少女と咄人 その肆

 私は飛び起きた。呼吸は激しく乱れ、落ち着きどころを見つけられずに彷徨さまよっている。数回過呼吸になりそうな息をし、それから呼吸の乱れは落ち着きを見出していった。

 私は溜め息交じりの息を深く吐き、手を額と眼の上に押し当てた。指先に嫌な汗がつく。そのまま額を拭ってみると、額に滲んでいた油汗が指に移った。べたべたとした嫌な汗だった。

 はぁ……、ともう一度溜め息を吐く。そこには夢だったという安堵感と、身体に重く圧し掛かってくる疲労感が滲んでいた。その場にそのまま居れば押し潰されてしまいそうなものを感じ、私は布団から身を上げる。そして、朝日を透過している薄い戸へと向かい、鳥たちが鳴いている外に出ようと思った。

 けれど、戸が開かない。最初はただ滑りが悪くなっただけなんだと思い、改めて何度も戸を押してみた。しかし戸はビクともせず、薄い見た目に似つかわしくない重量感を感じさせる。

「なんで……?」

 あまりのおかしさに、つい言葉が口から漏れる。私は再び意識と力を指先に集中させ、戸を押した。でも、結果は変わることはなかった。薄い戸はそこに固定されているように、動く気配を一切感じさせない。何度やっても、動くことはなかった。

 ただ障子を開けようとしているだけなのに、私は呼吸を荒げていた。気付けば、立っていることにすら疲労感を覚え、足からは急激に力が抜けていき、私はその場に座り込んだ。乱れた呼吸を戻そうと、数回深呼吸を重ねる。そして、また目の前の障子に視線を戻した。

 あまりに動こうとしない障子に私は遂に諦め、光だけを得ることにした。わずかに震える手を伸ばし、障子に張られた和紙へと人差し指を伸ばす。指先が和紙のざらつく表面に触れ、そこから指先に加える力を増していく。けれど、指先が赤くなるほど力を込めても、その和紙が破れることはなかった。

「嘘……でしょ……?!」

 思いっきり押してみても、和紙が破けることはなかった。まるで壁を押しているかのように、和紙は硬化してしまっていた。

 あまりの出来事に動揺が呼吸を掻き乱し始める。心臓がバクバクと動きを早め、呼吸は乱れを増していく。胸の奥に異物感が起こり、喉の根元から込み上げてくるものを覚える。私は口を手で押さえ、小さな嗚咽を漏らした。

 嘘。どうして。なんで。どうなってるの。何が起こってるの。なんで。どうして。嘘でしょ。本当に、何がどうなってるの……?

 頭の中を様々な言葉が巡る。目の前のことが信じられず、今が現実であることも疑ってしまっているほどだった。

 だが、そこで戸は音もなく開いた。するする、というわずかに擦れる音を立てて、何事もなかったかのように普通に開いた。外の光が部屋の中に漏れ込み、同時に一人の人間の影を形作った。

 私は驚き、顔を上げた。柔らかな光が注ぐ庭を背景に、薄暗い影を纏った東斎さんがそこには立っていた。東斎さんは私に気付き、私の様子を見て、驚きと困惑が混在した表情を浮かべた。それも、私の様子の答えを探すように一度後ろを振り返ったりもするほどだった。

「だ、大丈夫ですか、かごめさん」

 東斎さんが心配を露わにした声をかけてくれる。私はしばらく黙り込んでいたけれど、心配かけまいと返答する。

「大丈夫です。ご安心ください」

 そう言い、力の入りづらい足に意識を注ぎ、なんとか立ち上がる。平静を装うために特に意味もなく着物の表面を軽くはたき、そして東斎さんの方に向き直る。

「どうぞ、お入りください」

 そう言い、私は先に部屋の中へと進んだ。東斎さんはまだ私のことを心配しているのか、疑うような表情を浮かべつつもゆっくりと私の歩みに続いた。

 私には開けることすら出来なかった障子が、音もなく閉じられる。再び外との隔たりが生まれ、室内の空気が私のことを邪魔者と判断しているような圧迫感を肌に感じた。胸の奥で何かが蠢く。口の奥に質量のない塊が詰まっている気がする。涙腺が軽く湿る。

 東斎さんに顔を見られたくなくて、私は俯きがちにその場に座り込んだ。けれど、東斎さんに気付いた様子はなく、いつものように荷物を肩から下ろしているところだった。見られていないのを確認してから、私は指先で目元を拭う。指先の湿りを確認するため他の指と先をすり合わせ、そのまま隠すように手の中に滑り込ませて拳を握った。

 東斎さんが私の正面にゆっくりと腰を下ろし、正座をする。私は顔を上げ、東斎さんと視線を交錯させた。しばしの沈黙が辺りを満たす。けれど、いつもと同じく東斎さんがその沈黙を破った。

「では、今日の御咄を始めますね」

 その言葉に、私は小さく「はい」とだけ答えた。

 東斎さんは瞼を下ろし、深呼吸を数回行う。いつものように深く吸って、どこまでも吐き出す深呼吸。東斎さんの呼吸だけが室内に響く。

 東斎さんはゆっくりと息を吸い、そして瞼を開いた。覗き込めば冷水に飛び込んだかと錯覚するような冷めた瞳。夜の湖面のように静まり返っている一方で、虚ろな澱みを瞳の奥に宿している。

 東斎さんは口を開き、肺に溜めていた空気に乗せて言葉を発する。無機質な、冷淡とも言える口調。まるで壁に話しかけているような、特定の誰かに向けられたものではないような口調。

 東斎さんは淡々と語る。

「これからお話ししますは怪談咄。アヤカシや幽霊、怪異や化物にまつわる類から、出所不明の噂咄に至るまで、種類は様々に御座いますが、全てに一様に申しあげられることが在ります。それは、これから致します御咄は何処かの土地に息づいているということで御座います――」

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