少女と咄人 その弐

 その日は足に残されたものを見たくなくて、私は縁側に横になり、空を見上げていた。

 小屋の屋根が空を遮り、また一方で、竹林が丸く抉っている。わずかに残った青い空に白い雲が横切っていく。

 竹林から足音が漏れ聞こえてくる。ガサッ、ガサッ、という落ち葉を荒く踏みしめる音。

 その音を聞いた瞬間、まるで首筋に冷水を垂らされたような寒気が背筋を駆けた。私は寝転がっていた縁側から飛び起き、音がした方を見つめる。その瞳は恐怖で縁どられ、わずかに震えてしまう。

 鼓動が大きく、ドクンッ、と鳴った。その一音の余韻が後を引く。次の一音が始まることが無いんじゃないかと思ってしまうほど、永く、永遠に。

 足音が近づいて来る。心臓の鼓動が聞こえなくなる。頭の中が無音になり、足音だけが余韻を残して響いている。

 竹林の闇の中に動く影が見えた。その影は一瞬深い闇を纏ったかと思うと、空の日差しの下にその姿を露わとする。竹林の緑をそのまま帯びたような緑色の着物を着た人物――東斎さんだ。

 私の中には安堵感が湧き起こり、それに合わせて鼓動が戻ってくる。

 東斎さんは私が見ているのに気付き、一度後ろを振り返ったりしながら驚いたような表情を浮かべている。

「どうかなさいましたか?」

 東斎さんの問いかけを聞き、私は我に返って答える。

「い、いえ。何でもありません」

「けれど、顔色があまり良くないようですが……」

 東斎さんがいぶかしそうに顔を歪めている。私は彼の言葉を聞いて、自分の顔に触れてみる。指先で肌が張っているのを感じる。それはまるで、熟しすぎた果物の表面を撫でているような感触で、裂けて中身が零れだしそうな感じがした。肌を裂いて零れ落ちる前に、私は口を開いてみずから零す。

「実は……嫌な夢を見たんです」

「嫌な夢? 悪夢ですか?」

 東斎さんはいつの間にか傍まで寄ってきており、私の横に腰を下ろす。

「はい……。すごく怖い夢でした」

「怖い夢ですか……。わたしの怪談がいけなかったのですかね」そう言って東斎さんは自虐っぽく苦笑いを浮かべる。

「いえ、そういうつもりで言ったんじゃないです。それに……」

「それに?」と言い、東斎さんは俯いた私の顔を覗く。

「……それに、東斎さんのお話とは違う感じの夢でしたので、東斎さんとは関係がない気がします」

「そうですか。けれど、怖い話を聞くと心理的にも不安定になり、悪夢を見ると言いますから、元を辿れば原因はわたしにあるかと思います」東斎さんは反省しているような沈んだ口調で語っていく。「今日の御咄はお止めになりますか? わたしには怖い類のものしかお話しすることはできないのですが……」

 東斎さんの言葉に対し、私は即答する。

「いえ、大丈夫です」

 怖い夢――夢じゃないかもしれない――を見るのは嫌だけど、東斎さんのお話が聞けないのはもっと嫌だった。今まで自分以外だれも居なかった日々の反動で、私は他者の存在を望んでいた。一人は嫌だった。孤独は嫌だった。もう寂しい想いをするのはごめんだった。だから、傍に居てくれるのなら、声を聞かせてくれるのなら、怖い話でも構わなかった。

 でも、さすがに怖すぎる話はきついものがある。

「けど、あまり怖くないお話でお願いします」

 私は恥ずかしそうな笑みを浮かべて言った。東斎さんは短髪の頭を撫でながら答える。

「怖い話が専門なのですが、あまり怖くないものを、ですか」東斎さんは苦笑する。

「だめでしょうか?」

「いえ、分かりました。かごめさんのご希望ですから」今度は愛想の良い笑みを浮かべている。「では、中に入りませんか? 外で話しますと雰囲気というものが出ませんし、それに、空も暗くなってきましたから」

 東斎さんの言葉を聞き、私は空を見上げた。青かった空はいつの間にか消え、暗く沈み始めている。青の中で映えていた白い雲も今では、暗がりを帯びた空の中で、鉛色に染まりつつあった。

「そうですね。どうぞ上がってください」

 そう言って私が促すと、東斎さんは「ありがとうございます」と頭を下げ、草履を脱いだ。障子を開け、彼とともに部屋の中に進む。

 私は障子を閉めつつ、狭まっていく外を見た。明るみが失われ、薄暗さが漂い始めている。ついさっきまでとは大違いだった。本当に、いつの間にこれほど日が沈んでしまったのだろうか。

 障子が閉まり、外の世界と別れる。部屋の空気は、薄暗く沈んでいた。私は息苦しさを覚えてしまう。

「行灯に火を灯しますね」

 荷物を下ろしている東斎さんに話しかける。彼は「分かりました」と微笑み、小さく会釈をした。

 行灯を点けると、薄暗かった部屋がぼやっと照らされる。優しく儚げな明かりが温もりのある光を投じてくれる。けれど一方で、部屋の隅には深い闇が生まれた。彼らは静かに息を潜め、虎視眈々と獲物を狙っている獣のようにこちらを黙って見つめている。

「では、御咄を始めましょうか」

 東斎さんは綺麗に正座をし、手を合わせて揉んでいる。私も床に腰を下ろし、東斎さんに向き合う。

 東斎さんは手を離し、膝の上に置き、目を閉じる。深く息を吸い、限りなく吐き出す。数回深呼吸をすると、軽く息を吸ってから、止めた。

 沈黙が部屋を満たす。私の中で静かに鼓動が響く。

 ゆっくりと東斎さんが瞼を開いた。冷めた無感情な瞳。私は恐怖に近いものを感じる。

 東斎さんは少し息を吐いてから、口を開いた。真夜中にしんしんと降る雪のように冷たく儚げな口調。私は引き込まれ、その声だけが世界のすべてに感じる。他に一切のものはない。行灯の火は届かず、世界は深い闇に包まれる。その中で、東斎さんの声だけがしんしんと降り積もる。

「これからお話ししますは怪談咄。アヤカシや幽霊、怪異や化物にまつわる類から、出所不明の噂咄に至るまで、種類は様々に御座いますが、全てに一様に申しあげられることが在ります。それは、これから致します御咄は何処かの土地に息づいているということで御座います――」

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