少女と咄人 その参

 空が白みだし、部屋に明るさが漏れ込む。直接光が差し込むわけではないので非常に明るいわけではないけど、それは私の顔や身体に温もりを感じさせるものだった。その温もりを拾い集めるようにして私は現実に意識を取り戻していく。

 重く閉じられた瞼をゆっくりと開く。天井付近には薄暗さが垂れこんではいたが、障子の外はもう明るくなっていた。その明るさが部屋に入りこみ、私の顔を優しく撫でてくる。

 私は身体を起こした。

 起きて早々に感じたのは、身体のひどいだるさだった。全身が鉛にすり替わってしまったかのようにとても重い。まるで他人の身体に私の意識が誤って入ってしまったかのようだ。動き一つひとつが緩慢となっており、少し動くだけでも疲れを覚えてしまう。さらには、喉に何かが詰まっているかのような息苦しさを覚えた。空気が足りない。そう思い、私は障子を開けようと考えた。

 なんとかして私は立ち上がる。ふらふらとした足取りをしながらも障子の側に行き、障子に手をかける。指先に力を入れた。戸が重い。初めて戸に重さを感じた。私は一度手を離し、一息ついて呼吸を整える。そしてまた手をかけ、障子をなんとか開いた。

 外気が流れ込み、部屋の中の空気が新鮮味を帯びる。室内の沈んだ空気が外に零れ落ち、新たな空気が補給されていく。

 私は深く息を吸う。肺に入るだけ空気を送り込むと、今度は肺が薄く平らになってしまいそうなほど吐き出した。まだ少々気管が細くなってしまったような感覚が残ってはいたが、ある程度は息苦しさが解消された。

 溜め息をひとつ漏らす。

 私は足を進め、縁側に身を置いた。縁側に腰を下ろし、地面すれすれに裸足の足を垂らした。風が木々を撫で、空を鳥の囀りがつついている。空気を震わす音に耳を傾けながら、私は縁側に横になる。瞼を下ろし、聴覚に意識を注ぐ。

 風が吹き竹の葉が擦れ合い、乾いた軽い音を奏でる。鳥が鳴き、獣が足を踏み鳴らし、空を地面を進んでいく。世界は音に満ちている。いくら静かでも無音なんかありえない。

 音に意識を向けていると、身体が溶けていっているかのような感覚を覚えた。血肉は液体へと変わり、骨は形を失っていく。私は零れた水が広がっていくようにその場に広がっていく。縁側の隙間から地面へと抜け落ち、私の身体は世界の中に溶けてなくなっていく。そんな感覚を覚えた。

 ズシャッ。突如、足音が響く。

 私はびくりと身体を弾ませ、自らの形を取り戻す。固く閉じてしまっていた瞼を開き、視界に地面と竹林と空模様が入りこむ。身体は変わらず重く、気だるい。起き上がることが億劫に思え、私は縁側に倒れ込んだままでいる。そして、音がする竹林の方に視線を投じた。

 竹林の奥の暗闇で黒い影が動く。竹を掻き分け、枯れ葉を踏みしめ、ぬっとそれは姿を現した。そこにはいつもと変わらぬ恰好をした東斎さんが立っていた。黒い帯に深緑の着物、顎にはいつも通り無精ひげが生えている。

 東斎さんは縁側で倒れている私を見つけ、少々驚いたような表情を浮かべた。しかし、それはすぐに物珍しそうな感じのそれに変わる。不思議そうな表情とも興味ありげな表情とも取れる顔をして東斎さんは歩み寄ってきた。そして縁側の傍に立ち、東斎さんは私に言葉をかける。

「随分とお疲れの御様子ですね」

 優しい口調が私の耳をくすぐった。私は薄く開いた瞼越しに東斎さんを見つめながら、鉛のような身体を起き上がらせる。足は横に流したままに手を床につけて身体を支える。

「申し訳ありません。お見苦しいところを……」

 私は弱弱しい語調で語った。痺れたように力の入りにくい足に意識を注ぎ、手で身体を押し上げてなんとか立ち上がる。自分の身体ではないような使いづらさを感じる。けれどそのことをあまり前面に出すことを避け、私は気を東斎さんに向ける。

「どうぞ上がってください」

 思った以上に声が出ず、口から発した瞬間に消えてなくなりそうな弱い声になる。それを聞き東斎さんは心配そうな顔を浮かべているが、私はそんなにも気を割いてもらいたくない気持ちがして、障子の方に身体を向ける。東斎さんが地面を擦りながら履き物を脱ぐ音を後ろに感じつつ、私は障子を開いた。部屋に入り、東斎さんを招きいれる。東斎さんはいつものように会釈をし、部屋の中に足を踏み入れた。

 東斎さんが中に入ったのを確認して私は戸を閉める。そして部屋の中央付近に移り、腰を下ろす。少し崩れた正座の形で座り、東斎さんが座るのを待つ。東斎さんは重そうな木製の箱を背中から下ろし、私の正面に正座をした。

「あの、一つよろしいでしょうか?」

 東斎さんが人差し指を立てて私に訊ねる。

「はい、何ですか?」と答え、私は視線を上げる。

「その首のあざはどうしたんですか?」

「痣?」と眉を寄せて言い、私は首を触ってみる。特に痛みは感じないし、肌が張っている感じもない。「痣なんかありますか?」

「ええ。なんだか強く締めたような、赤い痕がついていますよ」

 強く締めたような……?

 私の中を記憶が巡る。冷たい川の中に手を入れ、川底の石を取り上げるように、背筋に感じる悪寒とともに嫌な記憶を拾い上げた。

 あの夢……。

 首を強く絞められた夢を思い出す。そして、その首の痛み、首を掴まれている感触を通じ、そうしてきた相手のことを徐々に思い出していく。がれた肌。き出しの肉。闇の広がる眼窩。黒ずんだ歯。私はその記憶を振り払おうと、頭を振った。

 思い出したくない。

「どうかしましたか?」東斎さんが心配そうに訊ねてくる。

「いえ、気にしないでください。大丈夫ですから」

 記憶の一片を掴んでしまうと、頭の中には芋づる式に思い出したくない記憶が溢れていく。それはより鮮明に生々しさを増していく。

「できれば、今日のお話を始めていただけませんか?」

 思い出したくない一心で私は懇願する。東斎さんは事態を把握しきれないといった顔を浮かべながらも了承してくれた。

「わ、分かりました。では始めましょう」

 そう言って東斎さんは瞼を下ろす。とても深い深呼吸を一度取り、瞼を上げた。無関心そうな冷たい瞳を浮かべ、ひどく冷めた冷ややかな声で語り出す。

「これからお話ししますは怪談咄。アヤカシや幽霊、怪異や化物にまつわる類から、出所不明の噂咄に至るまで、種類は様々に御座いますが、全てに一様に申しあげられることが在ります。それは、これから致します御咄は何処かの土地に息づいているということで御座います――」

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