第2話
動画を見てから、夏樹はとある精神内科の病院を探していた。もう夏は過ぎている筈だが、まだまだ日差しが強く、少し歩いただけで背中が汗ばんでくる。外出なんて滅多にしない夏樹だが、この胸の不安と、黒い靄について、少しでも分かるかもしれないという、わずかな希望が、今の夏樹を動かしている。それが無ければ、外に出るなんて、コンビニか、スーパーでご飯を買うくらいしかしない。・・というか、病院に行くか行かないかで、考えただけで、二日も経ったけどね・・・。
「おかしいなぁ~、この辺りの筈なんだけど・・」
夏樹はスマホのマップの位置情報を頼りに、病院を探していた。
二日前
動画を再生すると、暫く画面は黒いままだった。五秒程経った辺りで、画面が明るくなり、一本の木が映し出される。桜の木に見えるが、よく見ると花の色が真っ黒だ。ただ単に、画像をその部分だけモノクロにしているだけなのかと見ていると、画面下にテロップが出てきて、そこにはこんな言葉が書いてあった。【貴方がもし、この桜が黒く見えるのなら、相当危険な状態ですので、お手数なのですが、当院までご足労下さい。命に関わります。【注意】他の人には決して黒い桜が見えると、言わないで下さい。交通費は当院が保証致します。】とある。
「・・え、ちょっと、黒く見えるんだけど・・見間違いなのかな・・」
そう思って夏樹は、もう一度再生してみるが、桜は黒いまま。さらにもう一度再生。何回見ても、桜はやはり黒いままだ。よく画面を見ると、空は青い。周りの景色も特に変わりのない色だ。ただ、真ん中に映っている桜の木だけが真っ黒なのである。・・この黒い感じ、何処かで見たような気がするぞ・・そうか、あの黒い棺と同じ感じがする。そこの空間だけ、切り取られたような黒。・・これはもしかして、あの黒い靄の事が分かるのでは?そう思った夏樹は、動画のリンク先に移って、病院の場所を確かめてみる。意外と近かった。電車を乗り継いで、一時間程で着く。
「でも、交通費まで出すって、普通はそんな事しないよね?・・何がヤバいのか分からないけれど、相当危険なんだろうか・・」
その後、病院に行くか行かないかという、葛藤を二日間も考えた挙句、ようやく、行く気になった夏樹なのであった。少し前の夏樹であれば、知らない土地に行くのは、探検気分で、テンションを上げて、初めて入るお店で、ご飯を食べてと、かなりアクティブだったのだが・・。うつになってからというもの、景色すらも色あせて、ワクワクした感情も、うきうきした感情も、ドキドキした気持ちも無い。無いというより、感じない。ただこんな状態でも、流石にあの黒い靄は気になった。その前にアレは何故自分にだけ見えるのか・・他にも見える人が居るのか・・。頭で考えても不安にしかならない。だから、持っている少ない気力をかき集めて、今ここまで来たのである。本当は電車に乗るのも辛かった。開閉ドアの近くの壁に背中を付けて、なんとかここまで来たが、その間に何回も駅を乗り過ごしてしまうのだ。気を付けている筈なのに、ボーっとしていて着きたい駅を乗り過ごしてしまう。午前中に病院の最寄りの駅に着く予定だったのだが、乗り間違いを繰り返してしまったため、もう午後はとっくに過ぎていた。・・ああ、目的地にもちゃんと辿り着く事が出来ないなんて・・心底自分が嫌いになっちゃうよなぁ~。もう今日は帰ろうかなぁ・・。
そんな事を考えていた時、道の隅っこに何かが居るのに気が付いた。
「・・ん?何だ?兎?」
野生の兎だろうか、こんな街中まで山から下りてきたのか、道端に生えている草をむしゃむしゃと食べていた。
「・・うーん、野生の・・いや、ペットが逃げ出して、野生化したのかな?・・唯一気になるのは、毛並みが真っ黒って事だけど・・まぁ、黒い兎なんて、沢山いるしね・・考えすぎかな・・」
そんな事を呟いていると、兎が路地の裏手に歩いて行った。何となく夏樹はその兎の後を追ってみた。
「・・うわ、狭いぞ、ギリギリ通れるくらいかな・・ていうか何んで兎の後をついて行ってるんだ僕は?・・暇すぎる・・あ~あ、病院何処にあるんだろうか・・」
路地裏を進んで行くと、パっと視界が開けた。家二軒分ほどの空き地があり、そこにお洒落な喫茶店のような建物がある。大きな三角形の屋根が特徴的だ。屋根の色は薄い青。年季が経っているのか、元々は濃い青だったのかもしれない。壁はレンガで出来ているようだ。ボーっと建物を眺めていると、さっきの黒い兎が、正面玄関の扉の隙間から、中に入って行ったのだった。どうしようも無いので、夏樹はその建物に近づいて行った。
玄関の少し上の方に看板があってそこに、【海月メンタルクリニック】と書いてあった。
「・・あ、ここだ。うみつき・・じゃなくて、えっとなんて読むんだったっけなぁ・・う~ん、あっ!くらげ、くらげだった気がする・・」
どうやらこの建物が、夏樹の探していた病院のようだ。玄関の扉をそっと開けて中を覗いてみる。少し奥の方に受付があって、そこまでに、いくつかのソファーと椅子が並んでいた。夏樹のほかに人は、居ない様である。内装は木の材質が、温かい雰囲気を醸し出していて、何故かとっても落ち着く。夏樹は意を決して、受付のある奥へと歩みを進めた。
「・・あの、すみません・・ネットの動画を見てきたんですけど・・って・・あれ?・・誰も居ないのかな?・・」
夏樹が、受付を覗くと、椅子は置いてあるが、スタッフらしい人は居ないようだ。よく見ると、紙が置いてあり、近くのメモスタンドに、【必要事項を記入して下さい】と書いてあった。夏樹はその紙を手に取ってみた。その書類の内容は、よくある、問診表で下の部分に、何処から来たのかと通って来た駅または道路を記入するところまである。
「・・あ、本当に交通費を出してくれるみたいだ・・」
夏樹は、その書類を手に取り、机がある場所で記入し始めた。
十分くらいかけて、名前などを記入し終わった夏樹。
・・なんか文字を書くのも結構ツライなぁ・・。
こういう書類は前にも書いたことがあったが、同じく時間がかかった。文字を読んでも頭に入って来ないのだ。
・・もう本当に、読み書きもツライ・・。
そんな事を考えていると、書類の下の方に、【必要事項を記入し終わったら、受付の所にある、箱に入れて暫く、おまち下さい】とある。ポストのような木箱が置いてあったのでそこにさっき書いた、用紙を入れた。暫くすると、「ウィーン」と言う謎の駆動音が鳴り響く。夏樹はビックリしたので、音の出所を探した。
・・うわぁっ、びっくりしたなぁ・・。
そしてある事に気が付いた。棚の上にミニチュアの道路が舗装されていて、そこを赤いトラックのラジコンカーが、さっきの木箱を荷台に乗せ、奥の部屋へと運んでいるのだ。あっけにとられる夏樹。
・・そういう、システムなのかな・・クセが強い・・けど、僕は嫌いじゃない。むしろ、模型とかラジコンとか、好きな方だけど・・。
久しぶりに心が反応した。ラジコンカーが奥の部屋に消えて数分後。奥の部屋の小さな扉から、先ほどのトラックが出てきて、夏樹の座っている机の上の棚で止まった。トラックの荷台に、二つ折りの紙が乗っていた。それを手にして、中身を確認してみる。【お待たせしました。奥の部屋へどうぞ。】と書いてあった。夏樹は奥の部屋に目をやり、もう一度紙の文面を読む。
「・・え・・進んでいいんだよね?・・」
恐る恐る、奥の部屋に向かう夏樹。扉を三回ノックしてみる。
「し、失礼します・・」
すると中から、返事が返ってきた。
「・・ああ、どうぞ、中に入って・・」
部屋の奥の方から返事が聞こえた。女性?のような声質だ。夏樹は下に下げるタイプのドアノブを開け、部屋の中に入った。部屋の中には大きな本棚が部屋の壁に沿って、置かれおり、難しそうな本やら、専門書のようなものがギッチリと並んでいた。中には外国の本などもある。きちんと整理されており、変な圧迫感が無い。窓もあるが、カーテンが閉まっていた。部屋の丁度真ん中辺りに、横幅二メートル、奥行き、一メートルくらいの木の机が置いてある。机の上にはカルテの様な用紙と、ペン立てが置いてあった。背もたれ付きの椅子が二つあり、一つは夏樹の側、もう一つは、机を挟んで反対側にある。そこには白衣を着た小学生高学年くらいの少女?が座っていたのだ。
「あ、ど、どうも。お邪魔します・・」
するとその少女?が先ほどの夏樹が記入した問診表を見ながら口を開く。
「ようこそ、良く来てくれたね?・・まぁ、そこに座りたまえ」
「は、はい・・し、失礼します・・」
夏樹は言われるまま、椅子に腰かけた。
・・なんか、凄く落ち着いているなぁこの子・・先生の娘さんとか、かな?留守番をしているのかも・・。
「・・いや、私が先生だが?」
「ほっ、っへ?あ、そうなんですか?何で僕が思っていることが分かったんですか?」
その少女?はチラッと、こちらに目を向けた。暫く夏樹を観察して居る様だった。そしてふいに、
「ふむ、まぁ、顔に書いてあるんだよ・・というか、私は見た目ほど若くは無い。もう少女なんて歳はとっくに過ぎているんだ。君より年上の大人さ・・安心したまえ」
「へ~、そうなんですか・・って、ええっ!そんな、まさか僕より年上なんですか!凄く若く見えます・・」
夏樹は改めて、少女?を失礼だとは思いつつ、眺めてみた。
・・体つきがそもそもそこまで、成人女性ではない気がする・・何と言うか、そんなに出るとこも出てない気がするし・・髪は背中まである黒色の艶やかなストレート。座っているから、身長はどのくらいか分からないが僕が、身長百七十五センチメートルくらいだから、恐らく百四十~百五十センチメートルくらいかなぁ。どう見ても少女にしか見えない。お人形さんのように綺麗な顔立ちだ。少し、眠たそうな表情である。夜勤明けなのだろうか?いや、人を見た目で判断するなって、良く母さんが言ってたし。いやいや、どう見ても、小学生か、頑張っても、中学生くらいにしか見えないじゃんか・・。
「ふむ、若く見られるのはいいが、子供扱いはしないでもらおうか?・・どうせ、幼児体形だ、とでも思っているのだろう?まぁ、君のような反応はもう慣れっこだ。それよりも、私の事は置いといて、早速本題に入ろうじゃないか」
・・いや、完全に何を考えているのか頭の中を読まれているぞ。何でわかるんだろう?まぁ、世の中色んな人がいるって事なのかな?若さの秘訣とかあるのだろうか?・・。
そんな事を考えていたら、先生は(先生と呼ぶことにしよう)サラッとこんな事を言った。
「・・端的に言うと、三谷君、君はもうすぐ死ぬ・・」
「は、はぁ、そうですか・・・・って・・ん??」
・・どどどど、どういう事だ?・・え?死ぬ?何で?さっきの僕の態度が失礼過ぎたのかな?だから冗談を言っているのか?だとしたら、謝らないといけないぞ・・。
「・・それはそうと、君は模型とか好きかね?」
何事も無かったかのように、さらっと、話題が変わった。
「え?は、はい、子供の頃、良くロボットのプラモデルとか、戦車とか、飛行機とか、作ってましたけど・・最近は、めっきり仕事が忙しくて作ってませんね・・って、仕事はもう、辞めていたんでした。それよりも、僕がもうすぐ死ぬって、いったいどういう事なんですか?」
「ふむふむ、感情の起伏があまりないね・・他のメンタルクリニックで、うつ病だと診断されたんだったか・・うつだと、文字を書くのも億劫になるし、周りの環境にも目がいかなくなる。さっきのラジコンカーの色を憶えているかな?」
「ええっと、確か赤色だったような・・」
「うん、そうだ。なるほど、興味のある事は多少関心があるっと・・」
そう言いながら、先生は、問診表に何やらボールペンで書き込んでいるようだ。まだ夏樹が死ぬ理由が分からないままだ。
「ああ、そうだった、自己紹介がまだだったね?・・私はこの海月メンタルクリニックの院長、
「あ、はい、宜しくお願いします・・」
何事も無かったかのように、会話が過ぎていく。
・・肝心な事を聞けてない気がするんだけど・・やっぱり、冗談だったのかな?あんまり深刻そうでもないし・・。
そんな事を考えていると、海月先生が口を開く。
「ああ、そうだった、さっきの死ぬって言うのは、冗談じゃないぞ?三谷君。君はあの動画を見て、この場所に来たんだろう?実はあの動画に映っている桜が、万が一黒く見えたりすると、見えてしまった人は、決まって数日以内に死んでしまうんだ。嘘じゃない」
「・・死ぬって、そういう病気なんですか?それって、うつ病と何か関係があるんですか?」
思い切って質問する夏樹。こくり、と頷く海月先生。
「ふむ、なかなか、鋭い、いい質問だ。順番に解説しようか。そうだな、それではまず、うつ病とはどうしてなるのか、三谷君は知っているかな?」
「えっと、確か、ストレスとか環境とかで、脳の、神経のバランスが乱れてなってしまうとか、なんとか・・だったような?」
「うん、そうだ。一般的には、脳を構成している神経細胞の神経伝達物質の、特に意欲や気分を調整する「セロトニン」や「ノルアドレナリン」が上手く機能しなくなる、脳の病気でもある。だがね?三谷君。それはあくまで、一般的な見解なんだ。突き詰めると、詳しい原因は本当のところ、うつ病になるメカニズムは誰も分かってないんだよ。他人から見れば、ただやる気が無くなっただけだとか、社会人としての甘えだなんだのと言っている輩も居るが、なってみないと、うつ病という、病を理解する事は、絶対に出来ないんだ」
「はい・・」
・・僕も少し前まで、やる気が出ないのはただの自分の甘えだ
って思ってた時もあったなぁ・・。
「まぁ、うつと甘えの見分け方は案外簡単だったりする。それはその行動に自分の意志があるかどうかだ。もっともポピュラーなのが、朝ベットから起きれないとか、集中力が無くなってしまったりとかだな」
「あ、それ、分かります」
「ふむ、まぁ健康な人から見れば、ベットから起きれない?w何それw?ってなる。こっちは大真面目なのに・・これも、うつになってみないと分からない状態だな。要するに誤解も多い病だ。特に精神的なモノになると余計にな・・実際は脳の病気でもあるのだが。外傷と違い本人にしか分からないのだから。周りがうつ病に対しての認知度が高ければ、自分の事情を汲んでもらえるかもしれないが、流石に普通の会社ではそこまでの教育などはしていないだろう。勿論私が知る限りだが。もしかしたら、そういう事を教育に組み込んでいる会社もあるかもしれない・・そうだとしたら、君はここに来ていないだろ?」
「・・えっと、体調管理も自己責任だって言われますよね?うちの会社はサービス残業を沢山するのが当たり前って、風潮だったので・・」
「・・なるほど、だが、それだと矛盾している。残業をするには、体と精神を酷使しなければ出来ない。だが体調を崩したのは自己責任だ、と言われてしまう。かと言って仕事の量を減らすと、サボっていると怒られる。まぁ、そこのバランスを取れればいいんだがな・・。大体、真面目な奴ほど、うつ病になりやすいという、統計もでている。真面目な、三谷君のような人間がうつになりやすいんだ」
「まるで、真面目な奴が馬鹿なだけだって、言われているみたいですよね・・僕は上手く、サボる事が出来なかったんです・・同僚はどんどん辞めていくし、その分、僕が頑張らなきゃって、無理やり頑張っていました・・残業しても、残業代が出ないんですけどね・・」
すると、少しだけ海月先生の声が柔らかくなった気がした。
「ああ、そうだな。三谷君。本当に君は今までよく、頑張って来た。きっと誰も褒めてくれなかっただろうから、私が代わりに褒めてあげよう。私は滅多に他人を褒めたりしないんだが、君は特別だ。お疲れ様。君は十分頑張ったんだ。それは間違いない・・だから、自分を責めるのを、止めるんだ」
・・何だか、先生の声は、聴いていて心地いいなぁ・・ゆっくり喋ってくれるし、ちゃんと僕の話を聞いてくれる・・。それに、ちょっと恥ずかしいけれど、褒めてくれるなんて・・。
「・・あ、は、はい・・・うっ・・」
・・何だろう?・・急に胸が熱くなってきたぞ・・・鼻の奥もちょっと熱くなってきたし、目から・・涙が・・。
唐突に夏樹の目から涙がとめどなく、流れていた。今まで溜めていた感情が溢れたのだ。
「・・ふむ、大分溜め込んでいたようだな・・存分に泣き給え・・ほら、これを使うといい」
そう言うと、海月先生は近くにあったティッシュボックスを夏樹に渡した。数分間、夏樹は堰を切ったかのように泣き続けたのだった。
「三谷君、少し落ち着いたかね?まぁ、感情を溜め込んでしまいがちなんだよ、うつ病は。今までの生活が忙しすぎて、泣く事だって出来なかったはずだ。誰かに相談出来ればいいんだが、逆に近しい人物となると、心配をかけまいと思ってしまい、相談できない場合もある。だから病の発見が遅れて、手遅れになる寸前で、発覚するっていうパターンが多いな・・」
「そ、そう、ですね・・す、すみません、ちょっと、取り乱してしまって・・自分でもよく分からなくて・・」
・・こんなに泣いたのって、何年振りだろうか・・そうだ、母さんの葬式以来だったかなぁ・・。
「そして、ここからが本当の本題だ。君のうつ病と死の関係についてなんだが・・」
海月先生の表情がさっきと打って変わって、厳しくなった。夏樹も同様に緊張してしまう。
「さっき、うつ病になる原因は、まだ完全に分かった訳では無いと話したんだが、それはあくまで、現実での・・人間界での話なんだ。この三次元の物質社会では・・って意味なんだ」
・・ん?どういう意味なんだろう?・・現実では?・・それじゃぁまるでこことは違う世界がある・・みたいな言い回しだよね・・。天国とか、地獄って事なのかな?・・。
「現実では・・って、別の世界が他にあるって事・・ですか?」
「ふむ、なかなか吞み込みが早くて、助かるな・・私達が見たり触ったり、感じたりする事が出来るのは、この三次元に特化されて、体がデザインされているからなんだ。実際に世界なんてものは、ここ以外に無限にある。つまり見る事、感じる事が出来ない世界がね・・・・例えば、海の生物だってそうだろう?人が知覚する事が出来ないもので、見たり、感じたり、超音波を出して、コミュニケーションして、そうやって生きているだろう?・・私はイルカとかクジラ、好きだぞ?水族館に何時間だって居座る事が出来る。ボーっと眺めているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまうからな・・何も考えずに海の中を漂っていたい・・。おっと、話が逸れてしまったね?」
そこで「こほん」と咳をした海月先生・・。
「その別次元の世界の事を、我々専門家はこう呼んでいる「ハオス」とね・・昔はこんな次元・・と言うか、そういう世界なんて概念は無かったんだがな・・」
・・「ハオス」・・何だろう聞いたことないぞ?・・ただ何となく海月先生が冗談で言っている様には、到底思えない・・その世界と、うつ病にどんな関係があるんだろうか?・・。
「ふむ、まぁ、こんな突拍子もない事を言われても、すぐに理解する事は難しいだろう。私も最初はそうだった。なるべく分かりやすく、端的に、説明するとだな・・その世界から、人の精神を食べにくる化け物が襲って来ているんだ。ぱっと見は、黒い
・・まさか・・そんな事が・・化物に精神エネルギーを喰われて、うつになってしまうなんて・・確かに、本当にそうなら、医学とかじゃぁ、解明出来ないのも納得出来るけど・・あれ?待てよ・・黒い靄?・・・。
夏樹は唐突に、スーパーでの出来事を思い出した。
「・・そんな化物が・・って、それ!あの・・僕、実は見たことがあって、その時は、白昼夢か何かかと思ったんですけど・・」
夏樹は少し前にスーパーで見た出来事を、なるべく詳しく海月先生に話したのだった。
・・多分普通の人にこんな事を話しても、信じてはくれないだろうって思っていたから、忘れかけてたな・・。
「・・ふむ、既に「カラミタ」に遭遇していたとはな・・驚いたよ、三谷君・・それに無意識とはいえ、「エニグマ」の力を行使していたとは・・これはかなり・・いや、やはり危険か・・いや、しかし・・」
「先生?どうかされましたか?」
「いや、すまない、話を戻そうか・・そもそも三谷君は、ここにどうして来たのだったかな?」
「・・えっと、たまたま見つけた動画に、この桜の木が黒く見えたら危険って、感じのやつで、直感で、ヤバそうだなぁって思いまして。それで来ました。あと、出来るなら、あの、黒い靄の事も聞けるのかなって思ってまして・・」
「ふむ、そうだな、あの動画を作ったのは無論、この私だ。うつ病患者の中に、ごく稀に、あの化物・・「カラミタ」と呼称している・・が、ハッキリ見える人間が居るのだ。そうすると、カラミタが見える三谷君は、ある使命を必然的に課せられてしまうんだが・・」
「・・使命・・ですか?・・まさかカラミタを退治するための力・・とかって言いませんよね?」
「おお、三谷君。なかなか、話が分かるみたいだね?そう、その通りなんだ。そうだな・・あまりうつ病とは関係ない話なんだが・・少しスピリチュアルな話をしようか。コインの裏と表、磁石のS極とN極、人間が考える善と悪、まぁ、まだ沢山例はあるのだが、これらに共通することはなんだと思う?」
・・え?・・ええっと・・なんだろう?・・こういう哲学と言うか、スピリチュアル?的な事は、良く分からないんだよなぁ・・。
夏樹は必死に考えてみるが、これと言った答えを出せずにいた。
「ふむ、そうだな、もっと簡単に考えればいい。そう、これらに共通するのは、片方があると、もう片方がある、表裏一体という事だ。この地球は端と端、その両方を体験するテーマパークみたいなものなんだよ。どちらかにずっと傾いたまま、という事は絶対にあり得ないんだ。どうしてかというと、この世界を創った宇宙・・神様・・としておこう、それは愛そのものでそこには何の不自由もない、満ちている存在だった。それがある時、多分気まぐれだと思うんだが、満ちている事に飽きてしまったんだ。というか、退屈だったんだろう。今凄く満たされているんだけれど、満たされていないって、一体どんな感覚・・感情何だろう?・・と。興味が湧いた。それが知りたくて、地球と言う、それが体験できるテーマパークをわざわざ、創ったんだ。それが今、我々が生きている世界だ。全てのモノが計算されて創造されているんだ。そして、神様は、宇宙中に様々なテーマパークを創り、己の分身を解き放った。宇宙中にな。それは勿論、愛とは何か、夢とは何か、己とは何かをもう一度、確認するため、思い出すために。全ては、いろんな経験を蓄積するため、だ」
「そう・・なんですか・・なんだろう?不思議と納得してしまいますね?というか、そんな事考えようともしませんでした・・」
「ふむ、そうだな、しかし、誰しもが一度は考えた事があるのではないか?自分は「一体何の為に、生きているのだろう?」・・と。本当は皆知っているんだよ、自分が何者で、何処から来たのか。そして、何処に帰って行くのか。これがワンネスという考え方だ。元は我々は一つだったんだ。ただ、皆忘れているだけなんだよ」
「・・じゃぁ、わざわざ、苦しい体験をするために、地球に生まれてきたって事ですか?それじゃぁ、あまりにも酔狂が過ぎるじゃないですか!神様は!好き好んで誰が苦しい思いをしなきゃいけないんです?それも体験したいって事なんですか?そんな、僕は、なりたくて、うつ病になったわけじゃないのに、酷過ぎる。あんまりだ・・」
思わず感情が爆発してしまった夏樹。すると、海月先生が、おもむろに立ち上がり、奥の部屋に消えていった。
・・ああ、思わず怒っちゃった。先生に怒っても意味が無いのに、僕って最低だ・・・でも先生は、やっぱり、立ち姿も子供の様に見えてしまうぞ。失礼だと分かっているんだけど、ついそう思ってしまうなぁ・・。
そんなことを考えていると、海月先生が、二つの白いカップを持って戻ってきたのだった。とてもいい香りがする。
・・なんて言うのか・・フルーティーな感じだろうか・・。
「まぁ、飲みたまえ。この紅茶はリラックス効果があるぞ?私のお気に入りだ。・・さっきも言った事だが、感情を表に出すことは悪い事じゃぁない。溜め込んだままにしておくのがもっとも危険だ。誰かを妬んだり、恨んだり、悔しがったり、羨んだり、そう思ってしまった自分に気が付く事だ。ああ、自分は今、この人を恨んでいるな、妬んでいるな、とな。決してそう思ってしまった自分を責めてはいけない。それは自分自身を追い詰める事になる。その感情はただ、出てきただけだ。その感情に意識を向け続けると、その感情は大人しくなり、やがて消えていく。すると、もう同じような事で怒ったり、妬んだりしなくなる。それをしないと、それが溜まりに溜まって、ある日突然爆発するんだ。ちょっとのきっかけでな。よく、ニュースなんかで、凶悪犯の同級生らしい人が、「昔は全くそんな事をする奴じゃなかった、むしろ、とってもいい奴だった。自分には到底信じられない。何かの間違いなんじゃないか」・・と」
そう言いながら、海月先生は一口お茶を啜った。
「た、確かにそんな話、ニュースでよくやってましたね?・・あの、先生、すみませんでした。急に感情的になってしまって・・」
海月先生は、少しだけ微笑んだ・・ような気がした。先生はほとんど表情が変わらないというか、無表情だ。微妙な変化なので、見間違いかもしれないのだが・・。
「いや、構わないよ。少しずつ感情が戻って来たんじゃないのかな?そうやって、凍り付いている心を、溶かしていくんだ。・・ところで、神様は何処に居ると思うかね?」
「えっと?神様・・ですか?・・それは・・自分の中とかですか?」
「まぁ、それもそうなんだが、これはそうだな、哲学的な話に近いんだが・・片方の事柄を知るためには、もう片方がどんなものなのか知る必要があると言っただろう?勧善懲悪は悪人が居るから、正義の味方がどんな存在なのか分かる。敵が居るから、味方が居る。影に光が差せば、光が分かり、光が差すと、影が出来る。人は、自分が神だった事を思い出すために人生と言う旅を続けている。棒磁石のS極とN極。・・ふむ、磁石と言えば、磁石を綺麗に真っ二つにすると、どうなるか知っているかな?S極とN極に分かれる?」
・・えっと、どうだったかな?・・昔学校で習った気がするぞ・・。
「確か、切ってもまた磁石が二つになるだけだったような?」
「ふむ、良く知っているな、三谷君。その通り。たとえ、二つに切ってもまた、S極とN極、もう一つのS極とN極の磁石になるだけだ。真ん中は無い。よく神様は、人が認知することが出来ない場所、次元にいるとされているな?それは、あながち間違いじゃぁない。では、その二つを体験しているのは誰だ?」
「誰って、それは・・神様なんじゃないでしょうか?」
「・・中々いい所をついているね?三谷君。そういう事だ。つまり神は、悪と善の、S極とN極の、光と影の、コインの裏と表の、間、に居るんだよ」
「・・間・・ですか?何だか難しい話ですね・・」
・・つまり神様・・宇宙には善も悪も無く、ただ、その出来事を感じているだけ・・。それが、すべてを包み込む無限の・・愛なのかな?・・難しいなぁ・・。
「ふむ、つまり片方にずっと留まり続けるのは、無理だという事だ。例えていうなら、今まで不幸だった人がこれからも、ずっと不幸なのかとうと、そうじゃない。いつかその不幸から抜け出す事が、出来るという事なんだ。自分が今から、幸せになる!と選択した時から、片方に傾いた天秤が傾きだすんだ。後になってそういう事柄は分かってくる。あの時の辛く、不幸だった時期は、この時の為だったのか、とね。世界はバランスの上で成り立っているんだよ。そして人生はすべて、上手くいっているんだ。どんなに今がどん底であろうと・・。少なくとも私はそうであると思いたい。・・昔、とある本に書いてあったが、「幾千、幾万の人が迷いの中にある。しかし、幾千、幾万の人がそこから抜け出す業を知っている。それはまさに神の如き業。神業だ」と。明けない夜はないだろう?逆に沈まない太陽も無い。苦しくて、悩んでいるのは、自分がまだ諦めていない証拠だ。私はね、・・人の力を信じたいんだ・・」
ここまで語り、海月先生はカップを一口啜った。
「・・カラミタは明らかに、人類にとっての脅威だ。誰の差し金かは、知らないが、襲われ続けると、世界の理・・人類を守るという抑止力が働く。人類の助かりたいという、無意識の全体意識が。それは、何者にも止められない事。つまり、今回のカラミタの反対が、三谷君、君なんだ。君一人というか、君達と言った方がいいだろう」
「・・僕に、何が出来るのでしょうか?・・正直な所を言うと、人類の危機なんかよりも、自分自身を救えてもいないのに、到底そんな事、無理だと思います・・」
・・冷たいと思われてもいい、仮にそうだったとして、僕に人類を救う事なんて出来ない。出来ないというか、そんな気分になれない。だって、もう、僕の心には大きな穴が穿たれているんだから・・何を聞いても特に何も感じない。普通だったらここで、使命感みたいなのが沸いてくるのかもしれないけれど・・物語の主人公だったら、そうなのかもって、無理やり納得するかもしれないけど、他人の事まで、いちいち、構ってられない・・。自分を守るので、今日を生きるだけで、精一杯だ・・。
夏樹はそんな事を考えながら、ちらりと、視線を海月先生に向けた。先生は少し考えている様だった。
「ふむ、まぁ、そうだろう。勿論無理にとは言わないさ。私もそこまで鬼ではないし・・。三谷君のうつの症状自体、かなり深刻なものだ。きちんと治療していかなくてはな。・・今は休業中ではなく、会社は辞めたんだったな?」
「・・はい。一応保険会社から、傷病手当を貰ってなんとか、生活出来てますけど、それもずっと続く訳では無いので・・言いようのない不安に駆られています・・この先どうなるんだろうって・・ちゃんと生きていけるのかって・・」
「・・そうか、それも不安だろうな。・・ただ、本当にこんな状態の三谷君に、話すのは酷だと思っている。すまない。だが、初めの方に忠告をしたんだが、何故三谷君の命が危険になるかと言うと、一度喰われると、カラミタは寄生虫のように憑りついて、精神エネルギーを喰らい続ける。精神エネルギーが無くなった人間は生きる気力を失って、最悪の場合自殺してしまうんだ」
その事実を、薄々気が付いていた夏樹は、あまり驚かなかった。正確には驚く気力が無かった、と言った方が分かりやすいかもしれない。それほどまでに夏樹の症状は重いのだ。
「という事は、僕も心が沈んでいる時に、そのカラミタに精神エネルギーを喰われたから、うつになったって事なんですよね?」
「ああ、その通りだ。ほら、今もエネルギーを少しずつ吸われている」
そう言いながら、海月先生は、ティーカップを混ぜるスプーンで、夏樹の少し後ろ側を、指した。不思議に思った夏樹は、反射的に後ろを振り向くと、そこには、漆黒の棺桶のようなモノが一切の音も立てずに、佇んでいたのだった。
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