手の夢

        …―◆―…


 薄暗さの漂う部屋の中に、東斎さんの発した言葉が溶けて消えた。沈黙が降り立ち、室内は静けさに包まれる。私も押し黙り、静けさを保っている。いや、押し黙っているのではなく、喋る元気がなかったのだ。口を動かす気力がなく、私はその場に座っているだけで精一杯だった。

 部屋の中の空気がひとしきり静まり返ったところで、東斎さんが口火を切った。

「大丈夫ですか?」

 東斎さんは私を見つめ、心配そうな声を上げた。それに応え、私は顔を上げて無理矢理に笑みを作る。しかし、それは変に引きつった表情だとも言えるようなものになっていただろう。けれど、私にはその顔を作るのが限界だった。

「……はい」

 蚊の消え入るような声で答える。その声はわずかに空気を震わせ、なんとか東斎さんのもとにまで届くことができたようだった。

「そうですか……」

 東斎さんが弱弱しく漏らした。けれどその声色から判断するに、私への心配はまったく払拭されていないようだ。東斎さんの心配そうな瞳が私にしげしげと向けられている。

 私はゆっくりと瞬きを一度し、再び答える。

「本当に……大丈夫ですから」

 言葉一つひとつを味わうように、ゆっくりと口から吐き出した。おかげで、まるで言葉一つひとつに体力を吸い取られていったかのように、身体の重さ怠さが増していった。

 私は口を固く閉じ、静けさを纏う。すると、その雰囲気を察してか、東斎さんは短い別れの言葉を残し、ここを去っていった。

 遠のいていく足音を耳にしながら、私はその場に横になる。身体からは潮がひくように活力が消えていき、私はその場で動かなくなる。瞼が重くなり、徐々に開けていられなくなっていく。遂には瞼を完全に閉じ、私は闇の中に落ちた。意識が闇に溶けていき、私は現実との境界を見失っていく。

 そして、また夢が始まった。



 ひどく寒い。肌を這う空気は冷水のように冷え切り、私の身体をむしばんでくる。

 ここはどこだろう……?

 辺りはひどく薄暗い。空には厚い雲が流れ、今が昼なのか夜なのかも分からない。私は辺りを見渡してみる。周囲には木々がぽつりぽつりと生えており、どこか物寂しい感じが漂っている。草は水分を求めているように元気なく生え、地面がむき出しになっている所もいくらかあった。

 バサバサという羽音と共に黒い影が舞い降りた。それは木の枝の一つにとまり、私に鋭い眼光を向けた。品定めをするようなその瞳が、暗闇の中でギラリと光る。

 途端、カァァという鳴き声を鳥は発した。それは天を突き、辺り一帯に響き渡った。その声は威嚇のそれにも聞こえるようだが、どこか警告のように私には聞こえた。

 カァァと再び声を上げ、カラスは飛び立った。その姿を視線で追ったが、空の黒い雲と色が混ざり合い、途中で見失ってしまった。

 遠くの木々が風に振られ、葉が擦れ合う音が聞こえる。木が揺れ、枝が互いを叩き合う。その音はじわじわと私の方へ向かってくる。

 私は不思議と心がざわつくのを覚えた。その理由は分からない。けれど、とても嫌な気配がした。

 ひゅううう、という音と共に私は風に包まれた。生暖かい嫌な風。周囲の木々がざわつき、その音が私を包み込む。肌寒さとは違う鳥肌が私の身体を走る。心臓の鼓動が体内に大きく響く。

 ドクンッ、という大きな心音が響き渡ると、不思議と辺りは静寂に包まれた。風が止み、木々は先ほどまでのざわつきが嘘のように静まり返る。大きく音を鳴らしていた心臓も鳴りを潜め、動いていないかと思うほど最小限の動きに変わっている。

 とても居心地の悪い静けさだった。

 その中を動く私の視線が一つの影を捉えた。静寂の闇の中に溶け込んでいるその影は、よくよく見ると人の形をしていた。けれど、何かが足りない。何かが……そうだ、その人影には右腕が足りない。

 片腕の人影は、暗闇の中で静かに私を見つめている。その視線を肌でひしひしと感じ、その視線に押されるように私の重心は後ろに移っていく。そして、重心の移動に伴い、私は一歩後ろにひいた。

 カシッ、という乾いた音が響く。首筋に水を垂らされたような驚きで私は跳び上がってしまったが、確認してみると私が枯れ草を踏んだだけだと気付き、胸を撫で下ろした。

 しかし、私は動いていないというのに、カシッカシッ、という枯れ草を踏む音が私の耳に届いた。私は息を飲み、そして呼吸を止める。体内でドクドクと心臓が脈打つのが聞こえる。

 私は恐るおそると顔を上げる。枯れ草を踏む音がする方へ、と。すると、それはあの人影が居る方であった。

 カサッ……カサッ……。

 音は止むことなく、静寂の中で尖った音を立てている。私の視線が暗闇を撫で、そして、あの人影を捉えた。人影は身体をわずかに揺らしながら、一歩、また一歩と、こちらに歩み寄ってきていた。その視線は逸れることなく私一点を見つめており、暗闇の中で白い目が異彩を放っていた。

 私の中で恐怖が湧き起こる。溢れ出る感情から私の足は自然と後退し、それをきっかけに私はその場から逃げ出した。走って、駆けて、必死に逃げた。

 しかし、影は私を逃がすことがなかった。

 静寂の空間に私の足音が響いていると思うと、そこに別の足音が混ざり出した。枯れ草を蹴散らす、一歩一歩が重い足音。その音に引かれるように私はチラッと振り向いてみると、あの人影が私のことを追いかけて来ていた。それもととても速い速さで。

 私は追いかけてくる影を目にし、すぐに顔を前に戻した。

 捕まる……。私の脳裏をその言葉が過ぎった。けれど、すぐに頭を振ってその邪念を頭から追い払う。無駄に嫌なことを考えている場合ではないと思い、私は走ることに集中した。足に意識を向け、必死に駆けつづけた。

 だが、影の足音との距離が縮まる様子はなかった。それどころか、徐々に近づいて来ているような気がした。

 その気付きが私を焦らせる。私はちらちらと後ろを気にしつつもなんとか走り続ける。だが、それも長くは続かなかった。

 最初は何が起こったのか理解ができなかった。突然、私は足場を失い、宙に投げ出される。全身を一気に血が引いていく感覚が包んだ。頭は真っ白になり、血を失った血管を恐怖が満たす。

 私は前を向いていた視線を下に下ろした。すると、そこには深淵の闇が口を開いていた。

 私は前や後ろにばかり気を取られていて、足元を確認していなかった。そのため、気づかぬままに崖から飛び出してしまっていたのだった。

 死。一文字が頭を駆け巡る。全身が震え慄き、突如突きつけられた死という現実に気が動転する。処理しきれない気持ちから目を白黒とさせ、心臓が急激に速まり呼吸を乱す。

 私……私、死んじゃうんだ……。

 そう思った瞬間、私の身体は闇に引きずり込まれるように落ち始めた。足先から頭の先へと、落ちていく嫌な感覚が一瞬で駆け抜ける。

 しかし突然、ガクッと身体は落ちるのを止め、鈍い痛みが右腕に残った。右手首を絞められているような痛みと共に、肩に外れてしまいそうなほどの負担がかかる。

 何が起こったの……? 私は闇の淵からゆっくりと顔を上げた。そして、信じられない光景を目にした。

 驚くことに、私を追いかけて来ていたはずの影が左腕で私の右腕を掴んでいたのだ。おかげで私は淵のそこの闇に飲まれることなく、この場に身を留めることができている。

 助けて……くれたの……?

 不思議としか言えない目の前の現状に、私は理解が追い付かない。ただ、落ちることから救ってくれたのを見ると、助けてくれたと考えてもいいのかもしれない。

「あ……ありがとう」

 私は落ち着きの取り戻しきれていない震えた声で礼を述べる。しかし、相も変わらず影は無表情で私を見ている。いや、よく見てみると少し違う気がする。胸に降って湧いた違和感を払拭しようと、私は影の視線を恐るおそると追ってみた。

 その視線は私に向けられてはいたが、ある一点、ある部位にのみ向けられており、そこから逸らされることがなかった。その部位こそが、今、影が掴んでいる私の右腕だった。そのことに気付いた一瞬、胸の底がさざ波のようにざわついた。そしてそのざわつきは次の瞬間には苦痛に取って代わった。

 影は私の右腕を掴んでいた左腕を引き寄せ、私の腕をまじまじと近くで見たかと思うと、突然私の肩に齧り付いた。

 激しい激痛が私の右肩を襲い、私は悲痛の叫びを上げた。しかし、影は止めることなく、私の右肩を噛み続ける。肉を喰いちぎり、骨を噛み砕き、血で口元を赤く染め上げる。その顔は変わらぬ無表情のままだった。

 あまりの痛みに私は意識が飛びそうになる。その痛みはまるで、針で刺されながら火で焼かれ、骨を折られながら肉を切り刻まれているかのようだった。つまり、言葉では説明できない、頭では処理しきれない痛みに私は襲われていた。

 ベキッ、という無機質な音が耳元で響いた。と同時に、その音をそこに置き忘れたように私から遠ざかっていった。

 一体どうなったの、という考えが朦朧とした頭の中で淡く浮かび上がり、私は涙で滲んだ視線を投じた。すると、私の右腕だけがあの影の左手に掴まれ、その他の私は淵の底へと真っ逆さまになっていた。

 ああ、今度こそ私は死ぬんだ……。

 もうどこが痛いかもわからなくなっており、視界は端の方から闇が蝕まれつつあった。そんな狭まる視界の中で、最後に影の姿を見る。

 影は笑っていた。

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