ふたつ

とおりゃんせ

「おっ母! 見てこれ!」

 そう言って小さな少年が手を空に掲げている。齢は七つ。その手にはバッタが摘ままれ、足をバタバタと動かしてもがいている。

 おっ母と呼ばれた女性は畑の真ん中に居り、鍬で土を耕しているところだった。彼女は鍬を地に刺し、顔を上げる。目のうえに手をかざして日を遮りながら、目を細めて子供の様子をうかがった。

「なにー? どうしたのー?」

 女性は大きな声を上げて問いかける。それを聞き、少年はとりわけ強く腕を振った。ぶんぶんと振り、捕まれていたバッタは酔ってしまったかのように足の動きを弱めていく。

「バッタつかまえた! すごいでしょー!」

 少年は無邪気な笑みを浮かべ、嬉しそうな声を上げている。

 女性は落ち着いた足取りで畑を横切り、少年のもとに向かう。そして少年の前に立つと、屈みこんで少年と視線の高さを合わせる。

「ほらっ見て!」

 少年は振っていた手を女性の前に出す。しかし、そこに居るバッタにはもう元気がなく、弱ってしまっているのは明らかだった。

「弱っちゃってるじゃない」

「おかしいなー……」と言い、少年はバッタをつんつんとつついた。

 けれど、その手を女性が止める。

「バッタさんは疲れちゃってるみたいだよ」

「バッタ、つかれたの?」少年は小首を傾げている。

「一緒に遊んで疲れちゃったんだろうね。だからどこかに逃がしてあげよ? ね?」

 女性は優しく諭すように、笑みを交えて語りかける。その言葉を聞いて、少年は少し悩むような素振りを見せたが、すぐに了承した。

「うん。わかった!」

「耕太は偉いわね」と言い、女性は少年の頭を優しく撫でた。少年は照れくさそうな笑顔を零しながら、えへへと嬉しそうな声を漏らしている。

 女性に撫で終えてもらうと、耕太という少年は「にがしてくる」と高らかに宣言し、また道を駆けていった。女性は楽しそうなその背中を遠い目をしながら見送った。



 彼女にとって、耕太という少年は四人目の子供だった。しかし、四人兄弟というわけではなく、その他の三人の子供はすでにみな死んでしまっていた。

 原因は飢饉。ここ十数年、全国的に連年の不作により深刻な食糧不足が発生しているうえ、将軍による年貢収奪が強化されていた。そのため、普通の日常が送れているのは全国でも大坂や江戸に限られ、その他すべての土地では幕府の年貢収奪に追われながら、その日を生き永らえることに必死になっていた。年貢を納めて残ったものを少しずつ食べて飢えを凌ぎ、それさえも無くなれば路傍の雑草を食べて餓死を凌ぐ。とてもひどい有り様となっていた。

 彼女は息子である耕太を養うために、身を粉にして畑を耕し、食糧を生産していた。その殆どは役人に持っていかれてしまうが、彼女は自分の分を削り、少年にそれを回していた。育ち盛りである彼のためになら、犠牲になってもいいと考えていたのだ。

 しかし、彼女の夫は違った。彼は相当の飲んだくれであり、まともに仕事もしやしない。まさに彼女に寄生する穀潰ごくつぶしの屑人間であった。滅多に家に帰ってくることもなく、ふらふらとどこかをほっつき回っている。久しぶりに帰ってきたかと思うと、彼女から酒代をふんだくり、残ったわずかな食糧をむさぼり食う。もし彼女が拒んだとしても、彼は暴力に訴え、力で彼女をねじ伏せた。彼女は痛みと恐怖に慄きながら、彼に渡さざるを得なかった。

 だが、ここ数ヶ月、彼女はまったく彼のことを見かけていなかった。どこかで野垂れ死んだりでもしたかと考えてしまうほど、ずっと会っていなかった。今では、まるで野晒しにされたものが風化して朽ちていくように、彼という存在自体が彼女の中で消えつつあった。心の片隅にわずかに引っかかって残っている程度で、それが完全に消え去ってしまうのは時間の問題という具合になっていた。



 日が傾き、空が赤く染まる。ぽつんと残った雲は夕日に焼かれ、その身を半分赤めている。その雲をついばみにいくように、数羽のカラスが飛んでいく。風が凪ぎ、雲は動きを止め、木々もそよがなくなり、山は静まり返った。カァカァという鳴き声だけがあたりに響き渡っている。

 女性は鍬を持ち、畑を出る。近くで遊んでいる少年に向けて、「耕太―、帰るよー」と声を掛ける。少年は元気に声を返すと、彼女のもとに走り寄った。彼女は戻ってきた少年の手を取り、そのまま二人で手を繋ぎ、家路を歩いていった。

 道に二人の長い影を刻みつけながら、彼女は考えていた。こんな平和な日々がずっと続けばいい、と。子供の成長は早いと言うし、小さいのは短い間とも言う。だから、こうやって子供と居られる日々は限られたものであり、かけがいのない時間である。

 女性は少年の手をぎゅっと握った。少年は少し痛みを覚え、顔を上げて彼女の顔を不安そうに見つめる。彼女はその視線に気が付くと同時に、自分が手に力を込めてしまっていたことにも気が付いた。手の力を抜き、改めて少年の手を優しく包み込む。少年の瞳を見つめ、温もりのある微笑を零した。

 その笑みを見て少年は安心したのか、嬉しそうな笑顔を浮かべ、その喜びを行動に示す。繋いだ手を楽しそうにぶんぶんと振り、母親とともに仲良く家へと向かっていった。



 翌日。太陽が東の地平線から顔を出そうかと悩んでいる頃合いに、女性は少年を連れて家を出た。空は白み始めた程度の明るさで、夜の名残りと混ざり合い、触れれば崩れてしまいそうな不安定さがありながらも絶妙な色合いをしている。

 足元にまだ薄暗さが漂う中を二人は進んでいった。少年は昨日と同じように楽しげに手をぶんぶんと振り、朝から元気いっぱいという感じだ。その様子を傍らの女性は微笑みながら見つめていた。

 世界は静けさに満ちている。二人の足音だけが乾いた音を響かせ、その他一切はまだ眠りについていた。

 どこかの家の軒先で鶏が鳴く。甲高い声が天を突き、世界は眠りから覚めはじめる。第一声に追随するように、他の家でも鶏が鳴いた。その声に押し上げられるように、太陽はその顔を山陰から覗かせていく。空からは夜が追い払われ、青と白に染まっていった。

 女性と少年は歩き続け、ある石階段の前に着いていた。

 その石階段は山の中へと伸びており、お世辞にも綺麗なものとは言えなかった。石階段を包むように木々が伸びており、その葉が枯れて階段へと降り積もっている。そのうえ、階段自体も長年放置されていたのか所々欠け、中には原型を留めていない段もあった。

 その石階段の前には、古びた鳥居が立っている。元々は赤く塗られていたのだろうが長年の風雨にさらされて剥がされ、地の木目がほとんどを占めていた。

 女性と少年はその鳥居を抜け、石階段を上り始める。女性は自分と少年の足の置き場に注意しながら登っていき、少年の方は短い足ながら一段一段丁寧に上っていく。

 長かった石段を上りきると、今度は赤みの残った鳥居が二人を迎えた。その鳥居の先に、古びてはいるがまだまだ荘厳さを備えた神社の本殿が、ずっしりとその身を構えていた。

 二人がこの神社を訪れるのは、毎朝の日課だった。なぜそんなことをしているかと言うと、すべて少年のためであった。

 七歳になるまでは何があるか分からない。流行り病にかかることもあれば、不運な事故死もあり得る。そのうえ、それを母親である彼女がどうすることもできない。病気を治せる薬を買うお金はどこにもないし、仕事をせずに子供をずっと見守っていることなんてできない。だから、神の加護に依存するしかなかった。

 女性は少年とともに毎朝毎朝この神社に通い、少年の無事を祈っていた。病気にかかりませんように、不運な事故に見舞われませんように、と様々な想いを神に祈り告げていた。

 そして、その願いが通じてか、少年は無事に七歳を迎えることができた。そのため今日はいつもと異なり七五三も兼ねていた。立派な服も着させてあげられないし、美味しいものも食べさせてあげられないため、七五三らしさは全くなかったが、少年には気にするような様子はなかった。彼は楽しさや嬉しさが混ざり合った表情を浮かべ、女性と仲良く本殿へと向かっていった。

 本殿の扉は固く閉ざされ、その前には賽銭箱が置かれ、鈴緒が垂らされている。鈴緒はいつから交換されていないのかと疑ってしまうほどくたびれている。強く引っ張ってしまえば、千切れて鈴が落ちてきそうだった。賽銭箱の方ももうだいぶ使われていないらしく、中には小銭ではなく落ち葉が詰まっていた。

 女性はそんな賽銭箱の前に立ち、小さくお辞儀をした。少年もそれを見て、よく分からないままに自分の頭を下げる。彼女は鈴緒に手を伸ばして軽く振る。低く鈍い音が鳴った。そうして、彼女は二礼二拍を慣れた動きでこなした。同様の動きを少年も見よう見まねでやっていく。

 女性は心の中で謝意を述べる――神様、本当にありがとうございました。おかげで耕太は無事に七歳を迎えることができました。本当に、本当にありがとうございました。

 深い感謝を述べると、彼女は深々と頭を下げて一礼した。合わせて少年も一礼を真似する。

 そして、二人は神社を後にし、帰路に着いた。



 太陽が東の空に昇り、世界を朝色に染め上げる。目覚めた動物たちは各々活動を始め、どこからか鳥の囀りが聞こえてくる。その声に応えるように、少年が歌い出した――。


   通りゃんせ 通りゃんせ

   ここはどこの 細通じゃ

   天神様の 細道じゃ

   ちっと通して 下しゃんせ

   御用のないもの 通しゃせぬ

   この子の七つの お祝いに

   お札を納めに 参ります

   行きはよいよい 帰りはこわい

   こわいながらも

   通りゃんせ 通りゃんせ


 歌い終えると、少年が女性に訊く。

「ねえ、なんで帰りはこわいの?」

 女性は指を顎につけて少し考え込む。彼女の中では、言われてみれば……、という思いが湧き起こっていた。

「ん~……なんでだろう。帰りが遅くなって、夜になったからとかかな?」

「夜って暗くてこわいもんね。へぇーそうなんだ」

「いや、思いつきだからあってるかどうかは分からないけどね」

 そうやって楽しく会話をしながら、二人は家路を歩いていった。



 女性と少年は自分たちの家に近づいていく。そこで女性はあることに気付いた。戸をしっかり閉めたはずなのに、今の家の戸は少しいてしまっている。

 あれ、ちゃんと閉めたはずだけど……、と女性は訝しむ。

 女性は少年に家の脇で静かに待つように言いつける。そして、空いている戸を不審に思いながらも、恐るおそる家の中を覗いてみた。

 家の中には見慣れた簡素な光景が広がっている。特に荒らされたような形跡もなく、偶然開いてしまったような感が滲んでいる。

 女性は戸に手をかけ、ゆっくり静かに開けていく。木と木が擦れ合い、するするという乾いた音が耳に届く。

 部屋は静まり返っている。それはいつものことだから当然のはずなのだが、その日だけはその静けさが、まるでじめじめとした暑い日の空気のように肌に不快さをもたらしていた。肌の表面には鳥肌が浮かび上がり、額には油汗が滲みだす。

 恐るおそる部屋の中に足を踏み出す。女性の全身が不快な沈黙に包み込まれる。

 だが、その瞬間、鋭い刃物で切り裂いたようにその沈黙は破られた。

 戸の隣にあった影の中から、急に彼女に向けて一本の腕が伸びてきた。女性がその手に気付いた時にはすでに遅く、驚いた表情を浮かべたまま、その手により壁に叩きつけられてしまう。

「キャッ!」

 壁にぶつけられた衝撃で声が漏れる。が、その声も許さないが如く、前腕が女性の顎の下に通され、そのまま上に突き上げた。彼女は強制的に口を閉ざされ、さらに喉に圧迫を加えられて呼吸も細くなる。

「おっ母!」

 少年が心配そうな声を上げた。女性が声のした方を見ると、少年はいつの間にか家の戸の前に来ていた。どうやら彼女の声を聞きつけて来てしまったらしい。少年は不安と心配の入り交じった表情を浮かべ、女性のもとに近づこうとしている。

 そのことに気付き、女性が必死に叫ぶ。

「来ちゃダメっ!」

 喉を押さえつけられているため、その声はかすれていた。けれど、その必死さを受け、少年は進めようとした足を止める。彼の瞳は恐怖の色に染まり上がる。

 影の中から腕の持ち主がぬっと姿を現した。それは一人の男。顔に薄ら笑いを浮かべ、狂気が宿ったような瞳をしている。その姿を見て女性は確信した。それが最近ずっと姿を見せていなかった夫である男だったのだ。

 男は顔を女性に一気に近づける。それに合わせて女性の喉を抑える腕に、より一層の力が込められた。女性は息苦しさと同時に吐き気に似た感覚を詰まる喉奥に覚えた。その感覚は這い上がるように喉の内壁を上り、鼻の奥で酸味のような感覚へと昇華した。彼女はその広がる刺激から瞳に涙を滲ませる。

 男はゆっくりといたぶるように話しかける。

「久しぶりだな。元気にしてたか?」

 地の底から湧き出たような低い声。何度聞いても慣れることはできず、女性は身震いを覚えた。

「なんで来たか、分かってるよなあ? 金が無えんだよ。出してくれないか」

 言葉だけ見れば頼んでいるようだが、その語調には有無を言わせぬ含みがあった。拒めばどうなるかは考えるまでもなく、彼女の身体に刻みつけられている。彼女の心の中で癒えない傷がうずいた。

 しかし、払えるお金なんて無かった。

 ここ最近は不作続きで、作物の出来はお世辞にも良いとは言えなかった。小ぶりなものばかりが実ってしまい、安く買いたたかれてしまっていたのだ。そのため手に入れたお金は少なく、ほぼ全てが食い扶持に消えていた。

 だから、彼女は渡せるお金なんて持っておらず、事実を伝えることしか出来なかった。

「な……ないの……。お金は……どこにもない……」

 女性は押し潰されている喉を通して、細い息を必死に吐き出す。その声は掠れ、触れれば崩れてしまうような脆さを含んでいる。

 だが、そんなことを男が気に掛けることはなかった。女性の「ない」という言葉に対し、男は怒りを前面に露わとし、言葉を彼女に吐きかける。

「あぁあ? んだと? どうせどこかに隠してんだろ? さっさと出せよ」

 男の声は地鳴りのように低く恐ろしい。女性はその声に恐怖し、芯から震えあがる。

「ないの……どこにもないの……」

 女性は涙ながらに訴える。鼻の奥に湿っぽさが湧き起こり、狭まった気道に垂れ落ちて軽くむせ上がる。

 しかし、男が手を緩めることはない。さらに彼女の首を締め上げ、語調を強める。

「なんでねぇんだよ。いつもあるだろうが」

 その時、男の視線が動いた。それに女性も気付き、その視線の先を追う。

 そこに居たのは少年だった。身体をわなわなと震わせて、その場に立ちすくんでいる。

「あのガキが居るからか」

 男が冷たい口調で言った。女性はその先を予見し、声を張る。

「止めて! 耕太には手を出さないで!」

 女性の声を制止するべく、男はまた腕で彼女の顎を突き上げる。女性は「うっ……」という鈍い声を漏らし、口を強制的に閉ざされる。

「お前は少し黙ってろ。なっ?」男は狂気をぎらつかせた眼で彼女の瞳を覗き込む。「俺はあいつと話があんだよ」

 女性は瞳を通してその視線で心臓を突き刺されているかのような錯覚を覚える。何か言葉を言おうにも、喉が恐怖のあまりに痺れてしまい、いうことをきかなくなっている。

 男は顔を少年の方に向け、言葉をかける。

「おい、ガキ。飯はしっかり食ってるか?」

 男は問いかけるが、少年は何も答えない。ただ恐怖に慄き、その身を震わせているだけだ。

「おい! 答えろっ!!」

 男の語調の強い言葉に、少年はビクリと身体を跳ねさせた。少年は全身を小さく縮ませ、そこから恐るおそる顔を上げて男に答える。

「う……うん……」震えた小さな声だった。

「へぇー、良いご身分だな。俺は金に困ってるっつうのによ」と言いながら、男は視線を女性の方に向けた。

 女性は男のその瞳を見て、嫌な気配が脳裏を過ぎった。とても嫌な不快な感じ。まるで底なしの汚泥の中にズブズブと沈んでしまっていくような、絶望の満ちた闇に沈んでいく感覚。

 そして、その嫌な気配が現実のものとなってしまう。

 男は女性の腹部に向けて、拳を一発振り下ろした。それは彼女のみぞおちに決まり、彼女は少なからずも残っていた空気を肺から一気に吐き出す。それは呼吸自体が細くなっていたことと重なり、彼女は軽い酸欠状態に陥ってしまって目の前が霞がかかったように滲んでしまう。

 男は女性の首から腕を離した。支えを失い、女性はその場に力なく倒れ込む。

 その様子を薄ら笑いを浮かべながら男は見つめていたが、その視線を今度は少年の方に向けた。少年は目の前で母親が殴られたことを受けて、衝撃で口を開いたまま、唇を含め全身をわなわなと震わせる。

 その場に立ち竦んでいる少年のもとに男は歩み寄り、その距離を確実に無くしていく。

 そして次の瞬間――――男はその手を少年の首にかけた。

 少年は恐怖に染まった瞳で男を見つめながら、男の大きな腕をその小さな手で掴む。しかし、その無力さは言わずもがなであり、男の手により軽々と少年の身体は宙に浮かされた。少年は浮いた足をバタバタと足掻かせ、小さな手は男の腕にその爪を食い込ませる。

 けれど、男が止めることはなかった。手にさらに力を込め、一気に少年の首を締め上げる。少年の顔はうっ血で赤く染まり上がり、口からは白い泡を吹き始めた。

 グキッ。希望が折れたような、だが案外乾いた軽い音が響いた。

 その音が響いた瞬間、少年の動きはぱったりと途絶える。バタつかせていた足は動きを止め、男の腕を掴んでいた小さな手はだらりと垂れ落ちた。

 男は少年の死体を冷たく見つめ、手を離して無造作にその場に捨てた。乾いた鈍い音が鳴り、土煙が薄く舞った。

 女性はおぼろな視界の中で、その様を見た。目の前で自分の子供が首をへし折られて捨てられた、その様を。

 彼女の心の中を絶望が満たす。崖から突き落とされたかのように、一気に絶望が湧き起こり、打ち寄せてきた。

 うそ……うそでしょ……?

 女性は心の中で震えた声を上げる。動かなくなった少年を見つめながら、何度も何度も呟きつづけた。

 視界は少年だけを捉え、そこに絞られていた。が、視界の端に男の姿を見つける。

 なんでこの男が生きてて、耕太が死ななきゃいけないの?

 そんな疑問がぽっと湧いたかと思うと、一瞬で憎悪の気持ちにすり替わってしまう。心の中に起きた憎悪の炎は、心を満たしていた絶望の気持ちに引火し、一気に燃え上がる。そして、心を憎悪で燃やし尽くした。

 その瞬間、女性の中から意識が消え去る。すべてが憎悪に染まり、憎悪に身を委ねた。

 女性は立ち上がる。その物音に気付き、男は女性の方を振り返った。だが、その表情は一瞬で強張る。

 女性は立ち上がったかと思うと、すぐに男に飛びかかっていた。男は面食らった表情を浮かべ、そのまま彼女に首を掴まれていた。しかし、所詮は女の腕力、と舐めてかかり、男は再び薄ら笑いを浮かべて彼女の手を掴んだ。

 けれど、その腕力は想像以上のものだった。男の力ではその手はびくともせず、男は首をじわじわと締め上げられていく。男の顔から薄ら笑いが消えた。

「お前が死ねばよかった。お前が死ねばよかった。お前が死ねばよかった。……」

 女性はそう繰り返し、男の首を締め上げる。男は必死の形相を浮かべ、彼女の腕を爪が食い込むほど強く掴んだ。終いには彼女の腕に男の爪が刺さり、幾本かの赤い筋が彼女の肌をなぞった。

 男の顔は絶望に染まっていく。膝を折り、その場に膝をつける。彼女はその様を見下ろしながらも、首を絞め続けた。唇は同じ言葉を相変わらず繰り返し続けている。

 男の口から泡の混じった涎が零れる。彼女を見ていた瞳は虚ろに変わり、生気が消え去る。彼女の腕を掴んでいた手からも力が抜けて、爪だけが刺さっている。

 けれど、彼女は止めることなく首を絞め続けた。「お前が死ねばよかった」と呟きながら。



 しばらくして、ようやく女性は男の首から手を離す。男の首には彼女の手形がくっきりと残り、そのままで硬直してしまっていた。

 彼女は視線を少年の方に移す。いくら経ってもその様子は変わることなく、ぐったりと倒れたまま動かない。

 女性は少年のもとにより、彼を抱き起こした。支える骨のなくなった首がだらりと垂れるが、手で持ち上げ、そのまま抱きしめる。

「ごめんね……守ってあげられなくて、ごめんね……」

 今度は謝り続ける。彼女の頬を涙が流れ落ちる。

 彼女は少年を抱きかかえ、歩き始めた。涙を零しながら、歩き続けた。

 女性はあの石階段の前に辿り着く。

 彼女は少年を抱いたまま石階段を上っていった。そして、二度と戻ってくることはなかったと言う。

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