よつ

てるてるぼうず

 空には厚い雲が立ちこめ、まだ日中だというのに地上に暗がりをもたらす。日はすでに落ちてしまったのかと錯覚してしまうほどの暗さが漂い出し、それは山を歩いている一人の男の胸に不安を掻きたてていた。男は木々の隙間から空を見上げ、灰色の厚い雲を確認する。

 これは一雨来そうだな……、と男は心の中で呟いた。視線を前方に戻し、歩く速さを少々上げる。こんな山奥で雨に降られたらたまったものじゃない、という考えが男の頭の中を巡っていた。その意識が与える焦燥感からか、男は足早に山道を歩き続けた。



 数分して、空が喉を鳴らすようにゴロゴロと鳴りはじめた。それに合わせて、男の首筋に冷たいものが滴り落ちる。男は突然のことに少し肩を竦めつつ、首を上に向けた。天然の屋根のように覆っている樹木の枝や葉の隙間からわずかに覗く空は、その色を濃くしていた。そして次の瞬間、辺りは激しい雨音に一気に包まれた。ザァァァァ、という雨音が周囲を満たし、その他一切を飲みこみ排除している。雨が激しく振り落ちているというのに、静寂と言っても似つかわしいと思えるような状況であった。

 しかし、男はそんな悠長なことを感じてはいられなかった。突然の豪雨に対し、男はまだぬかるみ始めていない地面を蹴って走り出す。雨宿りできる場所を探すことが一番の目的だったが、この山はそれだけでは安堵できるような場所ではなかった。地質的な問題で、この山は豪雨のたびに地滑りを起こし、遺体の見つからない死者を多く作り出していた。幾度となく繰り返される地滑りに山道は原型を留めていられず、大きな岩や倒れた木が塞いでいるような場所もあるほどだった。そのため、たとえ雨宿りができるような場所を見つけたとしても、こんな山奥では土砂に飲みこまれる可能性が高い。だから、少しでも安心できる場所で雨があがるのを待ちたい、という思いで男の頭の中はいっぱいだった。

 だが、その思いが通じてか、男の目の前に予想外のものが現れた。

「村だ……」と男は独りごちる。

 その声色は驚きそのものだった。というのも、今までこの道を何度か使ったことはあったが、ここに村があるのを今回初めて知ったからだ。見逃していた、というには不自然さを感じるほどに、目の前にははっきりとその村の様が見て取れた。森は開け、軽く高台になっているその場所からは、見逃しえない村の存在が明らかであった。

 だが、男の思考を掻き乱すように雨は激しさを増していく。葉を伝い、集まり大きくなった雨粒たちが零れ落ち、男の肌を叩いて流れていく。男は目の前のことに対し不思議なこともあるものだと割り切り、その足を村へと向かわせた。



 男は村の中央道らしき道を駆けていた。道には彼以外には人っ子ひとり居らず、おかしいほどに閑散としていた。

 ある程度走ったところ、男は民宿の看板を見つけた。足をその家へと向け、そこの戸を叩いた。

「誰か! 誰か居ませんか?」

 ドンッドンッ、という鈍い音が家屋内にくぐもった音を響かせる。すると、中から声が返ってきた。しゃがれた女の声だ。

「はいはい、いま開けるよ。そんなに騒がんでくれ」

 ガチャガチャと物音がすると、戸はゆっくりと開かれた。男の目の前には一人の老婆が立っていた。猫背がひどく、元の身長がわからないほどに急な角度で曲がってしまっている。肌には張りが失われ、頬の肉は垂れ落ち、深い皺を刻み込んでいる。

「一体なんの用だい。ん? あんた見かけない顔じゃのう」

「旅の途中で急な雨に合ってしまいまして。できれば雨が上がるまで上がらせてもらえないでしょうか? 代金の方はお支払いしますので」

「そうかいそうかい、旅のお方かい。ほら上がんな。けんど、この雨は今日中には上がらんと思うぞ」

 そう言って老婆は家に男を招きいれた。男は家に入り、履き物を脱ぎながら訊ねる。

「雨がいつ止むのか分かるんですか?」

「いんや。ただこの雨がそう簡単には止まないというのだけは分かるのう。おそらく数日つづくじゃろうな」

 老婆は窓越しにどこか遠くを見ながら言った。男はその方向に何かあるのかと思い見てみるが、あるのは古びた家々と泥の飛び跳ねる道だけだった。

「そんなにも続きますか。けれど、雨の中ここいらの山道を行くのも危険ですよね」

「そうじゃな。最近は地滑りが頻発してるからのう。おそらく今回もどこかで起きるじゃろうな。巻き込まれないとは言い難いのう」

「そうですよね……。では、雨が上がるまではこちらに滞在させて頂きます」

「うぬ。この村には人なんぞ滅多に来んからのう、ゆっくりしていくとええ」

「ありがとうございます」と言い、男は頭を下げた。

「お前さんはこの部屋を使うとええ」と言って、老婆は男を部屋へと案内した。

 男は案内された部屋で荷を下ろし、濡れた身体を乾かす。六畳間の簡素な部屋。机などといったものすらなく、布団を敷いて寝る以外には何の目的も持ちそうにない部屋だった。

 男は髪の毛についた露をふき取り、壁に空いた格子窓から外を覗く。屋根を伝い落ちてきた雨粒が大粒となり、屋根先から零れ落ちていく。しとしと、という雨音だけが湿っぽく響き、辺りを覆い尽くして静けさを誘っていた。



 老婆の言う通り、その日に雨が止むことはなかった。雨は村に幕を掛けたかのように村全体を鈍色に染め、永遠を刻むような単調な雨音だけを聞かせていた。

 男は民宿から外に出ることなく、ずっと屋内に籠もっていた。部屋の窓から家並みを覗いてみてもそこには人の気配どころか生気すらも感じられず、まるで死者の集落かのように冷たく静まり返っていた。

 絶え間なく振り続ける雨と籠もりっきりの状況に嫌気が差し、男は暇つぶしがてらにあるものを作り出した。布きれを丸め、その上に手拭いを被せて紐で縛る。それを窓のそばに吊るした。いわゆる、てるてる坊主、というやつだ。

 男は窓のそばで静かに揺れるてるてる坊主を見つめ、口ずさむ。


   てるてる坊主 てる坊主

   あした天気に しておくれ

   いつかの夢の 空のよに 晴れたら

   金の鈴あげよ


   てるてる坊主 てる坊主

   あした天気に しておくれ

   私の願いを 聞いたなら

   あまいお酒を たんと飲ましょ


   てるてる坊主 てる坊主

   あした天気に しておくれ

   それでも曇って 泣いてたら

   そなたの首を チョンと切るぞ


 だが、所詮は気休めであるため、歌い終えると男は自らを馬鹿にするように鼻でわらった。こんな歳になったというのに、何を馬鹿らしいことをしているのだか……、という考えが男の頭に浮かんでいた。

 そのとき、部屋の戸がゆっくりと開かれた。男は今の歌を聞かれてしまったかと思い、少々気恥ずかしさを感じつつ、戸を開いた相手に向き直る。

 戸を開いたのは老婆であった。男は薄々あたりを付けていたため老婆であることに驚きなどはなかったが、自分の素を垣間見られたような負い目を感じ、先に口を開くことができなかった。しかし、そのように考えすぎている男を小馬鹿にするかのように、老婆は普通に男に話しかけた。

「お茶が入ったけんども、お前さんも飲むかい?」

 何事もなかったような老婆の口調に、男は聞かれていなかったと安堵し、自らも普通に応じた。

「はい、お願いします」

「うぬ」と言い、老婆は戸を閉じようとしたが、その視線があるものを捉え、戸を閉めようとする手が止まった。

 突然の停止に男も不可解さを感じ、老婆の視線を追ってその先を見つける。そこには先ほど作ったてるてる坊主が風に揺られながらぶら下がっていた。

「これがどうかし――」と男が言いながら老婆の方へと視線を戻そうとしたとき、不意に取られた老婆の行動にその言葉の先を失った。

 老婆は戸を開け放ち、ズカズカと男のいる部屋を横切っていた。その様は必死そのものであり、男は突然の老婆の変貌ぶりにかける言葉が見つからなくなっていた。しかし、そんな男に意を向けることなく、老婆はある場所へと駆け寄っていた。そこは窓であり、着くなり手を伸ばしてぶら下がっていたてるてる坊主を引き千切った。

「な、何をするんですか?!」と男は驚きの声を上げる。

 だが、老婆は自らの手に握りしめた布の塊を見つめ、息をハアハアと荒げているだけだった。老婆の上下する肩が少々収まりを見せてくると、老婆は呼吸を整えて口を開いた。

「こんなもんを勝手につけんでくれぇや」

「こ、こんなもんって……ただのてるてる坊主じゃないですか」

「じゃから、それを勝手につけるなと言っとるんじゃ」

 老婆のあまりにも真剣な怒声に男は返す言葉を失う。ただのてるてる坊主になぜそこまで気を荒立てるのかが全く理解できなかったからだ。

 老婆は何かを探すように窓から外をキョロキョロと眺めた。その様は何かに怯えているようだが、一体何を恐れているかは男には分からなかった。老婆は一頻り外を探り終えると男の方を見ることもなく、何かをぶつぶつと呟きながら部屋を後にした。男は声ひとつ掛けることができず、老婆を見ていることしか出来なかった。



 その日、男は老婆のあの不審な行動をずっと気にしていたが、老婆の方はおくびにも出さずに変わりのない状態だった。その様子が不気味さを醸し出しており、男はあの行動の真意を聞けずにいた。

 男は食事を済ませると老婆の前から去り、自室に下がった。昨日の食事と異なり異様な雰囲気の漂う場から逃げ帰ったという方が正しいかもしれない。それほど男の肌に感じるものは異様なものであった。

 男はひとり部屋に座り込み、考える。なぜ老婆はてるてる坊主があることにあれほどまでに過剰な反応を見せたのか。加えて、てるてる坊主を取り除いた後に周りを気にしていた様子も気になる。村の人々を一人として見かけたこともないし、どうにも気になることが多い。

 一体この村はどうなっているんだ……?

 だが翌日、その答えはとんでもない形で男の前に現れた。



 翌朝、雨は相変わらず同じ音を奏でている。水が染み込みぬかるんでいる地面を雨が叩き、湿った音を鳴らしている。

「随分と長い雨だな……。これで三日目だってのに」

 男は窓から外を眺め、霞がかった村の様子を見ながら呟いた。村は変わらず人気ひとけが無く、男と老婆以外には実は誰もいないのではないかと感じさせるほどだ。

 しかし、その静かな朝を突然白い閃光が切り裂いた。それは空から地上に目掛けて降り注ぎ、村のどこかに落ちた。数瞬遅れて、爆音が男の鼓膜を震わせる。あまりの大きさに男は耳を押さえ、その身を丸めた。

 咄嗟に閉じていた目を開き、外の様子をうかがう。

「でかい雷だったなぁ。近くに落ちたようだけど、火事とか起きてないといいが」

 そう言って男は身を乗りだして周辺状況が大丈夫であるかを確認しようとした。すると、ほぼ同時と言っていいほどの頃合いで、すべての建物の戸が開かれ村人が姿を現した。今まではその存在が一切感じられなかったために、目の前の出来事と村人の姿に男は驚きギョッとした。

「な、なんだ……?!」

 男はいぶかしみながら言葉を漏らした。対して、建物を出た村人たちは雷が落ちた方を見つめ、ぞろぞろとそちらに向かい出す。その異様としか言えない状況に、不思議と男も気になってしょうがなくなってしまい、追うように民宿を飛び出していた。地面の泥を蹴散らしながら人々の姿を探し、そしてとある家の先に多くの村人が集まっているのを見つけた。

「何かあったのか……?」

 男は集団のもとに近づき、彼らの視線の先を確認する。だが、その先にあったのは何の変哲もない普通の家屋であった。

 ここがどうかしたのか……?

 男は群がっている周りの他の野次馬を確認すると、偶然そこに民宿の老婆が居るのを見つけた。老婆のもとに近づき、男は訊ねる。

「何かあったんですか?」と、男は口元に手を添えて小声で老婆に訊く。

「ん? ああ、あんたか」と老婆は顔を男の方に向けて言った。「あれを見てみい」

 老婆は家の庭に生えている木を指差した。男もその指先を追って庭の木を見る。その木は幹が真っ二つに割かれ、全体的に黒く焦げていた。雨が降っているというのに、焦げた幹からは薄い灰色の煙が上っていた。

「あれって……さっきの雷が落ちたってことですか?」

「ああ、そうじゃ」

「でも、それとこれとどういう関係があるんです?」

 男が訊いたと同時に、建物の戸が内側から。中から一人の男が転がり出てきたが、どうやら体当たりをして戸をぶち破ったようだ。野次馬たちは小声で話す事さえもやめ、全ての視線がその男に向けられた。だが男はそんな視線に気づきさえもせず、躍起になってその身を起こし逃げようとしていた。まるでお化けにでも追われているかのように、泥にまみれようが逃げることだけに専念している様子だった。

 戸を失った出入り口から数名の男たちが姿を現す。逃げようとしていた男はその男たちの姿を目にすると、悲鳴じみた声で懇願を始めた。

「た、頼む、見逃してくれ! 俺には妻も幼い子供も居るんだ。死ぬわけにはいかんのだ」

 死ぬ……?

 男は逃げようとしている男の言葉に引っ掛かりを覚える。だが、周りの人間の顔をうかがっても、同じような疑問を抱いている様子は微塵も感じられなかった。皆がみんな冷めた瞳を逃げようとしている男に向けており、それは背筋に悪寒を走らせる不気味な光景であった。男は今しばらく状況を見定めようと、視線を軒先の男たちへと戻す。

 出入り口から姿を現した男たちの内、先頭の男が逃げようとしている男のもとに寄り、言葉をかける。

「決まりは決まりだ」

 身震いを覚えるほどに冷めた静かな口調に、逃げようとしていた男は自身の最期を見た。その瞬間、彼のタガが外れた。駄々をこねる子供のように喚きだした。

「イヤだぁああぁああぁああ。死にたくないっ、死にたくないんだああ」

 だが、その必死な叫びは虚しく雨空に響くばかりで、誰一人として助けようとする者は居なかった。

 建物の奥から布団ほどの大きさの白い布を持った男が現れる。その男は何の迷いもなく、泣き叫ぶ男にその白布を被せた。

「や、やめろっ!」

 布を被された男が喚きながら腕を振って抵抗する。だが男たちはまるで罪人に対する扱いのように容赦なく蹴りを入れ、抵抗する男を黙らせた。暴れていた男は鈍い呻き声を漏らし、そのままぐったりと動かなくなってしまった。男たちの内の一人が布を被った男の頭を持ち上げ、その首に赤い紐をぐるぐると巻きつける。

 チリン、チリン――

 場にそぐわない軽快な音が聞こえた。それは赤紐を巻かれつつある男の辺りから聞こえてくる。様子を見ていた男は野次馬の集団を掻き分け、男たちの方へと少し近づく。ちょうど紐を巻いていた男が作業を終え、ぐったりとした男をそのままに傍を離れた。動かない男は頭から白い布を被せられ、その首には窒息しない程度の強さで赤い紐を何重にも巻かれていた。そして、その赤い紐には金色の鈴が付けられていた。

 豪雨と言うほどではないが小雨ながらも長い時間が経ち、男に被されていた布はじわじわと湿り気を増していく。そのまま放っておけば濡れた布のせいで男は呼吸ができなくなってしまうだろう。だが、そのような心配は無意味だと言わんばかりに、男たちは布を被った男に頭から酒はぶっ掛けた。一升瓶ごと男の頭の上でひっくり返し、その中身を容赦なく全てかけた。布は完全に濡れそぼり、男の薄い呼吸に合わせて口元の布がピクピクと動いていた。

 どうなってんだよ……。

 目の前で起きている出来事が自分と同じ世界のことだとは信じられなかった。周りの人間は誰一人として目の前のことに疑問を抱いておらず、これが当然のものであると思っているようだ。

「あとは妻と子の一人ずつ。まだ遠くに行っていないはずだ。探すぞ」と男たちの先頭に居た男が言った。

 残りの男たちはすぐに了解し、それぞれが別の方向に散っていった。それに従うように野次馬の集団もばらばらと散り始めた。男も他の人々と同様に、文句ひとつ言うことなく民宿へと戻っていった。



 民宿に着き、男は老婆に話を聞いた。

「あれは一体何なんですか?」

「あれはのう、儀式なんじゃ」

「儀式?」

「この村は呪われておる。まずはその話からした方が良いじゃろうな――。

 それはずっと昔のことじゃ。当時の村にはまだあんな風習はなく、ごく平凡な村じゃった。じゃがある日、村に三人の武士がやってきた。彼らは合戦に向かう途中で山に迷い、この村に辿り着いたんじゃ。随分と疲弊していたそうじゃが、村人たちが手を貸してやり、彼らは快方へと向かっていったそうじゃ。けんど、そこで村の祈祷師がある言葉を村人たちに告げた。『あやつらは災いをもたらす。早急に手を下すべきだ』

 そうして、村人たちはそのお告げに従い、武士たちを殺めたんじゃ」

「こ、殺したんですか?」と男は恐るおそると確認した。

「そうじゃ。そう言ったじゃろ。話の腰を折るでない。あぁっと、どこまで話したかのう……?」

 老婆は目を細めて頭の中の記憶をあさっていた。

「村人が武士を殺したところです……」

 男は怒鳴られたことに少々ムスッとしながら弱弱しい口調で答えた。

「おぉ、そうじゃったそうじゃった。武士たちを殺めたところじゃったのう。

 武士たちを殺してから、村では不可解なことが起こるようになったんじゃ。最初はちょっとしたことじゃった。転んで怪我をする程度のささいなことじゃ。じゃがある日、雨が降り始めると、その雨は随分と長く続いた。梅雨の時期でもないというのに、数日、数週間、数ヶ月とな。ここいらはもともと土のやわい土地でな、昔から時折り地滑りが起こっておったが、その長雨のおかげで地滑りが頻発し、多くの犠牲者が出た。村人たちは自分たちが殺めてしまった武士たちの崇りだと思い、村のはずれに祠をつくり彼らの怒りが鎮まるように願った。しかし、雨は止まんかった。それどころか、祠をつくったその日は今まで以上に天候が荒れたとそうじゃ。台風でも来たかというほどにのう。

 じゃが翌日、今までの長雨が嘘のように空はからっと晴れた。村人は武士たちが怒りを収めてくれたと思い、感謝を述べようと村のはずれの祠へと向かった。じゃが、そこにあったのは祠と、白の布にくるまれ、首を金の鈴がついた赤い紐で縛られた、祈祷師の死体じゃった。武士たちは怒りなんぞ鎮めておらんかったんじゃ。

 それからこの村では一度雨が降り始めると三日は続く長雨が多くなった。さらには、そんな雨の三日目には決まって白光りする雷がどこかの家の木に落ちるようになったんじゃ。武士たちは死んだ今でもこの村を忌み嫌い、白い雷で捧ぐべき生贄を選んでおるわけじゃ。選ばれた家の者はみな、白布を頭から被せ、その首を金の鈴と赤紐で縛り、頭から日本酒をかける。そうして、次の日にはようやく止むというわけなんじゃ。それがこの村で昔より行われてきた、古いしきたり、儀式なんじゃよ」

「そ、その家の人達はどうなるんですか?」と男はわずかに震えたような声で訊ねる。

 老婆は静かにその顔を上げ、男をその細い目で見ながら言った。

「雨が止んだ日に死体として見つかるんじゃ。その首を切られた形でのう」

「く、首を切られて……」と男は消え入るように言った。

 男は老婆の話に動揺を覚えていた。武士の崇りなんてないと言い切るつもりはないが、それを信じ、雨が降る度に人を殺しているという状況を信じることができなかった。しかし、現に自らの眼でこの村の状況を目にしたために、信じざるを得ないという思いであった。

 だがそこで、男と老婆のいる部屋が一瞬白く照らされた。それは窓から差し込んだ光で、一瞬ではあったが彼らの瞳にその残像を刻みつけるほどの強い閃光であった。そしてほぼ同時に、爆音が二人の耳をつんざいた。まるで耳元で怒声を張られたかのような音に、反射的に二人は手で耳を覆ったが、後手の対応ではどうすることもできず、二人の耳は耳鳴りを起こしていた。

 光が消え、音がなくなり、辺りは再び静かな雨の音に包まれる。だが、そこには聞き慣れない音が新たに紛れ込んでいた。プスップスッ、という何かが焼けているような音。しゅううう、というまるで熱い炭に水をかけた時に聞こえるような音。

 まさか、という思いが男の脳裏を過ぎった。

 男はすぐに立ち上がり、小屋の窓から外を覗いた。そこには雷に打たれ、薄い黒煙と燻る火を上げている木が立っていた。それも、その木が生えているところはこの民宿の庭であった。

 男は気が動転していた。開いた口が塞がらなくなり、その唇をわなわなと震わせた。一方、老婆の方は男に遅れながらも焦げた木を見たが、動揺するような様子は一切なかった。

「とうとうアタシの番かい」と老婆はまるで他人事を述べているような落ち着き払った声で言った。

「どどど、どうするんですか?! このままじゃ殺されてしまうんでしょ?」

 男は目を白黒とさせ、あたふたとしていた。その様はまるで物理的に答えを探すかのように、右に行ったり左に行ったりと忙しないものだった。

「そ、そうだ。逃げれば――」

「それは無理そうじゃな」と言って老婆は男の言葉を遮った。

 老婆はいつの間にか別の窓の方に移っており、男に外を見るよう促した。男は言葉に従い、そっと民宿の表を伺った。すると、そこにはすでに少しずつ人が集まり始めており、さらには先ほど見たあの男たちも居た。

「まずい……殺される……! いや、俺は民宿の客だし、この村の人間じゃないから――」

「そんな柔軟なもんじゃないよ。選ばれた家の者はみな殺される。どこまで逃げようともね」

 老婆は悟ったような口調で語った。だが、男は気を乱しており、もう老婆の言葉は届いていなかった。

「逃げてやる。にげてやる。ニゲテヤル……」

 男はまるで何かの呪文のように何度も呟きながら、そのまま裏口の方へと歩いていった。裏口の戸を開け、周りに誰もいないのを確認すると、荷物ひとつ持つことなくその身だけで外に飛び出した。どこからか村人たちの叫ぶ声が聞こえてきた気もしたが、男は足を止めることなく、ぬかるむ地面の泥を蹴って走り続けた。



 小雨がしとしとと降り続ける中、男は息を切らし、わき腹を押さえてとぼとぼと歩いていた。吐く息は口から出た途端に白く染まり、鈍色の空へと上って消えた。そして先に出た白い息が消える前に次の息を吐き出すほど、男は息を荒げ、疲弊していた。

 男が重い足取りで進み続けていると、道の端に何かを見つけた。雨を凌ぐ屋根と風を遮る壁だけがある、小さな祠のようなもの。随分と古いものらしく、その壁は長年の風雨にさらされ、突けば崩れてしまいそうなほど朽ち果てていた。

 祠……?

 男は胸にざわつくものを感じた。それはじわじわと男の心を蝕んでいき、老婆の話を思い起こさせた。

 武士の魂をまつった祠。祈祷師が死んでいた祠。

 男は重い足取りがより一層重く感じられた。まるで大量の重りでも付けられているかのような感覚で、自分の足ではないようであった。しかし、いくら重かろうが、男は足を止めることがなかった。止めてしまえば死が追い付いて来てしまう気がしてならなかったのだ。男は見たくない現実から目を背けるように、足元に視線を落とし、その祠の前を通り過ぎようとした。

 だが、男は異様な存在感を肌に感じた。それは視界の外、まさに祠のある方向だった。まるで引力でも働いているかのように、男の瞳はゆっくりと祠の方へと向いていく。

 見たくない、と男は心の中で叫んだ。しかしその意思に反して、瞳は引き寄せられるように祠の方へと徐々に向いていった。そして遂に、その視界に祠の姿を捉えた。

 男が祠を瞳に収めた瞬間、不思議と潮が引くように、そこに感じていた異様な存在感は消え失せていた。今までのが単なる思い過ごしだとでも言うように、そこには朽ち果てた木の板に囲まれた祠があっただけだった。何を自分は恐れていたのだろうかと男は思ったが、祠の中に在るもの見て、その答えをわずかながらも見つけたような気がした。

 祠の中には三体のお地蔵様が居た。だが、それは普通のお地蔵様ではなく、すべて首から上が失われていた。いわゆる首なし地蔵。男は胸の奥が激しくざわつき始める感覚を覚えた。

 男は急に周りが気になるようになった。まるで敵に囲まれてしまったかのような気がしたからだ。何も居ないはずなのに視線をそこら中から感じ、もう逃げられる場所がないような感覚であった。

 男は半ば狂乱気味に走り出した。呼吸が荒かろうが、わき腹が痛かろうが、何も関係がない。恐怖心のみが男の身体を突き動かしていた。必死に走り続け、死の恐怖から逃げ続けた。

 しかし、幕引きはあっけなく訪れた。

 男が地面に足を付けた途端、そこの地面はまるで砂で作った城のように脆く崩れ去った。男の身体は宙に放られ、全身から力が抜け落ち、空虚な絶望が呑みこんだ。そして恐怖の海のような暗い闇の中に吸い込まれていった。全身を鈍い痛みが包み、それに蝕まれるように意識は闇に塗りつぶされていった。



 しばらくの時間が経過し、男は少しながら意識を取り戻した。が、意識は具体的な形を得られず、未だに朦朧としたものだった。さらには鈍い痛みも残っており、まるで二日酔いにでもなってしまったかのようだった。

 その頭に突き刺すように不快な音が耳に届いた。それは、ガシャッガシャッ、という金属が擦れ合う音。言うなれば、甲冑をきた人間が歩くときに立つ音だった。

 一体なんだ……? と男は判然としない頭の中で思った。

 瞬間、男の首元に鋭い痛みが走った。そして男の意識はプツンッと途切れた。

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