首の夢

        …―◆―…


 東斎さんはゆっくりとその口を閉ざした。彼の発した最後の言葉が余韻を残して消えていくと、部屋の中はしんと静まり返る。部屋の外は気づかぬ内に暮れており、薄暗さが漂っている。その薄暗さは部屋の中にまで浸透し、部屋は暗く淀みだす。

 私はその静寂の暗闇に溶け入り、まるでその一部になってしまったかのような錯覚を覚えていた。その一部として私は静寂を破ることができず、金縛りにかかってしまったかのように固まり押し黙っている。

 それを察してか、東斎さんが口を開き、沈黙を破った。

「今回の御咄は如何だったでしょうか?」

 彼の言葉を聞き、私は自らの輪郭を取り戻す。実体を持った存在としての自分を取り戻し、私は答えを紡ぐ。

「今のお話はなんだか、怖い話というよりも辛いとか哀しい話のように思いました……」

「辛い、哀しい、ですか……」と言い、東斎さんは顎に手を添え、無精ひげを撫でた。「そのような解釈もあるやもしれませんね」

 そう言って東斎さんは自分の話を振り返っているように黙考した。再び部屋に沈黙が宿る。それに追随するように闇が部屋の中に広がり、夜の訪れを感じた。

「今日はもう遅くなってしまいましたね」と東斎さんが言う。「かごめさんは少々お疲れのご様子ですから、今日はこれぐらいにしておきましょう。また明日伺わせていただきます」

 言い終えると東斎さんの黒い影は立ち上がり、障子の方へと向かった。そして、その戸を開き、影は外に消えていく。小さな足音が届いてきたが、その音は次第に闇に掻き消されていった。

 静寂が部屋を満たす。私の鼓動だけが部屋の中に響いている。

 ドクンッ……――ドクンッ……――。

 心臓が大きく鳴り、心音は闇に飲まれて消えていく。私は立ち上がり布団を敷いた。すぐに布団に潜り込み瞼を閉じる。静寂が耳をなでる中、私は微睡まどろみの中に落ちていった。

 今日も夢が始まる。



 私は石階段の途中に立っていた。辺りは月光のおかげである程度見やすい。しかし空を見上げてみても、月の姿は雲に隠され見えなかった。

 私は周囲を見渡す。石階段は私の目の前が上がる方向であり、背後には下りていく階段がある。けれど下りる方の段は少し進みとプツンと途切れてしまっていた。その先には深い闇だけが広がっており、まるで闇が階段を食べてしまったかのよう。

 私は視線を脇に向けた。石階段を挟むように木々が生えており、それらは森林を形成している。風ひとつ吹いていないために森の木々は静まり返っていた。静かに佇む無数の樹木は私を見守ってくれているというよりも、忌み嫌い、避けようとしているかのような冷たさを伴っている。

 私は孤独感と疎外感を覚えた。その場に留まり続けることができず、ゆっくりと足を踏み出し、石段を一段ずつ確実に上る。私の履き物と石段が擦れ合う乾いた音が辺りに響いた。しかし、その音は静けさを掻き乱すどころか、押し潰されそうな印象を受けた。それほどまでに辺りは不自然なほど静まり返ってしまっていた。

 段を踏む足音の間隔が短くなっていく。私は逃げるように足早に階段を上っていた。

 遂に階段を上りきる。視界には私を迎えるように赤い鳥居が待ち構えていた。その鳥居越しに開けた場所が視界に映る。

 鳥居の下から石畳の参道が伸び、その先には立派な本殿がその身を構えている。参道の外には手水舎ちょうずやや納札所がありはするが、それはまるで絵を見ているかのようにこちらの世界とは交わりのないようなものに見えた。それらは境内に漂う闇の中に溶け込み、黒く染まってしまっている。

 私は恐るおそると再び歩き出した。参道を進み、立派な風格を携えている本殿へと足を運ぶ。特にそこに用事があるわけでもないのだが、勝手に足は進んでいった。一歩また一歩と前に進み、本殿は徐々に大きくなっていく。遂には視界でその全貌を捉えきれなくなる。

 その瞬間、生ぬるい一陣の風が境内を抜けた。人の吐息を耳にかけられたかのような寒気と震えが全身を駆け抜けた。肌は粟立あわだち、肩は強張って縮こまる。

 私は反射的に目を閉じた。視界は闇に包まれ、全身の神経が鋭敏に研ぎ澄まされる。毛は逆立ち、心臓の音が色濃く聞こえ、鼓膜を震わせた。

 私はゆっくりと瞼を上げる。すると、世界は先ほどとは違って見えた。

 月光は厚い雲に遮られ、境内には濃い暗幕が下ろされる。漂っていた暗闇は出番を待っていた役者のように、ぞろぞろと何処からともなく現れ、その場を覆い尽くす。すべてが黒く塗りつぶされる。

 私の目の前には本殿がある。しかし、その様は先ほどまでの荘厳さを持った建築物ではない。垂れていたはずの鈴緒は引き千切られ、賽銭箱は無残に破壊されている。屋根を支えていたはずの柱は折られ、支えを失った屋根は地面に向けてその身を傾け、辺りには落ちて砕け散った瓦の残骸が虚しく転がっている。本殿の扉は容赦なく吹き飛ばされ、奥にはご神体が安置されてあったであろう場所が残っていたが、今ではそこには瓦礫と落ち葉が鎮座していた。

 荒廃した神社はまるでお化け屋敷かのように異様な気配をもたらしてくる。私は恐怖を覚え、より濃く鳥肌を浮かび上がらせる。全身を見えない紐で縛り上げられたかのように強張らせ、心臓は早鐘を打ち鳴らす。

 私は一歩後ずさる。すると、再び一陣の風が私に当たる。生温かなその温度に、身体が勝手に身震いを起こす。生温かな風のはずなのに、身体は寒気を訴えてくる。私は自分自身を抱きしめる様にして、素肌をさすり温める。けれど寒気は留まることを知らず、何処からともなく湧き起こってくる。それが恐怖感を煽り、私の心の中は恐怖の念に染められる。

 帰ろう……、こんな所には居たくない。

 私はそう思い、来た道を戻ろうとその身を翻す。再び境内の姿が目に入った。境内には枯れた葉が降り積もり、参道とその他の境界が分からなくなるほどだ。手水舎や納札所は朽ち果て、原型を留めていない。眼を閉じていた数秒の間に、世界は何百年も経ってしまったかのようだった。

 また生ぬるい風が吹く。私は風が前方から吹いてくるために手を目の前に翳した。風が私の手を捕らえ、震えを起こさせる。その震えは腕を伝い、全身へと広がっていく。それはまるで冷たい水の中に引き込まれたかのように、一気に全身を包み込んでいた。

 身体の芯が震える。それが恐怖を刺激する。心の底から恐怖感が湧き起こり、私の中からはその他一切の感情が排除される。

 怖くて堪らない。

 早く帰ろうと思い、私は来るときに通った鳥居の方に視線を向ける。走り出しそうな勢いで足を動かそうとしたら、鳥居に下に人影があるのを見つけて全身が固まった。見ちゃいけないものを見てしまったかのような感覚に捕らわれる。全身から冷や汗が噴き出した。

 しかし、人影はそんな私に無関心とでも言うように一切動かない。

 薄暗さの広がるこの空間において、その影だけが浮き出たかのようになぜだかよく見える。影は身体をこちらに向けているが、その顔を俯かせていた。そのため長い髪が垂れ落ち、顔を隠している。表情や顔つきは見ることができず、何処を見ているのかさえも分からない。ただその場に佇み、身動みじろぎ一つ取らない。

 風は吹かず、静寂がその場を支配する。私の中では張り裂けそうなほど心臓が暴れている。手に汗が滲みだす。足には力が入らず、膝が笑い始める。呼吸が早まる。どこからか嗚咽が起こり、瞳に熱が宿る。視界がわずかに歪む。

 私は一歩足を退き、陰から遠のこうとする。上げた足をゆっくりと再び地面につけた。――すると影は私の視線の先から姿を消した。

 私はハッと息を飲み、視線をキョロキョロと動かす。辺りを忙しなく見渡し、影の姿を探した。鳥居の横、森の中、本殿の影、至る所を見たが影はどこにも居ない。瞳を動かせば動かすほど、心臓の鼓動が早まっていく。呼吸は荒くなり、浅く薄いものに変わっていく。しかし、私は眼を止めることなく動かし続け、周囲に最大限の注意を向ける。

 そして、再び影の姿を見つけた。人影は崩れた手水舎の脇から私のことを黙って見つめていた。その様には変化はなく、長い髪が垂れて顔を覆い隠し、動き一つ取らずにじっと立っている。

 しかし、その距離は確実に詰めてきていた。私と影との距離は先ほどの半分ぐらいになっている。

 私は何がどうなっているか分からなくなり、ただただ無性に恐怖だけを覚えた。そして、また一歩後じさりをしてしまう。その一歩が地面についた瞬間、再び影は姿を消した。何の前触れもなく、瞬きをするようなほんの一瞬の間に忽然と消え去った。

 私の中に焦燥感が湧き起こり、それに揺り動かされるように視線は辺りをさまよう。右を見て左を見て、上を見て下を見て、あっちを見てこっちを見て――――。

 私はまた影を見つけた。場所はここから歩いて十歩ほどの場所。参道の脇にぽつんと佇んでいた。体勢は変わらず私の方に身体を向けて頭を垂れ、髪を前に流し落としている。しかし、距離は再び半分ほどに近づいて来ている。

 逃げ出したい。けれど動けない。動いたらまた影が近づいて来る気がするから。

 でもこのまま動かないでいると気が狂いそうだった。静寂の闇の中に立つその色濃い影は、立っているだけだと言うのに異様な雰囲気を醸し出している。無言の圧力などの生易しいものではなく、まるで「死」が具現化してその場にいるような感覚。あれに捕まると死んでしまうという気がした。いや、絶対そうなるという予感があった。けれど、動かなければ寄ってこないなんて保証は何処にもない。だから動かざるを得ない。逃げるしかない。待っていたらいけない。

 今では心臓のみならず全身が早鐘を打ち、そう訴えかけてきている。逃げなきゃ殺される、と全身が警鐘を鳴らし叫んでいる。

 その気持ちに突き動かされ、私は恐るおそると足を浮かせて後ろにやる。影はまだ消えない。影を見つめていると、口内に生唾が溢れ出し、喉の奥から何とも言えない感覚が湧き起こる。目頭が痺れたように熱くなり、目尻に涙が溜まる。唇がわなわなと震えだし、私は恐怖心に溺れた。息をしようにも空気がない、足掻けば足掻くほど沈んでいく、あの溺れる感覚に似たものに捕らわれてしまった。

 私は手のひらに爪が食い込み痕が残るほど手を強く握る。その拳は恐怖に震え、手の内には汗を握りしめる。頭の中は判断の付かない状態に陥り、額には油汗が滲み出た。全身が恐怖心で雁字がらめにされる。

 けれど止めることはできない。私は浮かせた足をゆっくりと下ろしていく。足は徐々に地面に近づいていき、遂に――――地面についた。

 刹那、影は姿を消した。けれどもう影を探すつもりなんて無かった。足を地面につけた瞬間、私はそれを軸に身体を反転させ、駆け出そうと考えていた。

 下ろした足に力を込め、そこに体重を乗せて重心を移動させる。体重の乗った足の爪先を中心に身体を回し、その爪先は地面を丸く抉る。視界の中の景色が素早く流れていき、本殿の姿が視界に入りこんでくる。私は軸足とは別の足を浮かせ、次なる一歩に備えた。

 そして身体を完全に翻し、逃げ出すための一歩を地面につけた。途端、世界は闇に覆われる。いや、違った。私の目の前にだけ闇が広がったのだ。

 私の目の前にあの影が立っていた。あっ、と言う間もなく、ハッ、と息を飲む間も与えず、影は私の首を掴んだ。何時間も冷水に浸けたような冷たい感触が肌を這う。しかし、その感触も痛みに掻き消される。影はし折ろうかというような力で私の首を掴んできた。あまりの痛みに私は目を大きく見開き、唇からは生唾が涎となって零れ落ちる。その痛みに耐えかね、手を伸ばして影の腕を掴んだ。

 けれど、私の手は影の腕を掴めなかった。それは通り抜けたわけでもないし、反発する力があっったわけでもない。正確に言えば、確かに私の手は影の腕を一瞬は掴んだ。しかし、私の手はずるりと滑り、影の腕を離してしまった。手にはベタベタとした不快な感触のものがこびり付く。

 私は視線をなんとか影の腕の方に向ける。首の痛みは際限がなく、意識は途切れそうなほど薄くなっていきつつあったが、どうにか視線は影の腕を捉えた。その腕は腐敗が進み、蛆が湧いていた。私が掴んだ箇所は表面の皮膚が剥がれ、腐った血肉が顔を見せていた。

 その腕に首を締め上げられ、意識が遠のいていく。その時、ギリギリという鈍く不快な音が耳に飛び込んできた。首を絞め上げている音が本当に聞こえてきたのかとぼんやりとする頭の中で思ってしまったが、実際は違っていた。

 影が俯けていた頭を上げた。垂れていた髪が顔に当たり、別れていくつかの束へと集まっていく。それにより、隠されていた影の顔が明らかになった。

 その顔はただれたように肌が腐り、頬から剥げた皮膚がだらりと垂れていた。皮膚が剥げて顔を出した血肉には小さな虫が蠢き、その血肉を啜っていた。眼球は腐敗が進み、球状を保てずに茹で過ぎた白玉のように柔らかくなっており、その眼球越しに闇を秘めた眼窩がんかが広がっているのが見えた。そして、最後に影の口が視界に入った。歯は所々抜け落ちており、残っている歯は黒ずんでいる上に並びはガタガタになっていた。

 影はその歯を強く食いしばり、歯ぎしりを立てていた。その音がギリギリという音を立て、私の耳に届いていたのだ。その不快な音は削り取るように私の意識を抉っていき、私は気を失っていく。

「…………」

 影が何かを言っている。

「……であ……こだ……」

 影が何かを呟いている。

「なんで……あの子だけ……」

 そう影が言ったのが聞こえた。

 それを最後に私の意識は途切れる。首をきつく絞められた感覚だけを持って、私は深い闇の中に沈んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る