足の夢
…―◆―…
淡々と冷めたような口調で東斎さんは話をした。その口調は、まるで波紋ひとつ立っていない水面、いや、それどころか、凍てつく氷の表面を撫でているような感じを持っていた。
東斎さんが沈黙する。辺りの空気は重く沈み、気付けば外も暗くなってきていた。部屋にも闇が入りこみ、暗澹とした空気の中で静かに息をしている。
「これにて御咄は終わりで御座います。如何だったでしょうか?」
東斎さんは静かな口調で語りかけてくる。私は、胸の中で
「こ、怖いお話ですね……。それで、その少年は一体どうなってしまったんですか……?」
微かに震える口調で私は問いかける。一方、東斎さんは落ち着き払った口調で応じる。
「御咄の通り、見つかってはおりません。少年の最期に関しては、かごめさんのご想像にお任せ致します」
「見つかっていないのですか……それって死んでしまったという事でしょうか」
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。お聞きになった方の想像にお任せして恐怖感を掻きたてるのが、わたしの咄で御座いますから」
そう言い終えると、部屋は沈黙に満たされる。その沈黙に食いつくように、闇が部屋の中に広がっていく。その様を横目に、私は胸の中で蠢く感覚を消し去ろうとするが、意識すればするほど、それは膨れ上がっていき、私の胸中を満たしていく。
部屋の沈黙を東斎さんが破る。
「今日はもう遅くなってしまいましたが、かごめさんが良ければ、明日もお話しに参りましょうか?」
東斎さんは最初に会った時の口調に戻っている。あの静かな喋り方は話をするときだけのようだ。
しかし、私はそんな口調の違いを気にかけることなく、東斎さんの提案に意識が向く。
「えっ、明日も来てくれるんですか!」
「かごめさんが良ければ、わたしは良いですよ」
「じゃあ、お願いします。東斎さんのお話は怖いですけど、面白いものなので」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。では、また明日も同じくらいの時間に伺うことにします」
そう言って東斎さんは荷物を抱え、この小屋を後にした。彼は別れ際にまた会釈をし、そして竹林の深い闇の中に消えていった。
東斎さんが居なくなり、私だけになった小屋にはまだ闇が居座っている。
私は
障子が少し
その光景にざわつくものを覚え、私は障子をぴしゃりと閉める。
行灯の火はそのままに、私は布団を敷き、そこに潜り込んだ。目を閉じ、早く眠りたいと思う。
その夜は、行灯のじりじりという燃える音以外なにも聞こえない、ひどく静かな夜だった。
夢を見た。
私はどこか知らない場所になぜか居た。周りは闇に包まれているけど、何もかも見えないと言うほどではない。見たところ、ここは森の中みたいだ。薄暗い中に木々の濃い影が立ち並んでいた。
「どこだろう……ここ……?」
私は辺りをきょろきょろと見渡して、恐るおそる歩きだす。
森はとても静かで、虫の鳴く声ひとつ聞こえない。立ち並ぶ木々は空を葉で覆いつくし、その隙間から月明かりと思われる光がうっすらと降り落ちる。こんな夜でなければ幻想的とも言えるような空間だった。
しばらく進むと、闇と沈黙が広がるこの空間に、不思議な音が響きだす。
トン……トン……。
何かを叩くような音だけど、それよりかは少し重く鈍い音に聞こえた。一体何の音だろうと思い、私は足を止め、耳を澄ませる。
体内でドクドクと鼓動が鳴っている。呼吸が徐々に早まり、喉に乾きが湧いてくる。
トン……トン……。
音は確かに聞こえる。それも、少しずつ大きくなってきている気がした。
一体……なに?
私はじりじりと後退りをし、近づいてくる音に身構える。音はその間隔を短くしながら、どんどんと距離を狭めてくる。
音が近づくにつれて、鼓動が早まっていく。一つひとつが大きく鳴り、身体の中に響き渡る。口の中には生唾が溢れていくけど、喉がひどく乾く。喉が鳴るほど唾を飲みこむのに、その渇きは消え去るどころか、より一層意識される。
トン、トン、トン。
静まり返った空間に、その音だけが響く。体内に鳴り響く鼓動ですら、その音に掻き消されるような感覚に陥り、私の意識はその音に支配されてしまう。
そこら中からその音がしている気がする。私は囲まれ、もう逃げ場がないような絶望感を味わう。
トントン、トンッ。
すぐ背後で音がした。
私は背中に異様な気配を感じる。何かが居るような気配。けど、それは人間である気がしない。
背筋が凍りつく。異様な寒気を感じ、全身に鳥肌が走る。なのに、肌の上に油汗がにじみ出る。
血液が流れる向きを見失って逆流してしまっているような、不思議で不気味な感覚が全身を覆う。
怖くて堪らなかった。
けれど、後ろを見ないといけない気がした。
私はぜんまい仕掛けのおもちゃのように、ぎこちない動きで顔をゆっくりと背後に向けていく。木々の影が少しずつ視界の端に消え、新たな影が現れてくる。
呼吸が早まり、荒れていく。全力疾走した後のように乱れ、いくら吸っても酸素が得られてないような気がする。
私は振り返った。
視界には相も変わらず木々の影が乱立している――が、その中に異様な影が居座っていた。
人の形に見えなくもないが、その高さが異様に低い。よくよく目を凝らして見てみれば、その影は下半身を欠損していた。つまり、足がない。上半身だけの影であり、両の手を地面につけて起こした身体を支えている。
影の頭の部分に二つの白い穴が開く。
えっ、と思った瞬間に、その穴がギョロリと動き、私を睨みつけた。
鋭利な刃物で心臓をえぐり取られるような感覚に陥る。見られているだけなのに、刺されたと錯覚してしまうほどの異様さをその影は瞳に秘めている。
逃げろ、と全身がざわめく。その本能に従い、私はすぐさま走り出した。
理由なんてない。ただ、逃げなきゃいけないと思った。
立ち並ぶ木々の脇を抜け、デコボコとした地面の上を走り抜ける。不気味な様相を呈している森は、今では完全に敵となってしまったように思えた。周りには助けてくれる人なんていない。孤独感と恐怖感と絶望感が私の胸に押し寄せてくる。
トン、トン、トン――音が追いかけてくる。
私はちらと後ろを振り返ると、あの影が私のことを追いかけてくる。影は手を交互に地面につけ、足で歩くかのように器用に走っている。その手を地面につける度に、あの『トン』という音がたてられていた。
手で走っているというのに、その速さはとても速い。私は捕まるかもしれないという考えが過ぎり、前をしっかりと向いて、足に力を入れた。
逃げなきゃ殺される。なぜだかそんなことを考えていた。
必死に足を動かし続けるが、一瞬で事態は急変した。足場の悪さのせいだ。私は足をもつれさせてしまった。
体勢を崩し、地べたに倒れ込む。その一瞬の間に、全身に絶望感が蔓延した。希望なんて言葉はまるで蒸発したかのように絶望に掻き消される。
倒れ込んだ姿勢で私は後ろを振り返る。
トントン……トンッ。
影は私の傍に立ち、その白い眼をギョロリと動かし、見下ろしてくる。
殺される、という言葉が私の脳裏をかすめた。目の前がぼやけ始め、頬を温かいものが伝っていく。荒い呼吸に乗せて、言葉が零れる。
「イヤ……嫌ッ……」
けれど私の願いは届くことなく、真っ黒な影はその手を伸ばす。
ガシッ! 影が私の足首を掴んだ。
ビクリッ、と全身が跳ねる。掴まれた箇所に意識が集まり、そこが熱く火照ったようになる。けれど、影の手は氷のようにひどく冷たいもので、そこから鳥肌が体中に駆け出していく。
もう片方の足も掴まれた。恐怖のあまりどうにかなってしまいそう。
私はまた影の方を見る。影は私の両足を押さえ、白い二つの眼を向けて、さらに、その口を開いた。白い歯が見え、その奥に赤黒いものがあるのが分かる。
「みつ……け……た……」
影が口を動かし、かすれた声でそう語った。
その声を聞き、私は心底震えあがり、叫び声を上げる。
「いやああああああああぁあぁああぁあぁぁああ!!」
バッ、と私は起き上がる。額には油汗が滲み、身体中にも汗ばんだ感じが残っている。
起きて初めて夢であったことに気付いた。辺りを見渡し、見覚えのある部屋に少しばかりの安心感を覚える。行灯の火はまだ灯っていたが、消える寸前の弱弱しいものだ。消えそうで消えないという具合に、薄く明滅を繰り返している。
私は大きなため息をひとつ漏らす。それをきっかけに、乱れた呼吸は落ち着きを取り戻そうとゆっくりと安定したものへになっていく。
「夢……だったんだ」
私は手で額を押さえ、滲んだ汗を拭う。今の顔を鏡で見れば、ひどく疲れた表情をしているのは手に取るように分かった。
現実じゃなく夢だったんだという認識が、早まった鼓動を鎮めていってくれる。身体に残った汗の感覚も、冷えて乾いていく。
「よかったぁ……」
安堵の気持ちから、自然と言葉が零れた。その言葉を吐いた息で、部屋の空気がかすかに震える。それに合わせるように、行灯の火も揺らぎ、遂には消えてしまった。
ふっ、と世界に暗幕が下りる。光のある空間に慣れていたからか、少しの間は完全な黒一色に染まり上がった。
急に明かりを失ったことに、全身の毛が逆立ったような錯覚を覚えたが、油が切れただけだろうと思い、落ち着きを思い出そうとする。再び呼吸が乱れをきたしてしまうが、なんとか元に戻そうと努める。深呼吸を数回とり、大きくなった鼓動を鎮めていく。
闇に眼が慣れていく。完全なる闇が広がっていた空間に、ぼんやりと輪郭が浮かび上がっていき、ものが見え始める。
白い障子が見える。布団が見える。そして、見覚えのある影を見つける。
一瞬呼吸を忘れ、大きな鼓動がドクンッと一回鳴った。
真っ黒だった闇が引いていった中で、私の足元付近にだけ残った闇があった。その闇の形には見覚えがある。上半身だけの影。両の手を床につけ、体勢を保っている。
白の眼が開かれる。その視線は迷うことなく私を突き刺し、睨み続けてくる。
私は息の仕方を忘れる。呼吸は止まり、息苦しさが込み上げてくるが、それが恐怖感と混ざり合い区別がつかなくなる。
影が動く。その手は真っ直ぐ私の足に伸び、両手で私の両足を掴んだ。
叫び声を上げたいが、恐怖のあまりに声の出し方を見失う。唇がわなわなと震え、瞳がじわじわと潤んでいく。
掴まれた足がひどく痛む。すごい力で握りしめられている。まるでそのまま引き千切ろうとしているかのような力だった。
口を開いたまま固まってしまっている私は、黒目を小刻みに震わせながらも、その視線を上げていく。影に掴まれた箇所から、影の身体を上り、そして顔に至る。
影と視線があう。心臓を突き刺されたような錯覚を覚え、瞳から涙が溢れ出す。
影が口を開いた。赤黒い口内が顔を見せる。
「あし……よ……こ……せ……」
身体の芯から震えあがってしまう、かすれた声。
けれど影は足を掴む手に込めた力を増やしていき、私の意識は強制的に足の方へ向けられる。
本気で千切ろうとしているような力加減に、私の頭はなにも考えられなくなっていく。痛みと恐怖に塗りつぶされ、頭の中は真っ黒に染まり上がる。
目の前が真っ暗になった。私は気を失った。
鳥の
障子の向こうには光が絶えず注がれていた。お裾分けという感じに部屋の中も少し明るくなっている。
私はゆっくりと起き上がる。すると、足に痛みが走った。
「イタッ……」
反射的に言葉を零す。一体なんだろうと思いながら恐るおそる布団を捲り、着物も捲りあげて足を見る。
すると、そこには赤い
「なに……これ……?!」
手の痕は両足にくっきりとついている。そこには覚えがあった。それはまさしく、あの影に掴まれた場所。
「ゆめ……じゃなかったの……?」
足につけられた手形を震える手で撫でた。その傷は永遠に消えそうにないように思えた。その痕が、心に刻まれた恐怖心の象徴であるような気がした。
温かいものが目尻を溢れ、頬を伝い、顎から足へと落ちた。足の肌にじんわりとした温もりが広がった。
私はひとり呟く。
「ゆめじゃなかったの……?」
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