いもしない傍観者
木々にとらわれた彼は、ルカから遠かった。少なくとも二十歩はある。どんなに彼が手をのばしても、ルカに届くことはない。
うずくまって頭を抱えて――ルカは自分がとてもちっぽけな取るに足らないもののように感じた。足元がぐらぐらする。何も見たくない。聞きたくない。それなのに。
「ごめん、こんなふうに追い詰めるつもりじゃなかった。俺は、ただ知りたかったんだ。ハジメ伯父さんに何が起こったのか――くそっ、このままじゃどうにもならねぇ」
木々にとらわれた彼が暴れたのだろう、そんな気配がした。苦しそうなうめき声。可哀想だと思ったし、黙っていてとも願った。
やがて彼はルカに声を投げかけるのをやめた。諦めたのかもしれない。
いや、ひょっとしたらさっきまでのあれは幻で、そこには本当は誰もいないのかもしれない。
おそるおそる、顔をあげてみる。
彼は、消えてはいなかった。木々にとらわれたままだった。
だが――ルカを見ていなかった。
「なんとかしてくれよ。お見通しだったんだろ、こうなるの。あんたが俺に、伯父さんの日記を渡した時から。ふざけんな、最初っから教えとけよ!」
誰かに何か叫んでる。おかしな光景だった。
隣には誰もいないのに。そこには、森の黒い影しかないというのに。
「……いいからなんとかしてくれ」
彼が誰かに何か言っている。本当におかしな光景だった。
だが、それ以上に――不可思議なできごと。
彼を拘束する木に、黒い影が落ちた。まるで人影のようなそれに、木々がざわりとためらう。そうして、ほんの一呼吸ののちに――ずるりとした動きで、彼は拘束から解き放たれた。
枝がほどけ、葉が離れ、根が地中へと消えていく。
肩を回し、体が動くことを確認している彼から、目を離せなかった。
彼もまたルカに視線を向ける。目が合う。
そして彼は一歩踏み出し、広場の端に立っていた。
たぶん二十歩もない。そんな距離、一瞬だろう。彼はひといきに駆け込んでくるかもしれない。それが怖かった。
ぽかりと丸く天は抜けるような青空。降り注ぐ陽の光が、彼の足元に濃い小さな影を作っている。
このお気に入りの場所にあって、彼は強烈な違和感だった。
十年前にも、こんなことがあったのだ、きっと。不安をかきたてられずにはいられない。
「助かったぜ」
軽く振り返って背後に声をかける姿は、異様にも思えた。
「……ハジメ、誰と話しているの?」
「ハジメの日記を届けてくれたヤツ。こいつはナオっていって――」
「誰もいないわ」
「いるだろ、ここに。ほら」
彼はもう一度、半歩後ろを振り返る。そこは森の中、茂った木々の暗い影が集まっているだけだ。だが、ごく当たり前のように声をかけている彼は、まるで森と話しているようだった。
「どういうことだ? なんでルカにあんたは見えないんだ?」
もちろん、彼の言葉に返事などない。ただ森がかすかにざわめくばかりだ。
誰もいないのに、いるかのごとく話す彼の姿は、はっきり言って異様だった。
「いやだ、ハジメ、おかしなことばかり言わないで! そこにはあなたしかいないじゃない。十年前と同じ姿で……幽霊みたいな……」
「ルカ……」
名を呼ばれて、思わず肩が震えた。泣き出しそうだとも思った。彼が何か言うたびに、自分の中の不安が大きくなっていくのがわかる。自分の腕をぎゅっと抱きしめ、身を縮めることしかできない。
怖いのだ、彼が。
十年前と同じ姿で。同じ笑顔で。同じように、ルカをいたわりでもするかのような優しい瞳が、これほどまでに怖いのだ。
――ひそやかな、そして淋しげな吐息のように、風が梢を揺らした。
聞きたくなかった。それに、怖かった。だから、叫んだ。
「もういや、ここにあなたを呼んじゃいけなかったのよ。この場所には誰も入れてはいけなかった。なのに、私はあなたに教えてしまった。私だけの場所、秘密の場所……教えてしまったから、連れてきてしまったから悪いことが起きたんだわ!」
もう何も見たくない。何も聞きたくない。
心からそう思った。だから、ルカはただ自分を抱きしめることしかできなかった。
そして、ぞわりと森がざわめいた。
今までよりももっと深く。もっと重く。もっと黒く。
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