第4話
海月先生のメンタルクリニックに診察に行ってから、一週間が経過していた。夏樹はまだ、リベレイターになるかどうかを悩んでいた。その間はカラミタに遭遇していない。と言うより、なるべく外に出ないようにしていた。出れば、視えてしまうからだ。背中に黒い靄を抱えた人達が・・。ご飯を買いに行こうと、スーパーに行くのはいいのだが、年齢、性別問わず、カラミタに憑りつかれている人をよく見かけてしまう。いや、今まで意識していなかっただけで、本当はもっと前から気が付いていたのかもしれない。たまたまなのか、動物や植物のカラミタは見かけない。やはり、ラビスが言っていた様に、中級のカラミタは中々出会えないのかもしれなかった。外側からの情報が多いと、とても疲れてしまい、その日はもう、一歩も外に出る事が出来ない。
だから、テレビなんかも一切見ない。アニメも少し前までは、沢山見ていたのに。ネットも同じ。見たとしても内容が頭に入って来ないからだ。でも、それでも、何もしなくても何故か、お腹は減ってしまう・・。ただ、ベットの上で寝ているだけなのに、激しい運動をしている訳でもないのに・・。生きている、ただそれだけで、お腹が空いてしまう。二日間何も食べなかった時があったが、空腹の限界に負けて、外出した。牛丼のチェーン店で、大盛を三杯も食べてしまった事もあった。我慢していた反動だったとはいえ、流石に食べ過ぎたので、帰り道は、吐きそうになりながら、歩いたのを覚えている。たまに、食欲が爆発するのだ。でもずっとではなく、トマトジュース一杯だけで、一日を過ごしてしまう時もある。バランスが崩れているのだろう・・。
今日もお腹が空いてきたので、近くのスーパーにお弁当を買いに行こうかどうかを悩んでいる夏樹。
・・やっぱり、改めて思うけれど、本当にうつは辛いなぁ・・。
やる気というか、何かをしようという気力そのものが出てこない。
そもそもベットから起き上がれないじゃんか・・。
でも流石にお腹空いたしなぁ・・。
薬を飲んでいるお陰で、大分マシになった気はするけど、人が多くいる場所はやっぱり、苦手だなぁ・・。
低級のカラミタも、そこそこ視えるし、僕のエニグマが、食べてくれているのだろうか・・。
あんまりエニグマは気にならない・・。
物凄く静かだし・・ベットの近くに居ても、ほとんど気配がしないから、有り難いと言えば、有り難い。たまに、急に現れて、びっくりする事はあるけれど、僕に危害を加えるような事は全くしてこない。会話が出来ればいいのかもしれないけれど、それはそれで、流石に頭がおかしくなったのかもしれないから、僕からは話しかけてない。もう色々末期なんだろうけれど・・。
矛盾してる。誰かと他愛のない話をしたいと思う反面、人とは会いたくないし喋りたくも無いと思っている自分がいる。どっちなんだろう?・・分からない・・。
夏樹は一旦ベットから起き上がったのだが、またすぐに横になってしまった。時刻は丁度お昼になるくらいだ。窓から射す光が少し強めだ。毎日同じ天井を見上げる。無地の白い天井。ずっと眺めていたから、うっすらとシミのような物も形を憶えてしまったし、観察しても形が変わらないのも知っている。ふと横に視線を移すと、いつから居たのか黒くて四角い棺桶のような物が佇んでいた。夏樹はある事を思い出した。
・・そう言えば、海月先生が自分のエニグマに名前を付けてみたらとかなんとか言っていたような?・・ペットでもあるまいし、勝手に名前を付けていいのかなぁ・・。ここは思い切って話かけてみようかな・・。
「あ、あのさ・・げほっ・・」
夏樹は上体を起こして、黒い棺桶に向き合うように座る。久方ぶりに口を開いたので、声が掠れてしまい、咳が出てしまったのだ。思わず近くに置いてあった、ペットボトルのお茶を飲み、喉を潤した。
「・・ふう、・・君は名前とかってあったりするの?」
返答を待っていが、暫くしても黒い棺桶は何も喋らなかった・・。
「まぁ、そうだよね・・とうとう僕も頭おかしくなったのかな・・こんな得体の知れない物に話しかけるなんて・・ははは・・」
「・・ルクルセイユ・ジ・エキナセヤ・クレプスクルムレミナ」
くぐもった声が、聞こえてきた。まるで、箱の中からそっと話しているような感じである。少年のような、女性の声のような・・はっきりと区別がつかない。低い男性の声ではないのは確かだ。
「ふ~ん、るくるせいゆ・・じ・・えっ?なんて?」
・・え?今、誰が答えたんだ?・・僕以外だよね?そんな呪文みたいな名前は到底思いつかないし、という事は、エニグマが答えてくれたのかな?それとも、聞こえないはずの声が聞こえてきて、とうとう頭がイカれてしまったかのどっちかだ・・。
「・・適当に・・呼んでくれて、いい・・名前、長い、から・・・」
夏樹は思考が止まったままだ。何が起こったのかすぐに理解できない。だが、無理やり脳が、思考が回転し始める・・。
・・この、エニグマって会話出来たの?・・あのゴマ太郎・・じゃなかった・・ラビスみたいに?・・知性があるのか・・まぁ、そりゃあ、王国があるくらいだから、そうかもしれないけれど。だったら、もっと早く会話出来たのでは?病院に行った時に色々話してくれれば、もっとカラミタについても分かったかもしれないのに・・。いや、それとも話せない理由があったのかな?・・人にも・・カラミタにも色々事情があるだろうし、それとも本当にシャイなのかもしれないし・・。
「えっと、とりあえず、話してくれて有難う。僕は三谷夏樹。なんだか改めて自己紹介をすると、少し恥ずかしいな・・そこそこ長い間近くに居たもんね・・」
・・そもそも会話出来るなら、そんなにこのエニグマの事を怖がらなくても良かったのではなかろうか?
「そうだ、えっと、るくるせいゆ・・じ・・えきな・・えっと・・」
「・・ルクルセイユ・ジ・エキナセヤ・クレプスクルムレミナ・・・」
「・・えっ、あ、ゴメン、今、記憶力も落ちてて、何回も言わせてゴメン・・昔は何かの名前なんて、すぐに憶えられていたんだけれど・・最近上手く頭が働かないんだ・・。メモ取ったから、えっと、ルクルセイユ・ジ・エキナセヤ・クレプスクルムレミナさん・・で合ってるかな?」
暫くの沈黙。そして、黒い棺桶はゆっくりと喋り出す。
「・・別に名前は、ただの、区別するための、音の、羅列にすぎない・・だから、呼びたいように、呼べばいい・・」
「ほんとに、ゴメン・・絶対覚えるから、暫くは・・えっとじゃぁ、棺桶みたいだから、「ひつぎ」って呼んでもいいかな?ニックネームって事で。何だか、物凄く和風な名前になっちゃったけれど・・」
・・名前、長いなぁ・・なんだか、昔教科書に載っていた、じゅげむじゅげむごこうの・・みたいな感じの話、あったよね・・あそこまでは長くないけど・・あれは確か、お坊さんに有り難い名前を付けてもらんだったっけ・・あれ?でも、エキナセヤって、花の名前だったような・・?
「・・ひつぎ・・別に構わない・・短くていい。それに、少し、気に入った・・いい感じの音・・」
「そ、そっか、それは良かった・・」
思ったより、気に入ってくれたのかな・・だったら良かった・・でも、久しぶりに会話が出来て、ちょっと嬉しいなぁ・・。孤独は人を駄目にするって言うけれど、あながち間違いじゃぁないのかもしれない・・。まぁ、でも人間は、というか僕は、今は人混みとか、満員電車とか、人が沢山いる場所は、人の波に酔ってしまうから、嫌だけれど、かと言ってずっと一人で居るのも嫌だって思っている自分も居るからなぁ・・。海月先生が言っていたように、バランスが大事なのかも・・。
「あ、あのさ・・確認したい事があるんだけれど、いいかな?ひつぎはカラミタで、僕の精神エネルギーを食べているんだよね?」
「・・そう」
「だとしたら、他のカラミタを取り込んでるのは・・僕のエネルギーを横取りされたくないからなのかな?」
ひつぎは暫く黙っていた・・。何かを考えているのだろうか・・表情などがあればいいのだが、目の前にあるのは黒い大きな棺桶っぽい箱だけ。
「・・それも、ある、けれど、最近他のカラミタ達が、異常に人間界に来ている・・昔は、そんなにカラミタは居なかった・・ただ、この世界と、ハオスを結ぶ門が、大きく開いてしまって、沢山来るようになったって聞いた・・。だから、試しに人間界に来てみたら・・確かにこっち側から見ても異常に、カラミタが多い。そんなに沢山、いっぺんに、食べたら、食料がすぐに尽きて我々は、絶滅してしまう・・」
「・・そ、そうだったのか・・」
・・海月先生も似たような事を言っていたような・・あまりにも多すぎるとかなんとか・・。
「あの、黒い兎が言っていたけれど、王国があって、その中に貴族階級のカラミタも居る。そしてさらに、今は人間を、家畜だと思っている、過激派と、友好関係を築きたいと思っている、温厚派がいる。聞いた話によると、その過激派が、裏で糸を引いているのではないかと・・でも、証拠がない・・」
「という事は、ひつぎは、温厚派って事なのかな?すると、他のカラミタが食べ過ぎないように、見張っているって事?じゃぁ、低級じゃぁなくて中級くらいの強さなんだね?同級は食べないってラビスが言っていたからそうなのかなって・・じゃぁ、こっちで言う所の警察官とか、裁判官みたいな感じの役職なの?」
「・・まぁ、そんな感じ。低級の奴らは、何とか取り込めるけれど、形がしっかりしている、中級から上級の奴らは・・厳しい時が、あるから、気を付けて・・まぁ、そんなに心配しなくても、どうにかする、から・・」
「そうか・・つまり、ひつぎはバランスを取るためにやってきたって事なのか・・。あ、それで僕に憑りついているの?」
「・・それは、まぁ、たまたま、かな・・。たまたま、同調出来る魂・・波動の人間が、夏樹だったってだけの話・・こっちの世界に来たのは他にも目的があるけれど、今は知らなくていい・・」
急に歯切れが悪くなってしまうひつぎ。
「そ、そうなんだ・・たまたまか・・ん~っと、ひつぎが憑りついて、僕がうつになったのか、それとも、うつになってから、ひつぎが、憑りついたのかな?どっちか分かる?」
・・とっても複雑な気持ちだけれど、こういうところはハッキリさせとかないと後々面倒な事になりそうだからね・・。どんな答えだったとしても、今の僕には、ひつぎを恨むなんて感情は湧いてこないんだけど・・むしろ、お礼を言う方なのでは?・・。何回も助けてくれたみたいし・・。他の目的ってのも、少し気になるけれど、まぁ後で話してくれるだろう。
「それは、どっちも、そう。タイミングが一緒。ちなみに、憑りつきやすい人間は決まって、精神的なパフォーマンスが下がっている方が、我々からすると、楽に憑りつける。何故なら、文字通り、霊的な、ものに対しての免疫も下がっているから、分かりやすく言うと・・容易に心の隙間に入る込める・・そういうモノ・・まぁ多少なりとも、夏樹の精神エネルギーは、最低限貰っている。・・・恨んでくれても構わない。ただ、こちらで活動するには、どうしても、依り代が必要・・だから、協力してくれると、助かる・・後、最近は、夏樹が外に出てないから、カラミタを吸収出来て無くて、お腹・・空いてる・・なるべく夏樹からは、エネルギーを食べないようにしてきたけれど、ちょっと限界・・」
「えっ?そうだったのか・・そっか・・そういう事なら、僕のエネルギーでいいなら、食べてくれて構わないよ?それで、人助けになるのなら・・やっぱり僕もリベレイターになった方がいいって事なのかな・・。そうすれば、ひつぎの足手まといにもならないし、僕もどうやるかは知らないけれど、戦えたりするのかな?」
・・そもそも、リベレイターの事は全く知らないし、どんな事が出来るのかも分からない。でも、これも何かの運命なら受け入れて進むしかないのかもしれない。うつの症状も軽くなるとか言っていたし、先生が。まぁ、思った以上に、ひつぎが話せるカラミタで良かった。何か、目的、目標があれば、何とか日々を生きていけるはず・・。少し前はつまらな過ぎて、退屈過ぎて、夜な夜な、当てもなく彷徨っていたし・・。ちょっと散歩に出ようって思って、出かけたはいいけれど、道に迷って自分の部屋に帰り着けなくて、夜中の二時から、結局帰り着いたのは朝五時くらいだったなぁ・・。今実はちょっと筋肉痛だったりね。体の色んな場所が痛い・・。あんまり運動もしてなかったからなぁ・・。
本当にね・・眠たいんだけれど、ベットに横になっても寝れないんだよなぁ・・。そう言えば、自律神経が乱れているからとか、誰かが言っていたような・・規則正しい生活をすれば、ぐっすり眠れるようになるらしいけれど。そもそも、規則正しい生活が出来ないから。こうなっているんだよなぁ・・。薬も飲んでいるから、たまに急に、すっごく眠くなる時もあるし。やっぱりそこで寝ちゃうから、夜眠れないのかな?・・。
「・・わかった。・・じゃぁ、そうさせてもらう・・」
そう言うとひつぎは音もなく、棺桶の扉を開けて、その隙間から、病院で見た黒い影のような腕をそっと伸ばした。形からして右手だろうか、そのまま夏樹の右手を握手するように掴んだ。ヒンヤリとした感触だ。すると、夏樹に耐えがたい眠気が襲って来た。強制的に電源を切られたようなパソコンのように、夏樹の意識は暗い闇へと落ちて行った。
どれくらいの時間が経ったのか、夏樹の意識が、戻って来た。これは目が覚める前の感覚だ。もうすぐ夢から覚めて現実に意識が繋がれていく。体の調子はそんなに悪くない。今まで寝不足気味だったので、疲れが取れたのだろうか・・。肩も軽い気がする。ゆっくりと瞼を開ける夏樹。徐々に目の焦点が合っていき、部屋の中を無意識に見渡す。ひつぎは近くには居ないようだった。
・・そういえば、ひつぎは近くに居ない時って、何処にいるんだろうか?見えなくなっているだけ?それとも別の空間に居るとか・・まぁ、どうでもいいか・・きっと必要なときに出てきてくれるんだろう・・。でも、ひつぎは僕に気を使って、エネルギーを食べないようにしてたのか・・それでお腹が空いていたなんて・・。なんかちょっと悪い事しちゃったなぁ・・もっと早めに会話をしとくんだった・・。
ボーっとしている頭が徐々に鮮明になっていく。外はもう陽が落ちてすっかり真っ暗になっていた。
「・・もう九時か・・お腹空いたし、適当にスーパーで弁当でも買ってこようかな・・」
夏樹はジャージに着替えて、いつものスーパーマーケットまで弁当を買いに出かけた。夏樹が御用達のスーパマーケットは夜の十時まで営業をしている。残業の多い夏樹にとっては有難い営業時間だった。外に出ると、車はまぁまぁ、走っているが、歩道はあまり人は居ない。よくある閑静な住宅街だ。少し歩くと簡易的な公園があって、春になると桜が咲き、そこそこ綺麗だ。今は季節が違うので、桜を見る事は出来ない。もう少し進むと、川が流れている。そんなに川幅は大きくはない。十メートルも無いのではなかろうか。そこに架かっている橋を渡る夏樹。ふと空を見上げみた。星も月も見えない。街灯が橋に沿って立っているので、そこまで暗くはないが。
・・夜になると、また昼間と違って独特の臭いがするよね・・。そんなに嫌いじゃないけれど・・。
橋を渡り終える頃、ふと、何かの気配がした。こういう時に限って、周りの音がしない。車も通らない。・・最近夏樹は色んな感覚が研ぎ澄まされているような感じがするのだ。例えば耳が良く聞こえるというか、バイクの音とか、車の音、人の話し声なんかも聞こうとしていないのに、勝手に聞えてくるし、今まで気にならなかった、隣の住人が吸っている、タバコの煙の臭いが臭くてたまらないし、感情は死んでいる筈なのに、感覚が鋭くなってきていて、なかなかきつかったりする。うつの症状と関係あるのだろうか?・・海月先生に聞いてみなければ分からない・・。
その何かは、夏樹の居る場所とは反対側、後ろに居る。人だろうか・・そんな感じではない。ただその何かはこちらを・・夏樹の背中を見ている。見られている・・。冷汗が流れる夏樹。
・・な、なんだ?・・何かに見られている気がする・・ひつぎじゃぁないぞ・・だって、ひつぎに眼は無かった・・いや、真っ赤な光みたいなのはあったかな・・でもあれって眼なのかな?・・いや、それは今は置いといて、振り向いても大丈夫かな・・これはこのまま気が付かないふりをして通り過ぎ去って行った方が賢明なのでは?・・。
しかし、夏樹は、思わず振り向いてしまう。気になって仕方無いからだ。
・・怖い話とかでよくあるよね・・振り向いたらそこに、赤い服を着た女の人がずぶ濡れで立っていたりとか、骸骨が立ってたとかさ。今さらになって後悔してきたぞ・・やっぱり無視すれば良かったなぁ~。もう遅いんだけど・・。でも気になるし・・。視線を感じるんだなこれが・・。僕は本当にこういうホラー系は、苦手なんだよね・・。
夏樹が振り向くと、そこには何も居なかった。拍子抜けする夏樹。
「・・なんだ・・気のせいか・・」
ほっと胸を撫でおろし、正面を見た時。目の前に何か居る・・。
「・・はっ?!・・ひっっ!!」
思わず息を飲む夏樹。物凄く驚いたが、理性が働いて、何とか大声で叫ぶのは回避出来た。簡単に見た目を説明すると、死神のような恰好をしている。黒いオンボロのフード付きマントを被っていて、顔はむき出しの人の骨。ポッカリと黒い穴が二つ開いている・・。その目があったであろう場所の奥は、深淵に繋がっているかのように真っ暗だ。足は生えて無い様だが、音もなく浮いている。そして、袖から見える真っ白い骨の腕には、それこそよく絵本の昔話に出てくるような、バカでかい鎌を携えていた。その体からは、黒い靄が煙のように揺らめいている。夏樹は完全に思考が停止していた。
・・なななななんだ?こいつは?・・見たまんま死神じゃん。え?もう僕あの世からのお迎えが来たの?はは、え?死ぬの?僕の人生、もう終わり?冗談、だよね?・・そうだよね?・・嘘だよね?・・。
「・・ニンゲン、ドウゾクノ、ニオイガスル・・スデニ、「ベイツ」カ?ソレトモ、プラティオカ?」
絞りだすような、酷く耳障りな音だった。体の芯から凍えるような声。絶対にこの世のものではないと断言できる。耳を塞ぎたくなるほどのその声は直接頭に響いてきている様だった。
夏樹は答える事が出来ない。何を言っているかは何となく分かるが、それを答えた所で、自分が確実に襲われるのが、直感的に分かっていたからだ。・・いや、そもそもなんなんだ?こいつは?話しかけて来たって事は本物の死神?・・いや違うぞ、なんとなくだけど、こいつは恐らくはカラミタだ。黒い靄みたいなのが体から溢れているし、まぁまぁ、形になっているから、中級くらいのカラミタなんじゃないかな?・・。植物とか、動物が多いってラビスとか先生が言ってたけど、こいつはどういう部類なんだろうか?情報が少なすぎる。てか、普通に見た目が怖い。シンプルに怖い。もろ死神だもん・・。浮いてるし・・。
「ダガ、ドウゾクハ、ミアタラナイ・・コノニンゲン、ナカナカジョウシツナエネルギーダ。コヨイハ、コノニンゲンデイイカ」
「ちょちょちょ、ま、まって!まって!美味しくないから!僕は美味しくないから!食べるとお腹壊すよ!」
夏樹は必死になって説得しようとした。思わず両腕を胸の前で交差して防御の姿勢を取る。そんな事は無駄だと分かっていたとしても。そうしなければ本当に命まで刈り取られてしまいそうな気がしたからだ。死神はゆっくりと鎌を振りかぶる。夏樹の説得は全く聞いていないようだ。このカラミタの能力なのか、酷く絶望感が押し寄せる。夏樹はあっさりと死を覚悟した。
・・もうここまでなのかな・・何も出来ない人生だったなぁ・・まぁでも、この虚無感から解放されるのなら、それでもいいのかも・・これが運命だったのならしょうがないよね・・。
目を瞑る夏樹。
・・ここ最近、当てもなく夜彷徨っていたのは、無意識に死に場所を探していたというのもあるのかもしれない。誰にも見つからず迷惑をかけず、ひっそりと死ねる場所を探す。ただ近くに林など無く、木もあまりない。首を吊るのにいい場所を探す。ピクニックでお弁当を広げるのにいい場所を探すように。川原に座って、流れる川を見つめる。川は浅いので、溺れる事はなさそうだ。そのまま流されれば海までたどり着くのだろうか?でも岩とか砂利が体のあちこちにぶつかって痛そうとか、そんな妄想をする。電車に轢かれるのは痛そうだし、何より他の人に迷惑をかけてしまう。実際電車に乗る時、人身事故とか、接触事故とか、多かったし。それは駄目だ。頭の中で何回も死を考える。他に考える事が無いからだ。いい事なんて何も無い。神様は不公平だ。何で、こんなにも僕の人生は辛い事ばかりなんだ。酷過ぎる。死んでも誰も悲しまない。三谷夏樹という人間がこの世から居なくなっても、それでも世界は廻り続けるのだろう。生まれた意味も目的も分からずに消えてしまうのは、何と言うか、少し寂しい感じもするが・・。
そんな、死にたいという妄想をしてしまう。考えてしまう。それ程までにうつの虚無感や倦怠感が辛いのだ。海月先生ごめんなさい。母さん、すぐにそっちに行くから・・。
もはや正常な判断は出来ない夏樹。色々な事が頭をよぎる。海月メンタルクリニックで起きた事も。
(君の帰ってくる場所に、なってあげようじゃないか・・こうして、お茶でも飲んで、お喋りでもしよう。もちろん君の治療も兼ねているがね)
海月先生の言葉が、不思議と鮮明に脳内再生される。
・・帰れる場所か・・かえれる・・・ばしょ・・。
・・ん?いや、待って。何で理不尽に命まで奪われないといけないん
だ?僕の命は、僕のモノだ。カラミタだろうが、死神だろうが僕の命は奪わせやしない!自分で終わらせるのはまだ、先だ。なんだか勿体ないじゃないか・・。
僕はまだ、生きている。まだ、死にたくない。そうだ、僕は生きたいんだ!もがいて、あがいて、地獄の底を這いずる事になったとしても前に進む。なんなんだ?この心の底から沸き上がってくる感情は!久しぶりに感情を感じるぞ。
・・・ああ、これは怒りだ、何に対して怒っているんだ?そうか、僕自身だ。僕自身が理不尽に僕の命を奪おうとしたんだ。そうだよね・・誰も理不尽に命を奪われたくないよ、そりゃ。もっと大事にしよう・・当たり前の事なのかもしれないけれど・・ようやく少しだけ自分の事が分かった気がする。何が全ての事に対して無欲だ、こんなにも生きたいっていう欲があるじゃないか!いや、生存本能なのかな?まぁ、どっちでもいいけれど・・。だから、だから今、僕がやらなきゃいけない事は!・・。
「ひっ、ひつぎぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
夏樹は周りの目を気にせずに大声で叫んだ。今まで夏樹が生きてきた人生の中で一番叫んだ。喉が枯れるくらいに。自分の人生に、命に責任を持つこと。カラミタにとって己自身が抑止力になること。夏樹はそう決心した。そう生きると決めた。選択した。それが今の夏樹が生きる目的。今、死なないための理由。
・・誰かが、自分が悲しい思いをするなんてもう、沢山だ!嫌なんだ!虚無なんかに負けない、うつなんかに負けない、悲しみに負けない、理不尽な邪悪に負けない、弱い自分に負けない、こんな世界なんて嫌だって思っていたけれど、何千回、何万回呪ったけれど、そう言うの全部に勝てなくていい、ただ、負けたくない。しぶとく、図太く、人として、生きていきたい。その、悲しみも、怒りも、憎しみも、妬みも、無力感も、自分の弱さも、醜い所も、その一切合切を受け入れて、僕は前に進むんだ!・・。
数秒が経過。夏樹はまだ生きているようだった。恐る恐るゆっくりと目を開けると、死神のようなカラミタは鎌を振りかぶったまま、静止している。不思議に思う夏樹。暫く凝視してみた。そしてある事に気が付く。さっきと違う所が一つだけあった。夏樹がそれに気が付くのに数秒。
「あ・・えっ?ぴゃぁぁぁぁ・・・」
実際の所、人が本当に驚いた時、叫び声なんて出ない。少なくとも夏樹は叫び声なんて出なかった。変な声が漏れただけだ。死神風のカラミタの胴体部分・・お腹の少し上の辺りから漆黒の腕が生えていた。生えているというより、後ろから貫かれている様だ。その右腕は鉄のような鎧で覆われていて指先が爪のように尖がっている。いかにも貫きそうな形である。いや、既にカラミタの胴体を貫いているのだが・・。
「ガハッ・・ナ、ナニ?、バカナ・・ケハイガ、ナカッタゾ、コノ、ワレガ、クワレル?ダト・・コ、コノチカラ、マサカ・・オ・・ウゾ・・」
最後まで言い終わらずに、この死神風のカラミタはボロボロと体が崩れていった。そして黒い靄になり、音もなく目の前の黒い棺桶に吸い込まれていった。僅かに開いた扉から、さっきの鎧の腕が出ている。その腕も隙間に吸い込まれていった。言わずもがな、ひつぎである。
「・・呼んだ?」
「あ、えっと、その、うん、まぁ、その・・うん」
大声で叫んだのが、後になって急に恥ずかしくなってきた夏樹。
・・いや、あっさりしてるよね?ここは何と言うか、こう、助けに来たぞ的な感じで来てくれた方が良かったなぁ・・。そりゃぁ、呼んだのは僕だけどさ・・。あっ、そうだった。助けてくれたんだ。危うく死神のご飯にされるところだった・・。
「あ、有難う、ひつぎ。お陰で助かったよ。いやぁ、僕はホラー系苦手だからさぁ。咄嗟にどうすればいいのか分からなくて・・パッと頭に浮かんだのがひつぎだったから・・近くに居てくれて本当に助かったよ・・」
「・・あんなに大声で叫ばなくてもいい。いつも夏樹の近くに居る」
・・あれ?外の気温はそんなに暑くないのに、顔が熱い気がする・・。
「そ、そうだよね・・なんか必死だったから、思わず力んで声が出ちゃったんだよね・・。ごめん、次からは普通の声量で呼ぶから・・ところでさ、さっきのカラミタは何だったんだろう?他のカラミタと違って、ハッキリ見えたし、言葉も何かしら喋っていたから、中級以上のカラミタだったって事なのかな?」
「・・たぶん、そう。そんなに大したヤツではなかった・・そんなに美味しくないし・・ひっく・・」
「そ、そうなんだ・・美味しくなかったんだ・・」
・・あれ?何だろう?少し、いつもとひつぎの様子がおかしい気がする・・。いや、見た目はただの黒いでっかい長方形の箱なんだけれど、オーラというか、雰囲気が・・いや、テンションが高い・・のか?・・。
「・・さっき、あのカラミタを倒すために、夏樹からベイツを食べたから、その味が、あ、ベイツって言うのは、人間の精神エネルギーの事。その味が中々味わえないくらいの美味しさだったから、少し興奮している。気持ちが高揚している。人間でいう所のお酒?猫でいう所のマタタビのような・・いや、そんな物よりも、もっと高級な味。甘美な味。そんな簡単にはカラミタは、酔わないけれど、やはり夏樹のベイツは・・最高に・・うみゃい・・ひっく・・」
「いや、そんなに美味しいの?僕って。他人の不幸は蜜の味みたいな感じじゃなくて、本当に美味であると・・。う~ん何だろう、嬉しいような、悲しいような・・。まぁ、不味いよりかはマシ・・なのかな?」
「・・そう・・ひっく・・」
「あれ、え?なんか、ひつぎ、酔ってるよね?絶対酔ってるよね?簡単には酔わないって言ってたのに?酔うほどの美味しさって、もう劇薬とかのレベルなんじゃないの?恍惚の状態って事でしょ?そんなに美味しいんなら、そりゃ、いくらでもカラミタ寄ってくるじゃん。僕自身が高級な食材・・いや、高級な食材が、2本足で、不用心に外を歩いているって事か・・」
・・そう考えると、今まで、かなりの数のカラミタが寄って来ていたんじゃないか?危険過ぎる。それを、ひつぎが全部退治・・食べていたのか・・。凄いけれど、もし、ひつぎの気が変わって僕のえっと・・ベイツだっけ?を根こそぎ食べていたら・・。あっという間に、お陀仏じゃん・・。
「そん・・そんな事・・無い・・もう今日は眠いから、撤退する・・ひっく・・もう近くには、カラミタの気配は無いから・・多分・・大丈夫」
「あ、まぁ、そういう事にしておこうかな、お疲れ様、ひつぎ。・・何だかもう晩御飯の事はどうでも良くなったから、僕も部屋に戻るとするか・・。でも、本当に今日は有難う。本当はさ、一瞬だけ、生きるのを諦めかけたんだけど、ギリギリで踏みとどまったっていうか、何だか、想いが逆転したんだよね・・どうしてだろう?・・待って、さっき食べたって、僕が意識を失って寝る前に食べたのとは別にって事?じゃぁ、ひつぎが僕の負の感情を食べてくれたから、死にたいじゃなくて生きたいって想いが、強くなったって事?」
「・・まぁ、死んでもらうと色々、困る、から・・」
「じゃぁ、ポジティブな感情も、ネガティブな感情も両方食べる事が出来るんだ。ますます、カラミタの事が分からなくなってきたぞ・・」
「・・ひっく、・・ふう・・本当はもっとまともな時に、真面目な話をしたいんだけれど・・仕方ない・・」
表情は分からないが、少しだけ、いつものひつぎに雰囲気が戻った気がする。普段通りの静寂だ。そして、ひつぎはゆっくりと語りだす。
「・・人間は、どちらかと言うと、幸福な時より、不幸な時の方が安心を感じている事が多い。自らの運命を呪い、無力さを嘆き悲しみ、他者を羨み、妬み、そんな人間が多い。夏樹も思ったことはない?幸福な時に、本当にこんなに幸せでいいのだろうか?と。いつまでも、この幸せは続くはずは無いんだろうな、とか。逆に不幸な時、何故かその反対を考える事は中々無い。現状をずっと嘆くばかり。いつか悪い事は終わると、すぐには思わないだろう?ずっと落ち込んだまま。・・中にはポジティブな人間も居るけど・・。人間の感情の起伏。この差が大きい程、上質なベイツが出来やすい・・」
「・・感情の起伏?」
「そう、簡単に言えば、希望が絶望に変わる時、絶望が希望に変わる時。そこに上質なベイツが出来上がる。つまり我々カラミタは、より効率よく上質なベイツを食べるために、常に人間をなるべくネガティブな、絶望の状態にして、負のエネルギーを食べる。少しの間だけポジティブな希望が出てくると、またすぐに、やる気やら活力やらのポジティブな感情を食べる。それだけで簡単に、希望から絶望の感情の起伏で出来た、上質なベイツが出来上がる、という訳。夏樹のベイツは、その上質なベイツよりもっと高級な・・王族でも食べるのが難しいくらいの激レア度」
「いや、まぁ、そうなんだ・・僕、激レアなんだ・・ん?でもポジティブな人間からはどうしてあんまり食べないの?それだったら、ポジティブな人から、ポジティブなエネルギーを食べても同じ事だよね?だって感情の起伏でいいんでしょ?そっちの方が絶対いいような気がするけれど・・まぁ、人間側から見ればね?」
「希望から絶望の方が何故簡単なのか、それは、ポジティブな人間のエネルギーは単純に強いというか、物凄く硬い。揺るがない感情の力。こうだ!と決めた決意は石のように硬く、ちょっとやそっとの力では嚙み砕けない。無尽蔵にポジティブな力が、活力が湧いて出るから、食べきれない。ポジティブな人間から、ポジティブなエネルギーを食べて絶望させるのには、時間と労力がかかり過ぎる。要するに骨が折れる作業・・割に合わない・・ネガティブな人間から、少しのポジティブなエネルギー、希望を食べた方が楽。そう言う理由でわざわざ絶望から、希望のエネルギーを好むものは少ない、という事。どっちの方法でも出来上がるものが同じなら、楽な方を選ぶだろう?・・夏樹、君が思っている以上に、目的を持って生きている人間は、強い」
「・・でも、まぁ、そう言われると、なんだか納得出来るかも・・」
・・どうしても人は、楽な方に、楽な方にって、考えてしまうからなぁ・・。本当に変な話だよね?幸せなら、その今の幸せだけを考えればいいのに、つい、本当にこのまま幸せでいていいのかって、頭が考えちゃうんだよなぁ・・。あっという間に不安になってしまうという・・。なんだろう・・癖なのかな?それとも、海月先生が言っていた様に、無意識でバランスを取ろうとしているのか・・。でもどうせなら、楽しい事や嬉しい事を沢山考えていたいなぁ・・。僕には暫くは無理だろうけれど。
「・・聞いた話によれば、少し前までは、上手い具合に人間とのバランスが取れていたんだけれど、ここ最近は、我々カラミタの数が増えていて、それに対応するために、より、昔より多くの人間をうつの状態にしているというのが、一番有力な説。多分そうだと思う。それに対応して、ベイツを量産せねばならない状況で、粗悪なベイツが大量に量産されている。表向きで禁止事項になっているが、多分形式だけで、実際はその全体像を測りかねているというのが、現状。後は色々調査中」
「・・そっかぁ・・ひつぎも色々と大変そうだ・・大量生産、大量消費って、人間がやっている事とたいして変わらないじゃん。おまけに大量廃棄までしてるからなぁ・・人間は」
「そう・・今日はこれくらいにしておく・・また、明日・・」
「あ、うん、お休み、ひつぎ。また明日ね?」
ひつぎは音もなく、消えていた。
・・相変わらず、どこに消えているのか分からない。いつか聞いてみようかな・・。カラミタも、いや、勿論許せないけど、そういう事情があるのか・・。
僕はもう決めたぞ!カラミタの脅威から、人々を守るって。リベレイターになろう。これが僕の生きる目的だ・・。でも、そうなってくると、もっと分からないのが、ひつぎだよね?・・普通のカラミタはわざわざ、絶望から希望のベイツは面倒だからやらないって言ってたけど。という事は、ひつぎはやっぱり、普通のカラミタ・・エニグマじゃないって事なのでは?今のところは人間の、僕の味方だけれど。なにかしらの特別な力を持っているのかも・・。本当に中級の強さなのかなぁ・・箱から出ていた腕は完全に人型だったし・・鎧みたいなのを付けていたけれど。まぁ、そんな事を考えてもしょうがないか。もっとひつぎと話をしてみたいし。なるべく話しかけてみようかな・・。僕に手伝える事があるのなら、勿論協力したいし。海月先生も、もっと仲良くなった方が良いとか言っていた事だしね・・。
そう決心した夏樹。ひつぎとどんなコミュニケーションを取ればいいのかを考えながら、月明かりが照らす夜道を、ゆっくりと帰るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます