うつつの彼方

高西羽月

第1話

 最近、ふと、昔の子供だった時の事を思い出す。寝ている時だったりとか、何かを考えている時、仕事でパソコンの画面を見ている時。

 夏だったのか、僕と一緒に遊んでいる子供達は皆、半袖やスカートの涼しそうな格好だ。勿論、僕も半袖半ズボンのスリッパ姿。蝉の鳴き声がすぐ近くで聞こえる。木の枝を持って、思いきり走り回っていた。僕の住んでいた場所は田舎で、ビルなんて一つも建っていない。一番大きな建物は学校くらいだ。見渡す限り山と田んぼ。コンビニも無い。だから、夜は星が綺麗だった。夜空に散りばめられた満点の星々達。よく近くの丘に行って星を眺めていた。子供の頃は皆が友達で、家族のようだった。田舎だから、みんな知った顔だし、そんなある意味閉鎖的な環境で、それでも自由に生きていた気がしていた。過去の記憶なんて沢山あるけれど、曖昧な記憶も多い。友達がどんな顔だったのか、正直言うとあんまり憶えていなかったりする。きっと会えば思い出したりするのだろう。そんな子供の時の、夏頃の曖昧な記憶の中で、特に印象に残っている事があった。

 僕は小学校低学年くらいで、何故か一人で近くの神社の跡地のような場所で遊んでいた。多分神社だったと思う。山の中にあった場所だし、滅多に人もこない。苔むした石の階段があって、少し上がると、開けた広場のような場所がある。昔は建物らしきものだった残骸が残っていた。今は朽ち果てて無残な姿だ。そしてその中央付近に、石の観音開きの扉がある祠があった。祠は僕の当時の身長と同じくらいの高さだったので恐らく百三十センチ位だったと思う。何を祀っているのかも分からない。扉は古びた鎖で厳重に巻かれ、取っ手部分は錠前で閉じられていた。まぁ、子供にとってはそんな事はどうでもいい事だ。田舎は砂利道が多く、舗装された道は車が通る最低限しかされてなく、玩具の車を転がして遊ぶのは危険だから、走らせることが出来る場所を探したのだろう。家の中ですればいいと思うのだが、子供ながら、外を走らせたかったのかもしれない。広場の周りは草が生えているが、石の祠までの道のりに墓石に使われているような、ツルツルの表面の石というか岩が地面に埋め込まれていた。おおよそだが、縦二メートル、横一メートルくらいの長方形の岩だ。そんな場所で僕はお気に入りの車の玩具を転がして遊んでいた。タイヤが回るので、手で押しただけでどんどん進んで行く。岩の表面もツルツルしているし、転がすというより滑らしていたのかも。手に持っているのは、赤いスポーツカーだ。外で遊んでいるので塗装が剥がれて、タイヤも車体もボロボロだった。それでも捨てたりせず肌身離さず大事に遊んでいた・・筈だ。

 近くに森があるので蝉の鳴き声が良く聞こえる。ヒグラシも鳴いていた。田んぼからは、蛙がケロケロと鳴いている。大合唱だ。ただ、その日はいつもと違う声が微かに聞こえていて、僕は初めは気のせいかと思っていたのだが、どうやらそれは、蝉でも鳥でも虫でもない。耳をすますと小さな女の子がすすり泣く声だった。こんな場所に僕以外の子供が居るなんて珍しいなぁと思いいつつ、何処から聞こえてくるのか周囲を見渡してみる。案外近い場所だ。どうやらあの石の祠の裏側から聞こえてくる。当時の僕は特にこれと言って怖いモノも無く、お化けも幽霊も妖怪も苦手ではない。ましてや、女の子が泣いているので、絶対にお化けじゃないと確信していた。無知は最強である。なんのためらいもなく、石の祠の裏側を覗き込んでみると、やはりそこには、僕と同じか、少し年上くらいの女の子が膝を抱えて、座っていたのだ。僕は思わず声をかけた。


「・・どしたの?お腹痛い?・・えっと・・君は・・」


 そこで僕は誰だろうかと、よくその女の子を観察してみた。ほとんどこの地域の子供は顔なじみだ。だからすぐに誰か分かるはずだと思った。が、その目論見は外れてしまう。知らない子だ。顔はあまり覚えていないが、その女の子が着ている服が、凄く印象に残っていた。よく小さな女の子が、お人形遊び等で使う、海外製の人形が着ていいるような、白いフリルの付いたドレスを着ていたのだ。それこそ絵本の中に出てくるようなお姫様が着ているような豪華なドレス。田舎なのでそんな恰好をした子を一度も見た事が無い。都会ならそんな恰好をしていても変ではないのかもしれないが。この田舎でその恰好は確実にオカシイ。今日は何かの祭りも行事も無いはずだ。そして、さらに不自然な事に気が付く。何故かその女の子は裸足だった。着ている服は豪華なのに、何故裸足なのか、しかもその裸足でかなりの距離を歩いているであろう、生傷が沢山ついていて、泥だらけだ。爪もいくつか割れていた。見るからに痛々しかった。ドレスも所々が破れて、泥なのか何なのか分からないが、茶色に変色している部分もあった。咄嗟に僕は、何処かから逃げて来たのかなと思った。それか、家族の誰かと喧嘩になって、着の身着のまま飛び出してきたとか。女の子は膝を抱えたまま、まだ泣いていた。そして、その女の子がゆっくりと顔を上げて僕と目が合う。泣いていたからなのか、目の色が赤い。そこには恐怖と絶望、悲しみが滲み出ていた。僕の姿を見ると少しだけその恐怖が薄らいだ気がした。ポツリとその女の子が呟く。


「・・たすけ・・この・・ざん・・な・・う・・い・・から・・」


なんと言ったのかよく聞き取れなかった。あまりにも女の子の声が消えてしまいそうな声だったからだ。ただ何となく、困っているようなニュアンスだったので、僕は何も考えずにこう答えた。


「うん、いいよ?・・僕のお母さんがね?困っている人がいたら助けてあげなさいって言ってた。あ、でも僕はお金は持ってないよ?お母さんがね、色んな問題はお金でなんとかなるって言ってた。だから、それ以外なら何でも言ってよ。僕に出来ることならね・・」


何でこんな事を言ったのか、自分でも分からない。すると、その女の子は「ふふっ」と笑ったのだ。さっきまで落ち込んでいたのに笑うくらいの、心の余裕が出来たのだろう。僕もそれで少し安心した。何が面白かったのか分からなかったが・・・。


「・・あなたのお名前は?」

「・・ん?僕はね?・・みた・・」





「・・・おい、三谷!聞いているのか?・・大丈夫か?」


 ・・ん?ここは、あ、会社か・・夢を見ていたのかな・・またあの時の夢か・・。そう言えば、あの女の子はどうなったんだっけ?・・覚えていないぞ・・。


「あ、すみません、ちょっと顔を洗って来ます・・・」


どうやらミーティング中に眠ってしまったらしい。残業続きで昨日もろくに眠ってなかったからだろうか・・。


辛い、苦しい、死にたい・・。なんて思う事は、誰しも一回くらいはあるんじゃなかろうか?僕の場合は、それがもっと深刻になった状態。今、流行の「うつ」と呼ばれる病だ。よく精神的な風邪みたいなものだとか、甘えてるだけだとか、うつが分からない人にとっては、その程度くらいの認識しかないんじゃないかなと思うのだけれど。見た目は普通の人と変わらないからね。ここで、うつを分かりやすく、誰でも知っているような病気に例えると、ズバリ、癌と同じもので、無視し続けると、最悪の場合、死に至る結構重めな病なんだよね・・。決して、風邪みたいに簡単に治るものではないのは確か。これで少しだけ、うつの事、分かってくれた?なんと表現すればいいのやら、とにかく辛いんだよ・・うん。まず、息苦しいんだよね、激しい運動とか一切やってなくて、普通に生活しているだけなのに、息を吸って吐くだけなのに、それが苦しいんだ。後は、なにが起こるってわけでもないのに、何かに怯えてるんだよ。不安で、不安でたまらない。その原因が自分自身には分からないんだ。しっかりと、休息を取っているはずなのに、体が訳も無く異常に重い。重くて、物凄くダルい。ご飯もちゃんと食べて、寝てる筈なんだけど・・。後、脳みそが上手く働かないから、仕事の凡ミスが増えて上司に注意されて、それでさらに、うつが悪化するという、最悪のループ。とにかく眠たい。それから、心が死んでいるから、何をしても楽しくない。アニメを見ても、映画を見ても、漫画を読んでも、ゲームをしても。あんなに楽しかったのに・・。まるで感じる心が無くなってしまったかのよう。内容が頭に入ってこない。そして、本当に一番厄介なのが、何かをしようとする、全てのやる気が失われていく事。これが酷いと朝、ベットから起き上がることが出来ない。何言ってんのコイツ?(笑)って思うでしょ?意識はあって、覚めているんだけど、体に力が入らなくて、冗談抜きで起き上がる事が出来ないんだよね。これはうつになった事がある人じゃないと分からない感覚だと思うな・・。朝起きるのがツライとか、面倒くさいとかではなく、起きる気力が無い。たったそれだけの事なのに、出来ないんだよ。そして、そんな自分をさらに、キライになっていく。抜ける事の無い深い、深い暗闇に落ちていく・・。


 いきなりテンションの下がるような事を話して申し訳ない。でもここを理解してもらわないと、説明が分かりにくくなるかなって思って。とりあえず僕の自己紹介をしよう。名前は三谷夏樹みたになつき。今年で21歳。田舎から都会に出てきて、派遣会社で働いていた、普通のサラリーマンだ。小中高校普通の成績で、特にこれと言った特技があるという訳でも無く、のめり込める趣味も特になく、絵に描いたような、平凡な人生だと思う。う~ん、普通の人と違うのは、両親が早くに亡くなってて、親戚の家に引き取られたんだけど、あんまりなじめずに、高校を卒業して、大学に行かず、バイトしてたって事くらいかな?新聞配達のバイトばっかりしてたから、友人も彼女も居ないんだよね・・。まぁ、それはいつか出来るとして、運よく入社出来た会社が、これまた、絵に描いたようなブラック企業。サービス残業が当たり前な社風で、何かに追われるように毎日の激務。一体どこからその量の仕事を持ってくるんだよってくらいの量があって、もう何が普通なのか分からなくなってしまっていたんだよね。平気でミーティング中とかに意識が飛んでしまうし。仕事内容はほとんどがデスクワークで、数字やらプログラミングの言語なんかとひたすら睨めっこ。あと何かしらの資料をまとめたりとか。会社が始まるのは八時十五分だけど、到底それでは間に合わないので、僕みたいな若手社員は七時くらいに出社して、業務に取り掛かるんだけど、その時間帯から、仕事が落ち着くのが夜の十二時過ぎ。缶コーヒーがないと、マジで精神を保てない。軽くカフェイン中毒になっている気がする・・。そこから歩いて社員寮に戻る。社員寮と言っても会社が借りているボロいアパート。月の平均残業時間が九十~百時間かな・・。二日前に入社してきた新人社員が、音信不通になって蒸発したりと、人の移動が激しい。居なくなった人の分の仕事も、今いる人員でやらないといけないから、たまったもんじゃない。そこから、徒歩で帰宅。もう味が飽きてしまった、カップうどんにお湯を入れて、コンビニで買ってきたおにぎりを二個食べて、夕食は終了。因みにカップラーメンはほとんど毎日食べたから、体が拒否して食べれない。カップうどんも時間の問題だけれど・・。後はシャワーを浴びて、ベットで就寝。ベットは二年間使っていて、流石にくたびれて、せんべいみたいになっているけど、お金がないから新しいのを買う余裕がない。そのせいかもだけれど、朝起きると腰がちょっと痛かったりする。まぁ、唯一の救いが、会社が歩いて行ける距離って事くらいかなぁ。一キロメートルくらいだし。だから、朝の満員電車に乗らないで済む。本当に何の為に生きているのか、最近深刻に悩んでいるんだけど・・空から女の子落ちてこないかな・・。


 こんな生活を続けていたある日の帰宅途中。意識が朦朧としていて、ふらふらしていて、足がつまずき、意図せず、車道に転んでしまった。そして、運悪く丁度のタイミングで自動車が通りかかり、僕は衝突してしまったらしい。その時に頭部を強打。すぐに病院に運ばれたみたいなんだ。病院の先生に後から聞いた話なんだけど、頭を少し切っただけで異常が無かったようで・・まぁ、一安心だけれど。もっと休養を取るようにと叱られてしまった。それから先生の紹介で、心療内科に行くようにと勧められたので、近くのメンタルクリニックで受診。結果は、重度のうつ、と診断されたのだ。しっかりと日々の生活で休養を取っていたつもりだったんだけれど・・まぁ、普通に考えると夜中の2時に寝て、朝6時くらいに起きてる時点で、あんまり寝れてないよね。でも頭が麻痺してて、そんな事を考える余裕なんて無かったんだよなぁ。それに食も偏ってるし。もっと野菜食べてって言われた。そんな事言われてもなぁ・・自分で自炊するる時間なんて無いし、弁当も深夜だから丁度コンビニに置いて無かったりするし・・。取りあえず次の日から休職することに。因みに半年を過ぎると、強制的に退職させられるらしい。もう、どうでもいいけれど。とにかく、一旦仕事から離れたかったんだ。


 翌朝、いつものように夏樹は起きて、スーツに着替え、玄関を出ようとした。そして急に動きが止まり、


「あ、今日、休んだんだった・・」


と呟いて、そのまま部屋のベットの上に戻ってまた寝た。日々の習慣がそうさせたのだ。そこから夏樹は泥のように眠った。目が覚めたのは、夜の9時過ぎ。頭がボーっとしていて意識がはっきりしない。窓から街灯の光が部屋に差し込んで、うっすらと、部屋を照らしている。


「・・ん?・・あれ?」


 寝ぼけているからなのだろうか?部屋に見慣れない物?がある。昔の漫画とかに出てきそうな、吸血鬼が入っていそうな、高さ約二メートル、横幅五十センチメートルくらいの真っ黒な棺桶っぽい物が、部屋の真ん中付近に、直立して立っているのだ。夏希の部屋はそんなに広くないので、そんなものがあればすぐに気がつく。ベットから少し離れた距離・・つまり目の前にそれはあった。


「・・は?何だこれ?」


 いまいち状況が上手く掴めない夏樹。どう考えてもこんな物があった記憶が無い。・・何だろう?まだ寝ぼけているのかなぁ?・・。夏樹はそんな事を考えながら、目を擦った。再び部屋を見渡す。


「は?・・何で?」


 やはり棺桶のような物が、夏樹の目の前にある。夏樹の意識が次第にはっきりとしてきた。それと同時に何とも言えない、不気味な、得体の知れない恐怖が、じわじわと沸き上がってくる。棺桶がある部分だけ、空間を切り取られているかのように、真っ黒だ。何も無いただの空間。まるで自分の心の中を見ているかのようだ。その暗闇を見ていると、しだいに夏樹の意識が遠のいていき、気を失った。


 次の日のお昼過ぎ。

 夏樹は目を覚ました。・・何だろう?・・何かを忘れている気がするんだけど・・。夏樹は部屋の中をグルリと見渡す。そこにはいつもと変わらない物が散らかっている、普段通りの部屋があるだけ。


「・・ふわぁ~」


 ・・なんだか久しぶりに、寝たって気がするなぁ。所々体が若干痛い気がするけれど、まぁ今までよりはいくらかマシだね。・・そこでふと、冷蔵庫に目が留まる。その時、頭の中を突然、刺すような痛みが走る。


「・・痛っ!」


 ・・あれ?なんだろう?事故の後遺症かな?体は打ち身で、痛いってのは分かるけど、頭は?・・・先生は、以上は無いって、言ってたけれども・・もう一度精密検査した方がいいかなぁ・・。そんな事を考えながら、夏樹は洗面台で顔を洗う。


・・ああそうか、会社休んでるんだった。別に顔とか洗わなくて良かったなぁ。まぁいいけどね。取りあえず・・お腹空いたな・・カップ麺ももう無かったし、久しぶりにスーパーで材料買って、自分で作るか。いや、それはまだ、面倒だから、弁当を買おう・・。


 パジャマから、外出用の服に着替える夏樹。そんなに私服は持っていないので、下はジャージ。上はグレー色のパーカーである。街中では無いのでこんな格好でも大丈夫だ。・・見た目なんてどうでもいいし・・。


 夏樹の住んでいる社員寮から、十分くらい歩いたところに、スーパーがある。スーパーでの道のりの中で夏樹はぼんやりと物思いにふける。


 ・・そう言えば・・平日の昼間にスーパーに買い物って、初めてかも。休みの日は行けたけど、いつもだったら平日は営業時間過ぎてるもんなぁ。残業でそれどころじゃぁなかったし。なんか、ちょっと新鮮な気持ちだ。会社に行かなくていいんだって思っただけで、こんなに気持ちが軽くなるのかぁ・・。もっと早く自分自身のSOSに気が付いてればなぁ。

そう言えば心療内科の先生が、うつになる人は大抵の場合、真面目な性格の人がなりやすいって言ってたな。心が限界なのに、それを無理やり、甘えたら駄目だとか、僕の仕事を誰が代わりにやってくれるんだ、とか理由を付けて仕事してたからなぁ。体の調子が悪くなるのは、心が助けを求めているから、か。あれ?どうして、そんなに無理してたんだっけ?休もう思えば、いくらでも休めたはずなのに、会社と上司、同僚の雰囲気に飲まれて、休めなかったんだろうな。僕は超がつく程真面目だからね。

う~ん、もう軽く集団心理というか、洗脳だよね。こうしなければならない、っていう暗示を自分自身にかけて、絶対オカシイと思う事も、皆がやってるんだから間違ってない・・赤信号、みんなで渡れば怖くないってやつだな。そもそもにして、プログラミングとか、苦手じゃん。なのに、苦手を克服しなきゃ!みたいに必死に勉強してたけれど、結局、資料をまとめたりとかしかしてない。重要な仕事も任せて貰えてないし。そりゃぁ、どうでもいい仕事なんて、無いとは思うけれど・・。どんなに頑張っても正社員の人の方が給料高いし。しょうがない事だけど。いや、どう考えても僕の方がスキルは上だと思うぞ!はぁ~、そんな事考えても何にもならないんだけど・・。自分が悪いのかなぁ。交通事故にあったのも、僕がちゃんと休まずに無理してたから起こったみたいなもんだし。そのお陰で会社を休めて、不幸中の幸いだったのかも・・。はぁ~、不満しか出てこない・・。世の中、理不尽だなぁ~。なんて言ってみたり・・。


 そんな事を考えていると、夏樹はいつの間にか、スーパーにたどり着いていた。中に入る。少しだけヒンヤリとした空気だ。果物の甘い香りがした。お客さんは多くもなく、少なくもなくといった具合。主婦の人やお年寄りの人が多めだ。いつものありふれた光景の筈なのだが、何かがオカシイのだ・・。


「・・ん?何だ?・・あれ・・」


 夏樹の目にふと入り込んできた、とある四十歳過ぎ位の主婦っぽい人。買い物かごを持っている。表情は少し暗めだ。その人の背中に、黒い何かが覆いかぶさっているように見える。少し透けていて、人の上半身のようにも見えるが、子供を背負っているようには見えない。黒い靄のような、煙のように時たま、それは、揺らいでいるのだ。


 ・・寝すぎて、頭がまだ、ボーっとしているのかな?何か、変なのが見えるんだけど・・そう思いながらとりあえず目を擦ってみた。何回か瞬きをして、もう一度さっきの主婦の人に目を向けてみる。


「・・はっ!?・・何で?」


 さっきと同じように、主婦の人の背中に、黒い何かが覆いかぶさっていた。夏樹は咄嗟に周囲の人達を観察してみるが、主婦には目もくれず、買い物をしていた。


 ・・という事は、あれが、見えているのは僕だけって事?何なんだ?アレは?はぁ?・・


 夏樹はスーパーの中で動きが固まり、思考も止まり、パニックになる寸前だった。もう少しで、叫び声を上げそうになった時、ふとあるモノに気が付く。そして、それを見て、さらにパニックなる夏樹。


「あ、あれって、確か、部屋の中に、あ、あった・・ような・・」


 主婦と夏樹の距離は、三メートルくらい。その主婦から二メートルほどの所に、昨日夢だと思っていた、黒い大きな棺のような物体があったのだ。

 ・・ああ、もう駄目だ。これ以上は頭で理解出来ない・・僕、とうとう頭がオカシくなってしまったんだ・・やっぱ、事故の後遺症があったんだ。も、もう駄目だ。叫んじゃうよ?叫んでいいよね?というか、わりかし自分の事大人だって思ってたけど、やっぱりまだ子供だったわ。何なんだよ!あれは!・・ああああああああああああああああああああああああああああ!・・。


 夏樹が盛大な叫び声を発しようとしたその時、黒い棺が観音開きのように開いて、その主婦の肩に覆いかぶさっていた、黒い物体をブラックホールのように、吸い込んだのだった。吸い込むと黒い棺の扉?が閉まる。あっという間であった。そして何事も無かったかのように黒い棺は静止していた。吸い込むときは、音もしなかった・・と思われる。


「あ、はっ?え?・・はっ?・・すい・・吸い込んだ?」


 夏樹は何が起こったのか、さっぱり理解出来ていない。


 ・・何だったんだ?今のは?・・吸い込んだ?何で?・・。


一瞬だけ、黒い棺から目を離し、主婦の人に目を向ける。さっきまでの暗い表情と雰囲気が嘘のように、晴れ晴れとした表情だった。まるで、憑き物が取れたかのように。もう一度黒い棺のに目を移すが、もうそこには何もなかった。


「・・あの!突然すみません、その体調とかって・・大丈夫ですか?肩が痛いとか、背中が重たいとか?」


 考えるより先に、夏樹はその主婦に話しかけていたのだ・・。


「えっ?・・は、はぁ。大丈夫ですけど・・?」


話しかけられて主婦っぽい人はとても驚いていた。

 ・・何やってんだ僕は!・・絶対に頭オカシイ人だと思われたよこれ。ああ、どうしよう・・でもさっきのが幻覚だなんて思えないし・・まさか白昼夢?・・どっちにしろヤバい奴には変わりないじゃん・・。でも、心配で、気になっちゃたんだもんね・・。あの黒い靄って、何だったんだ?


「あ、いや、その、すみません。顔色が悪そうに見えたので・・体調が悪いのかと・・余計なお世話でしたね?」


 そう言って、頭を下げる夏樹。

「えっと、あ、それはどうも。・・そんなに私、体調悪そうに見えました?実は、昨日良く眠れなかったんです・・ん?あれ?でも朝に比べてちょっと元気になったかもしれないです。何でだろう?なんかこう、やる気が出てきたような?」


「そ、そうですか・・あ、すみません。突然話しかけてしまって・・」

「あ、いえ、心配かけてごめんなさいね?それじゃ、私はこれで・・」

 そう言うと、軽く会釈をして、主婦っぽい人は買い物カートを押し、レジの列に並ぶのだった。


 その後、適当に弁当を買って、部屋に戻った夏樹。弁当を食べながら、さっきの出来事を分からないけれど、考えてみる。


 ・・あの人は朝、体調が悪かったって言ってた。もし仮に、あの背中に覆いかぶさっていた、黒い靄が悪いモノだったとして、それを、黒い棺が吸い込んだら、雰囲気も表情も良くなった。本人も体調が良くなったと言ってたし。・・いや、でもそんな事って、あるのかなぁ・・というか、あの黒い棺は何なんだろうか・・。誰に聞けばいいんだ?・・ネットに情報とか無いかな・・。

 

そう思い、夏樹はスマホで、検索してみるが、それらしき情報は出てこなかった。


 ・・やっぱりそうだよねぇ・・書いてるわけないか・・。


 暫くネットでそれらしき、キーワードで検索してみるが、出てこない。


「・・はぁ~まぁ、そうだよね・・ん?」


 とある記事に目がとまる。その記事には・・。


「・・黒い人影が病院などで、目撃される。・・え?なに?ホラー?そんな事は病院なら、あるんじゃないの?・・ん?いや、患者さんとかが夜とかに、徘徊してるだけじゃ・・上半身だけ・・ってあれじゃん!今日見た奴じゃん!・・目撃証言は・・この病院の看護婦さんとか先生とかで、同僚におぶさってた・・当時は、緊急の患者さんが多くて、医療スタッフが疲弊していたが、その職場のほぼ全員が、その黒い人影をお互いに、目撃していて、それぞれ、同じような証言をしている。幻覚とも言い切れない・・それでちょっとした、騒ぎになったって、ホラーじゃん!」

 

そう言って、夏樹はスマホをベットに放り投げる。


「いや、僕、この歳になっても、ホラー系は苦手なんだよなぁ」


 夏樹は、小学生中学年の頃に、テレビの再放送でやっていたジャパニーズホラーの金字塔の名作、井戸とか襖とか鏡とかから色々手とか出てきたり、呪いの人形だの、ビデオだの、を見て以来、お化けやら、幽霊やら妖怪やらが、苦手になったのだ。暫く、テレビのざざ~っとなる砂嵐の画面を見る事すら出来なかった。いやむしろ、テレビが怖かった。黒い髪の長い人?骸骨?がそこから出てくるかもしれないからだ。もうトラウマと言ってもいいかもしれない。


 ・・いや、だって、海外のホラーって、血がドバっと出たり、ゾンビとかだったり、狂人がチェーンソーを振り回したりとか、変な頭のオカシイ奴に捕まって、拷問されたり、って感じで、実体があるじゃん?まぁ、サブカルチャーとしては面白いかもだけど。それに比べて、国産のホラー映画って、呪いだとか、幽霊だとか、実体が無いじゃん?だから、余計に怖いんだよね・・。挙句の果てに、一番怖いのは、生きてる人間だぁ、とか。ホラーを作っている作家さんとか監督とか、本当に凄いよね・・人を怖がらせる達人だよ、まさか、実体験とか・・なんてね・・。どこでネタを思いつくんだろう・・。まぁ、僕には一生関係の無い事だけど。

 夏樹は、再びベットの上に放り投げたスマホを、手に取り、記事の続きを読んでみた。


「・・いつの話なんだろう・・ええっと・・二年前か・・まぁまぁ新しいな。それよりも最近の記事は・・見当たらない・・動画で見てみようかな・・」


 すると夏樹はスマホを操作して、世界トップレベルの動画共有サイトでそれらしきキーワードで、黒い靄について、調べてみた。


「・・まぁ、そんなの無いかぁ・・誰も好き好んであんなの、動画に撮らないもんね・・」


 適当に検索していると、とある動画のタイトルが目に入ってきた。

「・・ん?何だろう?【これが見えた方は、至急当院へ連絡してください。】・・え?何の事だろう・・釣り動画かな?」


 動画の再生回数は百万回を越えている。なかなか再生されて再生時間は三十秒ほどだ。・・病院って言ってるくらいだし、まぁ、ふざけてるわけでもなさそうだなぁ・・あ、コメントはどうだろう?みんなの反応は・・コメントオフになってる。という事は見てみるしかないって事か・・。

 夏樹は少し考えたが、結局のところ、黒い靄を調べるのが面倒になってきたので、気晴らしになるかは不明だが、見てみる事にしたのだった。再生ボタンを押す。


 この動画を再生した事によって、夏樹の運命は大きく動き出すのであった。この時の夏樹は、そのことを露ほども知らない。

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