心配しなくてもいいだろう。詳しい日時と場所は、この紙に書いてあるから一度目を通しておいてくれ。・・今日はもうこんな時間か。三谷君、お疲れ様。今日の診断はこの辺りにしておこうか。ゆっくりと、うつを治していこう。それと、よくリベレイターになると決心してくれた。本当に有難い。組織を代表してお礼を言わせてくれ。君は世界を救う、救世主だ。これからの活躍、大いに期待させてくれ。本当に有難う。三谷君・・。あ、そうだった。今、服用している薬は大丈夫かね?気分が悪くなったりとかは無いかな?もしそんな症状が表れたら、すぐに教えて欲しい」


「えっと、特にこれと言った問題は無いですね・・体調とかも悪くないですし、食欲もありますし・・後はそうですね・・軽く運動します・・ずっと部屋に籠りきりだったので・・」


「ふむ、そうか、それは良かった。まぁ、運動は無理のない範囲でやってくれたまえ。怪我でもしたら元も子もないからね?焦らず少しづつ今、自分が出来ることから始めていこう。診察代と薬代は組織が支払う事になっているから、その辺りは心配しないでくれ。もっと報酬金を払いたいのだが、組織自体にあまりお金が無くてね・・その辺りは、いずれどうにかするつもりだ。やはり対価が無いとやる気も出ないからね・・」


「え?いいいんですか?有難う御座います。あ、じゃぁ今日はこれで、失礼します。リベレイターとして何処まで出来るのか分からないですけど、精一杯頑張りたいです。よろしくお願いします・・」


「うん、うん!みたにんやったら、絶対大丈夫やん?うちらと、頑張ってこうな?あ、もちろん、ひつぎんもな?」


 いつの間にか、ラビスが机の上にいた。結局どうやって、紅茶を準備してくれたのか謎のままだったが。それはいつか分かる時が来るだろう。


「ふむ、そうだな、試験についてだが、アドバイスとしては、今よりも、もっと相棒と仲良くなっていると、戦闘では有利になるとだけ言っておこうか。能力なんかもどんな攻撃が出来るのか攻撃範囲はどれくらいまでとか、その辺りは三谷君自身が把握してなければね。作戦を練るのも悪くない。しかし、相手が誰か分からないから、それは無理か・・。まぁ、心配しなくても試験自体は、通過儀礼的なモノだから、落ちたりはしない。健闘を祈るよ。もし来れなくなったりした時は、数日前までに連絡してくれると助かる。日時をまた決めなおすからね。出来れば予定を入れないでくれるといいのだが、まぁ不測の事態は起きたりするものだからね。念のための確認だ」


「はい。分かりました。今の僕には、特にこれといった予定なんて無いので大丈夫だと思います。何とか頑張ってみようかと・・では、これで、今日も有難うございました・・」


 夏樹は椅子から立ち上がり、海月先生とラビスにお別れの挨拶をしてから、海月メンタルクリニックを出て、帰路に就いたのであった。一週間後の模擬戦・・と言うより、ひつぎの能力テストのようだが、一波乱ある事を、この時の夏樹はまだ知らない。

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