侵入者

 梢のかきならす不安の音に、ルカはぱっと振り返った。

 森の黒い木々の向こうに、見え隠れする少年の影。

 彼だ。


「来る……来ないで……」


 たちのぼってきた恐怖に、ルカは後ずさりする。だが、森のこの広場から逃げ出すことはできなかった。

 どこへ逃げても無駄だ、という気がした。

 いや、どこにも逃げられないと感じた。


 彼は、昨日とはうってかわって、とても歩きにくそうだった。道なき道をかきわけ、大きな枝にさえぎられ、服をとられ、地をはう根に足をとられそうになっていた。それでも、大きな手で木から身を守り、一歩一歩進んでくる。

 近づいてくる。

 この場所に。

 あと数歩で、彼はこの広場に踏み出してきてしまう――。


「来ないで!」


 思わず、ルカは悲鳴をあげた。

 恐ろしくて仕方なかった。

 だから、揺れた木々に絡め取られた彼が身動きできなくなっても、怯えて身をすくめたままだった。膝が震えて、立っているのが難しい。彼から逃げ出したい。


「ルカ!」


 彼が腕をのばす。それをとどめようと枝や蔦が彼の手に絡まる。それでも、彼は前に進むのをやめようとしなかった。


「動けない、やめてくれ! ルカ、君がやってるんだろう!?」

「え、な、なんのこと?」


 彼が何を言っているのかわからなかった。混乱して、目の前がちかちかする。


「私、何もしてない。ただ、あなたにここに来てほしくないだけ」

「なんでだよ? なんで君は逃げる?」

「あなたが怖いからよ!」


 悲鳴のように叫ぶと、もうとまらなかった。とりとめのない恐怖がルカを混乱させる。怖い。ダメ。来ないで。彼はこの森に来てはいけない。悪いことが起きる。悪いことが。よくないことが。


「怖いの……ハジメがここに来るとよくないことが起きる。それが怖いの、だから来ないで!」


 口に出したら、もうとまらなかった。


「……ハジメ……」


 彼がその名をつぶやいたら、もうダメだった。

 あの姿で、十年前。彼が教えてくれたのだ。ハジメ、という名前を。名乗った。少しはにかみながら。穏やかな笑顔で。変わらない優しい表情で。夏の図書館で。ルカに話しかけてきた。ルカの名を聞いて、微笑んだ。聖書の福音書と同じ名前だねと言った。聖書? と聞いたルカに書架から本を渡してくれた。あの夏の日。


「どうしてハジメは十年前と同じなの? なんでぜんぜん変わらないの? そんなの変じゃない。おかしいよ! あなた、一体なんなの?」


 言葉を投げつけずにいられなかった。

 人は、姿が変わる。成長しない人間などいない。それが生きるということだ。

 ならば、と気づいて、ルカは息を飲んだ。


 十年前とまるで変わらない、というなら。


「あなた、まさか、人間じゃない、とか……?」


 彼は、答えなかった。それが、恐ろしかった。


「何か――なんとか言ってよ」

「違う」

「そうなの? ハジメ、あなた、人間じゃないのね!?」

「そうじゃない!」


 ……本当は、なんと言ってほしかったのか。その時、ルカにはわからなかった。

 だが彼は叫んだ。違う、と。


「違うんだ、俺はハジメじゃない!」


 十年前、ハジメ、と名乗ったときと同じ姿形で。彼は叫ぶ。


「君が間違えるのも当然だ。俺は本当に似てるって言われてるから、でもそれは俺じゃない。それは――」


 ひゅ、と風を切って、枝が彼を打った。

 だが彼は言葉をとめなかった。


「それは、俺の伯父さんの名前だ。ハジメ……十年前、この町で行方不明になった。十七歳だった」


 彼が何を言っているのか、わからなかった。


「なに、を、言って、いるの……?」

「君が知ってるハジメは、もういない。俺は写真でしか見たことがない。お袋は、俺が伯父さんにそっくりだと言った。でも俺の名前は、イタルだ。ハジメじゃない」


 彼の言葉の意味が、わからなかった。


「嘘! じゃあ、ハジメはどこにいるの!? どうしてあなたが来たの!」

「どこにいるかは、俺が知りたい! 俺はそのためにここに来た。伯父さんの日記を読んで、ここに来たんだ」


 言うに事欠いて、そんなことを。

 ハジメには、そんなところがなかっただろうか。いや、これまで見せてこなかっただけなのだ。人が時折そういう態度に出ることを、ルカは知っていた。人はちょっとした冗談を口にする。それが荒唐無稽な話であってもいいのだ。そして友達同士で笑い転げる。何度も見てきたから、ルカも知っていた。

 思わず笑みがこぼれた。


「いやだわ、意地悪なんてして。そんな人じゃないって思ってたのに」


 だが、彼は笑わなかった。


「ルカ、ハジメは夏休みを利用してこの町に来た。そして君に出会った。毎日図書館で会って、親しくなった」

「そうよ。あなた、毎日朝から図書館に来たじゃない」

「俺が朝に図書館に行ったのは、1日だけだ」

「私に言ったじゃない。図書館が好きなんだなって。開館して30分後に来て」

「その日だけだよ」


 そんなはずはなかった。


「あなたはいつだって開館してすぐ来てたわ。この図書館に、わざわざ郷土資料を読みに来たんだって言ったじゃない」

「俺が読んでいたのは推理小説だ。俺は、普段、あまり本を読まない」

「推理小説?」


 そうだっただろうか? 

 だが、同時に覚えてもいた。彼は正面の席で言ったのだ。――「普段あんまり本読まないんだけど、まあ、手ごろかなと思ってさ」


「でも、あなたは教えてくれたわ。聖書には私の名前の福音書があるって。だから私、新約聖書を」

「俺と初めて会った時からずっと、君は聖書を読んでいたよ」

「わたしは――」


 そうだ。何度も何度も読んだ。『ルカによる福音書』。何度も同じページをめくった。彼が教えてくれたことだから。


「ルカ、君はハジメに『お気に入りの場所を教える』約束をした。ハジメの日記はそこで終わってる。そのあと、伯父さんは帰ってこなかった。見つからなかった。教えてくれ、ルカ。ハジメはそのあと、どうしたのかを」

「図書館で会ったのよ。図書館で会ったの。あなたは郷土資料を読みにきたって――」

「それは俺じゃない。俺が読んでいたのは推理小説だ」

「いや、ハジメ、意地悪言わないで、私にわからないこと言わないで!」


 とうとうルカはしゃがみこんだ。

 何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。十年前と同じ姿の彼が怖かった。


 うずくまって、頭をかかえていたから、ルカは、木々が強く彼をしめつけたことにも、彼が誰かと話していることも、気づかなかった。

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