壊れていく

 ぐらりと視界が揺れた。いや、森が揺れているのかもしれなかった。

 めまいがする。気持ちが悪い。

 それはルカと彼のどちらの本音だったか。


 うっそうとした森の黒い影が広場に迫ろうとしていた。

 夏の青空が木々の高い梢に狭く埋められていく。

 彼は一歩、二歩とルカに近づこうとし、よろよろと立ち上がったルカも同じだけ後ずさる。

 彼はまた、誰かに聞いた。そこに誰かいることを疑いもせず。いや、誰かから話を聞いたのかもしれない。それに、問うた。


「そうなったら、どうなるんだ。どうすればいい」


 何を言われたのかわからないが、それが森の話であることは明確だった。

 そして思ったような答えが得られなかったのだろう。ちっと舌打ちして「あてにならねぇな」と彼はごちた。どうすればいいのかわからず、不安なのかもしれなかった。

 不安なのはルカも同じだったが、どうすればいいのかは、もうわかっていた。


「私にはわかるわ、ハジメ。どうすればいいのか」

「ルカ……?」

「なかったことにするの。あなたをここにつれてきてしまったのが間違いだったんだから、それをなかったことにするの」

「何が間違いなんだ?」

「……間違いだから」

「だから、何が」

「だって、ハジメは」


 うるさいくらいにざわめく森の真ん中に立つルカを、彼はじっと見つめていた。だから、言葉に詰まった。うまく言えるかどうか自信がなかった。

 けれど、言わなくては。

 もうルカにはわかっていたから。いろいろなことが、わかりはじめていたから。


「だって、ハジメは違うから。ここに来ちゃだめだから」

「何が違うんだ」


 ぜんぜん違う。

 たとえば、青空の下を楽しそうに歩くところ。図書館で本をめくる姿。穏やかな微笑み。何より、どこへでも行ける自由。外の世界から来た人。この町のことが知りたくて来たんだ、とはにかみながら郷土資料を見せてくれた。知ってどうするの? と聞いたルカに、胸をさして「大切なものは自分の中に埋めておくんだよ」と言った。

 だから、ルカもそうするのだ。


「……埋めてしまわなければ。大切なものだから、森に守ってもらうの、隠してしまうの」

「それじゃわかんねぇよ! なに言ってるんだ、ルカ! 何を隠したんだ!?」

「なんで怒鳴るの……? ハジメはそんな人じゃないって思ってたのに」


 思っても見なかった強い言葉に、ルカはまただじろぐ。怯えて後ずさる。

 彼は、ぐっと唇を引き結んでから呼吸を整え、今度は静かに聞いてきた。


「……じゃあ、ルカの中のハジメは、どんなヤツなんだ」


 その質問になら答えられた。ルカの口の端に、自然に微笑みが宿った。


「優しい人。あんまりたくさんはしゃべらないけど、あったかい人。私の話を聞いてくれた。私を見つけてくれた。私を見つめてくれた。私に教えてくれた」


 鮮明に思い出す。

 いまなら、ハジメのことをなんでも思い出せるようだった。むしろ、どうして忘れていたのだろう。あんなに楽しかったのに。嬉しかったのに。


「だから、お気に入りの場所につれてきてあげたの」

「ここに?」

「そう。ここに。ハジメは、『とてもいい場所だね』って誉めてくれた。私はとても嬉しかった。嬉しくて――」

「ルカ?」


 ちりっと胸の中で何かがはぜたような気がして、ルカは黙り込んだ。それが何かはわからない。しかしそれが気になって、うまく言葉が出ない。

 誉めてもらって、嬉しかったはずなのだ。なのに、なぜ胸が痛むのか。


「……嬉しくて、どうしたんだ?」

「…………」

「――ルカ」


 穏やかな声で話しかけられて、自分が考え込んでいたことに気づいた。


 ぱっと顔をあげると、ハジメがルカを見つめている。ルカのお気に入りのこの場所で。優しい瞳で。それで、はっきりと思い出した。


 そうだ、ルカが連れてきたのだ。ここに、ハジメを。ここはお気に入りの場所だから、来てほしかった。でも、ハジメにとってはどうだろうか。そう思うと、急にドキドキしたのだ。さっき胸が痛んだのはきっとそのせいだ。感想を聞いてみたい。でも、あんまり好きじゃなかったらどうしよう……。


 ハジメは、ちょっと息を飲んだようだった。それから、微笑んで言った。


「ルカ。ここにつれてきてくれてありがとう。『とてもいい場所だね』」


 そうだ、ハジメがそう言ってくれたから。


「ありがとう! すごく嬉しい。ここは特別な場所なの。ここでは、私は自分を解放できるの。森が私に力を分けてくれるのよ」

「力を分けてくれるって?」

「えっ?」

「森が力を分けてくれるって、いま、言っただろう?」

「ええ、言ったわ」

「どういうこと? この場所は特別なのか?」

「そうよ」

「自分を解放できるから?」

「うん」

「力を分けてくれるって――どんなふうに?」


 もう一度ハジメに説明するのは、悪くなかった。むしろ嬉しかった。ハジメはわかってくれた。こうして言葉にすれば、より気持ちがひとつに寄り添う。そう思えた。だから聞いてもらえたことが嬉しくて、ルカは精一杯説明した。


「森の力をね、いっぱい分けてもらうの。森が私を愛してくれる、その気持ちを分けてもらうの」

「森が愛してくれるって?」

「そうよ、わかるでしょう? 森にいると、あなただって元気になるじゃない。元気を分けてもらってるっていう気持ちがわいてくるでしょう?」

「……わかんないわけじゃ、ないけど……」

「それが、私の生きる糧なの」

「だってそれだけじゃ生きていけないだろ」

「どうして?」


 その時、影がささやいた。


「そういう存在も、あるということだよ」


 彼が影に問い返す。ルカにはやはり、その言葉は聞こえていなかったから。


「それは、どういうことだ?」


「――君は、ヴァンパイアという言葉を知っているか?」

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